IVO 国際バース機構

□いつか、晴れた日の庭で
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「っ………」
 吹き抜ける風に、濃い緑がざわめいてはめくるめく木漏れ日。
 きらきら、きらきら。
 針葉樹の合間に見える湖面のきらめきとも相俟って、輝く世界に思わず呆然とする。
 いつからだったろうか。目に映るすべてが、ぼんやりと遠くなってしまったのは。
「どうした、ビーノ」
 わずかに振り返り、見上げた仄かな微笑みにきゅうっと胸が締めつけられる。
 低く心地いい声は、もうずっと昔から安心感をくれていた。青い瞳は、それが当たり前のようにいつだって見守ってくれていた。
 そんなことは知っている。知っていて―――解ってはいなかった。
「……ぼくって、バカだったんだなぁとおもって」
 苦笑って答えた千里の頬を、ほろりと雫が一粒伝った。


     1

(…………あれ…?)
 寒い。
 薄暗い中、千里が目を覚まして最初に思ったことはそれだった。
(え。風邪ひい…た…のかな…ぼーっと…するし……)
 体も怠くて思うように動かない。
 どうにか首を横へ向ければ、なぜかアルコーヴの分厚いカーテンが開いている。そこから見えるロココ調の瀟洒な部屋には、壁のランプだけが灯されていた。
(夢……?)
 頼りない灯りのせいか、それとも目が霞んでいるのか。ただ薄暗いだけというには目に映る景色がおぼろげだ。
『…だ…か、いぅ……?』
 誰かいる? と言ったつもりが、出てきたのは掠れきった無声音で我ながら驚く。それでも静まり返っていたお陰か、気配が動いた。
 ぼやけた視界に現れた白衣の白人女性には、見覚えがない。
 ―――きぃぐぁつくゎれぇましぃたかぁ?
 うわぁん、と。水の中で聞く音のような輪郭のぼやけた声に、質問の意味を理解するのが遅れた。
 ―――きぃこぉえぇますぅくゎ?
 耳を指差すジェスチャーに、どうにか頷く。
『ど…なた…?』
 ―――わぁたしぃはぁ、ルゥィーザァ。くゎんぐぉしぃでぇすぅ。ぐぅわぁいはぁどぉですぅかぁ?
『さむ、ぃ…』
 ―――もぅふおもぉちぃしまぁすねぇ。すぅぐにぃ、せぇんせぇもきぃますぅくゎらぁ。
 そう言って微笑むと、ルイーザは視界から消えた。この時になってようやく、アルコーヴの脇に点滴スタンドが立っていることに気がついた。
(…え。僕…倒れたの……?)
 まったく身に覚えがないのだが。
 毛布をかけてくれたルイーザに礼を言って、あらためて記憶を辿る。
 七月の終わり、自分はいつもの夏のように、家人に付き添われて千佳と一緒にコマのラガーディア邸へやって来たはずだ。
 ここが見慣れた気に入りの離れの部屋なのだから、それは間違いない。
(…えぇぇぇ…僕、元気に遊んでた……よね……?)
 何しろ森に囲まれた旧伯爵邸の広大な敷地は、湖をまでも擁している。ハンティングこそしないが、釣りはルアーもフライも結構な腕前になったし、カヤックに乗馬、ちょっとしたキャンプ、と庭だけでやれることが盛りだくさんなのだ。
 ……いったい、どの時点で体調を崩したのだろうか。頭の芯がぼうっとして、全く思い出せなかった。
(体調…管理には、気をつけて…たん…だけどな…)
 夏の北イタリアは日本より日の出が遅く、その分さらに日暮れも遅い。日本でなら夕食が終わるような時分にようやく日が沈む。
 ほんの小さな頃から、バルッダサーレの帰省のたびについて来ていたことを思うと、少しばかり情けなかった。
(みんなに、心配…かけちゃった…な)
 千佳とバルッダサーレ、ヴィンチェンツォはもちろん、いつも側仕えについてくれる老メイドのバルバラに執事のダビデ、庭師や森番……。
(……まさか…フランカおじさまに連絡いってないよね…?)
 ぼんやりと美貌を思い浮かべて―――寒気が増した気がした。
 規模よりもその品質の高さで有名な世界的繊維ブランド「ラガーディア」。この総合繊維製造企業の社長にして母体となった紡績会社の創業家当主フランチェスカ・ディ・ラガーディアは、文字通り世界中を飛び回っている超絶多忙な経営者で父の大親友だ。
 バカンスシーズンを迎え、そろそろ屋敷に戻ってくる頃だとは思うが、下手に心配をかけては予定を切り上げてしまいかねない。
 そんなことになったら申し訳なさすぎる、と。ぼんやりした頭で千里が戦々恐々とした時、かすかにノックが響いた。
 ―――やぁ、こぉんばんはぁ。わたぁしぃはぁ、ロォベルトォ・ニコォロォ。きぃみぃのぉしゅぅじぃいだよぉ。
 屋敷のお抱え医師ではない。ごま塩頭の初老の医師は初めて見る顔で思わず怯んだものの、その向こうに労しげなバルッダサーレを見つけてホッとした。
 ―――くぅわしぃくぅ、ぐぅわぁいをぅきぃけぇるぅくゎなぁ?
『…さむ…ぃ…だぅく…て、ぼー…っと、すぅ。おと…が、うわぁん…て、きこぇ…て、めも、みぇる…けど、なんだ…か、ぼん…やり……』
