JVO 日本バース機構
□*芳恋想*
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炎天下、輝く植栽の緑。
「わ」
前を歩いていた暖人が突然コケた。
「おー。気ぃつけ…」
…ろ、と。手を差し伸べようとした正宗の体がギシリと軋む。
「? ? ?」
何だ、こりゃ?
ぎょっとしたまま思わず暖人と見合わせれば、兄弟分はなぜだか鼻と口とを押さえていた。
九月最初の土曜日。残暑の陽射しを照り返す幾何学模様のタイルが眩しいアプローチは植栽を大きく回り込み、瀟洒なコテージ調のレストルームと腰洗い用のシャワースペースとを隠している。
暖人と隆宏と正宗と。
さすがはアッパークラスのスパダリα。夏の終わりを満喫すべく、樹がお店の子三人組を連れて来てくれたのは江陽にある完全会員制の超高級リゾートホテルだ。
「へぇ。サルデーニャの別荘は知ってたけど、ホテル会員権も持ってたんだ」
…という暖人の感心は異次元すぎて、この際聞かなかったことにした。
実際、眺めだけでも別天地だろう。聳え立つホテル本館こそ近未来的な造形ながら、石造りの正面ゲートやアプローチ周りの前庭、バンケットだろう別館はまるで中世ヨーロッパの宮殿である。
ここは、そのきらきらしいガラス張りの本館の足許、翼棟の屋上に造られた、やはりヨーロッパの噴水庭園を思わせるプールなのだが。
「……マサ」
しゃがみ込んだまま見上げてくる暖人が、少しばかり青ざめた顔で眦を決した。
「これ、威圧だ」
「…!?」
危うくすっ頓狂な声を上げそうになって息を呑む。マジか!? と咄嗟に目で訊いたものの、Ωである兄弟分がこの手のことで嘘や冗談を言うわけもななく。
「…動けるか?」
「どうにか」
「なら、管理棟に走れ」
樹には、そこからでも連絡できる。
まずは、警備に助けを求めるのが先決だ。
恐らく、この先で誰かがαに脅されている。
よろよろと覚束ない足取りで、それでも走り去るラッシュガードの背中を見送ると、正宗も軋む体でアプローチを走った。
(くそっ……ナニ考えてんだこんなトコで!)
完全会員制ゆえに利用できるのは個人会員なら本人とその家族、登録されたゲストのみ。法人会員なら社員とその家族、都度登録のゲストのみ。
何事かあれば、簡単に個人を特定できる場所である。
(バカだろ!)
何しろ樹が契約前の大事な番を連れて来たほどだ。利用者は基本的に高いステータスに相応しい振る舞いのできる人間ばかり―――本来なら、安全性は非常に高いはずの場所であった。
「っ…」
ままならない体でどうにか植栽のカーブを一つ越える。と、かすかな刺激臭が鼻を突く。グッと息詰まる胸苦しさとともに、やや屈み込む厳つい大男が目に飛び込んできた。
………その足許に踞る、小柄な少年も。
「ゴルァァァアアア! ガキ相手に何してやがんだ、このクソがぁぁぁあああ!!」
「ぐっ……!?」
ドゴォ! と。渾身の蹴りが炸裂したのは、偏にアドレナリンのなせる業だろう。
「優秀種が聞いて呆れらぁ、このクズ野郎!」
植栽に吹っ飛んだ巨体をそのまま男のパーカーで拘束し、ぐったりした少年を抱え起こしてぎょっとした。
ラッシュガードから覗くのは、華奢な首筋を守る、見慣れた黒い防刃繊維。
「おい、チビ、しっかりしろ! 今、救護室に連れてってやっかんな!」
αが放つ特有の威圧フェロモンは、吸い込めば強い筋緊張を起こす。フェロモン受容体の少ないβの彼ですら体が軋むのだ。至近距離で、鋤鼻器の整ったΩともなればその影響は如何ほどか。
とにかく、この場を離れなければ。
その思いで、正宗は小さな体を抱えて必死に走った。
それが、五年前のこと―――
* 芳 恋 想 *「……あ、マサさん!」
明るく華やいだ呼ばわりに振り向けば、途端に周りが色めき立った。
街はハロウィンのオレンジ色から、クリスマスの赤と緑へ。月が変わったばかりというのに、原宿駅からほど近いこのファッションビルもご多分にもれず館内は早くも年末仕様だ。
向かいにある、一際キラキラしい女性向け雑貨店を覗いていた客までが落ち着かなげに振り向いたのは……まあ、致し方ないか。
ふうわりとした、柔らかそうなくせっ毛。よく光る、大きな鳶色の瞳―――私学の制服に身を包んだ男子高生の二人連れだが、何しろ一方は少女と見紛う美少年ときている。
「おう。二人とも、買いモンか?」
直しようもない三白眼。相変わらずの強面で少しばかり苦笑いすると、正宗は書店内に向けて構えていたスマートフォンを下ろした。と、客を縫ってやって来た潤が、可憐な口許に咲き初めるような笑みを浮かべる。
「うん。ちょっと今さらなんだけど、ユージが参考書ほしいって言うから」
