やさしいひとびと
□◆素敵な匂いの世界◆
1ページ/1ページ
あたしが生まれたのは、広ーいお庭のある大きなお家。
カリンはあたしのママのご主人様。いっぱいいた兄弟姉妹はみんな他所のご主人様にもらわれていったから、あたしも最初はカリンがあたしのご主人様だと思ってたんだけど。
「やあ、まりや。はじめまして」
なんと。ある時やってきた背の高い人が、あたしの名前をつけてくれたご主人様だった。
ご主人様の名前はイツキ。
(テレビの中にいる人だ!)
どうやって出てきたのー!? って大興奮で飛びついたら、にこにこ笑って抱っこしてくれた。わあ、いい人だわ。それにテレビの中にいる時には判らなかったけど、石鹸みたいな匂いの隙間からとっても美味しそうないい匂いがする。お母さんがオクデラさんと作るおやつとおんなじ甘い匂い。白いほっぺをペロッと舐めてみたけど…残念、甘くなかった。
ご主人様が大きなお家を出たのは、あたしが生まれるちょっと前らしい。その頃あたしはママのお胎の中にいたから、イツキはカリンに頼んであたしのご主人様にしてもらったんだって。
「もうちょっと大きくなったら、一緒に住もうね」
そう言って帰って行ったけど。あの頃はまだ今よりお仕事が少なかったから、あたしが忘れちゃわないようにマメに遊びに来てくれた。
もちろん嬉しかったけど。
「ふしゅっ! ふしゅっ!」
「あれ。まりや、どうした?」
どうした? じゃないわよ!
(鼻が痛い〜…)
クシャミが出たのは強すぎる花の匂いがしたから。あと、何だかイライラする変な匂いも。
胡椒みたいな匂いはご主人様がお仕事の時の匂い。その隙間を縫って、甘いおやつの匂いがするのはいつものこと。だけどご主人様ってば、それとは別に時々こういう匂いをくっつけて来るから小さい頃のあたしは困っちゃったのよね。
(−−−まあ、今はその心配もないけど)
ご機嫌で細い脚に摩り寄ったら、明るい声が降ってきた。
「あはは。まりや、くすぐったいよ。もうちょっと待っててね。これ終わったら遊ぼう」
ごはんを作る部屋。ハルがふにゃって笑う。うふふ、可愛いわ。
あたしがご主人様のお家に引っ越したのは一歳になってから。
ハルは、ちょうどあたしがこのお家に慣れた頃やって来るようになった男の子−−−男の子、だよね? 仲好しになってからだいぶ経つけど、今でもちょっと言い切る自信がない。
だって、不思議な匂いのする子なんだもの。
ハルからは、いつもふんわり色んな花の匂いがする。その隙間から、ご主人様が朝ごはんの時に飲む焦げた豆の飲み物みたいな匂いがするんだけど。これは男の子の匂い。
たくさんの花の匂いの中、いつも変わらず香る濃くて甘ーい花の匂いは、でも酸っぱくてさっぱりしてる。春にお散歩してるとよく見かける木に咲く小さな花の匂い−−−でも、これは女の子の匂い。
ね、不思議でしょ? ハルは自分の匂いを二つ持ってるの。
(あ。でも、カリンも二つだわ)
人間って不思議…。
だけど解っちゃったのよね。
(だってあたしももう小さい子じゃないものー)
ハルは明るくて優しくて、会えばご主人様とおんなじくらいあたしを構ってくれる楽しい子。だからあたしも、ご主人様とおんなじくらいハルが大好き。
ご主人様は、あたしよりもずーっとハルのことが好き。
あたしのこともいっぱい撫でてくれるし、いっぱいハグしてくれるけど。ご主人様はハルにいっぱいキスしていっぱいハグして、おやつみたいなあの甘い自分の匂いを必死になって摩りつけてる。
(…そいつ、お前のご主人の番だな)
去日トリミングで会ったスタンダードダックスの男の子が、あたしの話を聞いてそう言った。
(やっぱりそうだよね)
番−−−お嫁さん。
ハルは男の子だけど、女の子の匂いもするから大丈夫だよね、うん。
(そっか…ハル、ご主人様のお嫁さんなんだ…)
嬉しい。今はなんでかお父さんとお母さんみたいには一緒に住んでないけど。ハルがお嫁さんなら、ご主人様はきっとずっと幸せだもの。これからもハルがいつでも来てくれるなら、あたしもすっごく楽しいし。
ちょっと前に、ハルは大きなお家のご主人様の部屋で、ずっとベッドに臥せってたことがあった。
何があったのかはよく解らないけど、凄く悲しんでて弱ってたの。
あの頃はまだハルがご主人様のお嫁さんだとは解らなかったけど。仲好しだもの、やっぱり心配になる。だから、ママと一緒にずっとベッドでそばにいてあげた。
…その後からかな。ご主人様のマーキングが激しくなったの。最近はちょっと目に余る感じもあるのよね。恥ずかしいから加減してほしいわ!