 ―――そぉお。じゃあ、きぃみぃのぉことぉをぅくゎくにんしぃてぇいぃこぉかぁ。おぉなぁまえぇはぁ?
『とぅ…どう、せん…ぃ…』
 ―――しゅっしぃんのぉおくぅにぃはぁ?
『にほ…ん…こく…』
 ―――おとぉしぃはぁ?
『じゅぅさ…さぃ…』
 特に面持ちを変えるでもなく、ニコロは頷きながら聞いている。が、ここでバルッダサーレがわずかに身動いだ。
 なに? と思いかけた違和感は、しかし次の質問に押し流された。
 ―――いぃまぁはぁ、なぁんがつぅですぅかぁ?
『…えぇ…と、しち…がつ……?』
 何日も寝込んでいたのでなければ、まだ月は変わっていないはず。そう思って言えば、初老の医師は苦笑した。
 ―――ざんねぇん、いちぃぐぁつぅだぁよ。きみぃはぁ、はんとぉしぃくらぁいぃこぉんすぅいとぉこぉんだぁくぅをぅくぅりくゎえしぃてたんだぁ。
『ふぁ……?』
 昏睡と混濁―――半年も。
 何がどうしてそうなったのか。衝撃的な説明に、うっかり可笑しな声が出た。
 ―――おぉどぉろくよぉねぇ。ねつぅぐゎでてぇ、たぁおれぇちゃったんだぁ。ぼぉーっとするぅのぉはぁ、ねつぅのぉダァメージィだねぇ。いぃまぁはぁ、ゆぅっくぅりぃりょうよぅしよぉう。
『……は…ぃ……………』
 半年…半年………と、頭の中でグルグルと廻る。
(……え…うそ…心配…かけた、なんてもんじゃ…ない…じゃん………)
 何しろ地球が太陽の周りを半周するほどの期間、意識を失っていたのだ。
(……ち…千佳、大…丈夫…かな………)
 二卵性というのに、同じくオメガに生まれついた双子の妹。勝ち気に見えてもオメガらしく繊細な片割れは、きっと死ぬほど心配しているに違いない。
(…ど……しよ………)
 千佳だけではない。バースカップルの両親にとって、オメガである自分たち双子は溺愛の対象だ。長らく意識のなかった自分はもちろんのこと、恐らく落ち着きをなくしている妹にも気を配っているだろう。
 はたして、どれだけの心労か。
 それは、近ごろ番契約を前提に交際を始めた兄とその恋人にとっても同じであった。……むろん、藤堂家とは互いにホストファミリーの関係にあるラガーディア父子、千佳の婚約者であるヴィンチェンツォや彼の家族にとっても―――
 次から次へと思い浮かぶ大切な人たちの顔に目が回りそうになった時、
 ―――ビィノ。
 間延びした、だが低く心地いい声に呼ばれてハッとした。
 ぼやけた視界を占める限りなく黒に近いブルネット、労りのこもった青い瞳。ヒョロリとして見えて、その実アルファらしく鍛わった長身。
「…さー…れ…にぃ…さん」
 ―――めぇがぁさぁめてぇ、よぉかったぁ。
 無愛想と言われてしまう、決して表情豊かとは言えない面に浮かぶほんのりとした笑みに、目の奥がじわりと熱くなる。
「ぅん…しんぱ…ぃ、かけて…ご…め…ね……」
 ―――あやぁまるぅことぉじゃぁないぃ。いまぁはぁ、しっかぁりぃやすぅめぇ。
 思わず出てしまった日本語に、本当なら流暢なはずの日本語で優しい言葉が返ってくると、堪えきれずに涙がこぼれた。
「さーれ…にぃ…さ……、ぎゅ…て、して……?」
 中学生にもなって何いってるのかな。
 そんなことを思ったが、体は勝手に重たい腕をノロノロとバルッダサーレに伸ばしてしまう。
 いつの間にか、いや、あるいは目を覚ました時にはすでに表出していたのかも知れない。甘ったれで依頼心の強いオメガの本能が、千里の主人格を圧して強く現れていた。
(…ほんと…に、具合い…悪い…んだな……)
 本能の抑制は割と得意な方だったので何気にショックだ。
 伸ばされた手に応え、優しい兄分は長身を屈めると横たわる彼の体をそっと起こして抱きしめる。しっかりとした長い腕の力強さと染み入るような温もりに、大きく安堵の吐息がこぼれた。
 ―――だいじょぅぶぅだ。みぃんなぁ、せぇんりぃぐぁだいじぃだぁくゎらぁしぃんぱいぃすぅる。ごぉめんはぁいらぁなぁい。あぁりがぁとぉってぇいえぇばぁいぃ。
「…ぅん…あり…ぁ…と、さ…れにぃ…さ……」
 その首すじに摩りつけば、かすかに匂う、甘い香り。
「…いぃ…にぉ…い……あ…もん…ど……?」
 うっとりとしかけ―――咄嗟の危機感が、オメガの本能を凌駕した。
「え、こぇ…にぃ…さ…の、にぉ…!?」
 ままならない体で、それでも身動ぐ。辛うじてカラーの擦れる感覚が一欠片の安堵をくれたが、これがアルファの二次性フェロモンならばバルッダサーレにとって今の自分は危険な存在だ。
 が。
 ―――しぃんぱいぃするぅな。ちゃぁんとぉ、おまぁえぇはぁくすぅりぃをぅつくゎってぇるぅ。
 ぽんぽん、と。大きな掌が、背中を優しく宥める。
 ―――けぇいこぉピィルゥとぉ、おなぁじせぇぶぅんのパッチィやぁくをはってぇるぅよぉ。
 経口ピルと同じ成分のパッチ薬。ニコロが、慌てるでもなく説明してくれた。擬似妊娠中ならば、ヒートは起こらない。

 
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