「お前だって今さらだろ。『花時計』の発売日は先週だっつーの」
そんなことを覚えている辺り、裕二の相変わらずな世話焼き加減が窺える。ひょっこりと頭が下がったからなおさらだ。
「ちわです、マサさん。すんません、お仕事中に」
「うわー。自分だけいい子ぶるとか、ユージずるい」
「るせぇ。親しき仲にも礼儀ありだろーが」
「ぼくだって、飛びつくの我慢したもん」
幼げな頬を膨らせて、潤が不満そうに幼馴染みを睨み上げると、襟元からチラリと覗いていた黒い防刃繊維がいっそうハッキリと晒された。
―――わ…やっぱり……。
―――どうりで…。
そこかしこから、かすかに納得の呟きが聞こえてくる。……お陰で、「いったいその三白眼とはどんな関係!?」とばかり好奇の目がこちらにまで飛んできて痛いくらいだったが。
「ジャレんのはいいが、静かにな」
「うん。ごめんね、お仕事してるのに」
そう。なにぶん仕事中である。居たたまれないことこの上なかったが、くしゃりと柔らかなくせっ毛を撫でて張り合いを止める。と、膨れていたΩの少年はくすぐったそうに笑って肩を竦めた。
その笑みが、ふと柔らかくなる。長い睫毛にけぶる瞳が蕩けたかと思うと、撫でている手をそっと捕らわれた。
「おい」
ダメだろ、と続けようとする裕二を目で制して潤を見れば、かすかな苦笑が返ってきた。
「えへへ…ちょっとホッとしちゃった」
「何かあったのか?」
「ううん。ただ、この間タカさんと花梨さんにミサに連れてってもらって」
「ああ、『諸聖人の日』な。大聖堂のヤツか?」
「そう。夜に出かけるとか滅多に出来ないし、大聖堂も昼間と雰囲気が違っていっそう厳かで素敵だったよ」
「おう。ハルが洗礼受けた時に俺も行ったわ」
と言えば、正宗の手を捕らえたまま潤も頷き、
「うん、タカさんが教えてくれた。お友達からサプライズでベールのプレゼントがあったとか、ファン垂涎のレア話。あとね、夜中でも開いてるスパニッシュバルで『聖人の骨』っていうお菓子とか祝祭日のごはんとかご馳走になって」
ふくふくと楽しそうに話す。あの当時は暖人に最適種―――いわゆる「運命のα」が現れて、樹が色々と不安になっていたりと周囲も気がかりが多かったのだが。まあ、当然ながらその辺りは伏せたのだろう。
「もうホント、すごく楽しくて………だから」
案の定そう言った顔が、しかし、また苦笑う。
「マサさんがいなくて、ちょっと寂しくなっちゃったんだ」
ごめんね、と。控えめに捕らえる手に力がこもる。
正宗は、捕らわれたままの手でなるたけ優しく少年の髪をかき混ぜた。
「謝ることじゃねぇ」
そう。誰にしてもあることだ。
ただ、Ωはそうした情動が顕著で、抑制が苦手だというだけで。
「寂しくても、飛びつくの我慢したんだろ? なら、上出来だ」
「………うん、ありがとマサさん」
微笑ってやれば、うっとりと香るような微笑みが返る。
―――〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!
途端、周囲の客が一斉に息を呑む気配が立ったが、むろんこの際はスルーだ。当の潤は気づいているのかいないのか、至ってふだん通りに戻るとニコニコと明るく笑って正宗の手を放した。
「ところで。ここの本屋さん、改装するの?」
「ああ、年度末にな」
苦笑って言いながら、あらためて掲げたスマートフォンをタップして売場の写真を撮る。
書籍取次業中堅の「株式会社ケーハン」。そのリテール事業部の営業部に所属する正宗は、書店の販売企画に携わっている。単純にフェアや併販を提案するだけでなく、場合によっては売場そのものをデザインしたり複合化を提案する仕事だ。
「ふふ、楽しみ。ちなみに、どんな売場になる予定?」
「普通に考えてそこは企業秘密だろ」
「えー」
と、またもや不満そうに頬を膨らせる辺り、潤はおよそ高校三年生とは思えない。が、すぐにふうわりと微笑む鳶色の瞳は落ち着いていて、仕種の稚さとは裏腹の聡明さを思わせた。
(まあ、実際に賢いけどな)
これは間違いなくα女性である父・摂子の英才教育の賜物だ。何しろ彼女は民間シンクタンク最大手・野々村総研の主席経済アナリストで、生まれながらのΩである息子の将来を見越して早くから投資の勉強をさせたというのだから恐れ入る。
潤自身、このために様々な知識や情報分析の力を身につけたのだろう。すでに少年投資家として財界では有名人らしく、学校の成績と言えば体育以外はケチのつけようがないようで、早々に大学部への内部進学が決まった旨の報告を受けたのがつい先日のことだった。
(んな賢いお坊っちゃまが何だって俺みてぇな冴えねぇリーマンに懐いてっかな………)
いや、原因は判っているし理解もしているが。