でも。
(うふふー。ハルがお嫁さんー)
なら、あたしが一番身近なシスターフッドよね!
「でーきた。今日の晩ごはんは煮込みハンバーグだよ。まりや用のもあるから、一緒に食べようね」
「わふ!」
きゃー! 二人とおんなじごはん! もう、ハルってば大好き! やっぱり群だもの、同じごはん食べなきゃよね! ハルはこういうところ、とってもよく解ってくれてるからホントに大好きよ!
嬉しくて飛びついたら、「ここじゃ危ないからリビングに行こうね」って優しく頭を撫でて広い部屋に行く。
大きなテレビのある、このお家で一番広い部屋。
最初、お父さんとお母さんとカリンが住んでる大きなお家よりもずっと大きくてビックリしたのに、ご主人様のお家はその中にたくさんあるドアの一つだった。お庭もない。それでもごはんを作って食べる部屋と寝る部屋の他に幾つも部屋がある。お客様用の部屋はたくさんあるのにほとんど使ってないけど。
一番よく使うのがこの広い部屋。ご主人様はここにあたしのベッドを置いてくれた。昼間のこの部屋はお陽様がポカポカして明るいから大好き。ご主人様もハルもこの部屋で本を読んだりおやつしたりしてるから、ここは二人の匂いがする。一番安心する部屋。
…でも、ご主人様もハルも相手の匂いが判らないのかな? と言うか、人間には判らないのかな。
ちょっと前から、二人は自分の匂いの水をつけ合ってるのよね。大好きな匂いだからあんまり気にならないけど、あたしには少し強い。こんなことしなくても、ハルにはご主人様の匂いがバッチリついてるんだけどなー。
(ま、いいか)
お嫁さんが大好きな証拠だし!
ご主人様が帰って来たのは、ハルが遊び疲れて床にゴロンと転がった時。外に行くドアに飛んでいったら、ハルもすぐに追いかけてきた。
「わふ」
「ただいま、まりや。お出迎えありがとう」
「おかえり、樹。お仕事お疲れ様」
「ただいま、ハル」
あたしを撫でてくれた手で、ご主人様がハルをハグしてキスをするのはいつものご挨拶。いつもなら邪魔しないけど、この時あたしが急かしたのは早くごはんが食べたかったから。ちょっとお行儀が悪かったけど、二人は怒ったりしないですぐに晩ごはんにしてくれた。
………でも。ごはんの後は、番の時間なのよね…。
「ん…」
あたしも大好きな柔らかい長い椅子に並んで座ってたご主人様とハル。だいたい悪戯を仕掛けるのはご主人様で。ハルはいつもなすがまま。今もキスされてうっとりしてる。ご主人様のキス、長いのよねー…。
(ああ…ほら、また…)
すっかり力の抜けたハルが、柔らかい椅子に寝かされた。上から覆い被さるみたいなご主人様は、キスをしたままハルの体を優しく撫でてる。こうして見ると、ハルって小さい。ご主人様が大きいのかな。
「…んぁっ……」
あたしと違って、人間は脱げる毛皮を何枚も着てる。ご主人様の手がハルの毛皮をめくると、ハルは小さな体を大きく捩った。
(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜)
…ご主人様。あたし女の子なんだけど!? レディの前なんだから加減してよね!?
「わふ!」
ベロンと二人の顔を舐めてやったあたしは悪くないと思うわ!
きょとんとしたご主人様が、小さく笑った。
「ふふ。ごめんよ、まりや。またお前には解らない遊びをしちゃったね」
解るわよ! 解るから邪魔してるんでしょ!?
(さっさとベッドに行ってよね!)
おやすみ、まりやって。あたしの頭を一撫でしてから、ご主人様はハルを抱えて寝る部屋に行った。
せっかく落ち着く部屋にいるのに。もれ聞こえてくるハルの細い声にソワソワして、あたしはちっとも眠れなかった。
……この部屋に新しい匂いが増えるのも、そう遠い未来じゃないのかな?
END