やさしいせかい
□tefsir al-ahlam
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表紙提供:黒獅様 § 出逢う §
―――アクバル、ラシード……。
幼い自分の背を撫でながら、母が細い声で二人の乳兄弟を手許に呼んだのは沈香ただよう病臥の寝室だった。
花に例えるなら、きっと母は野ばらだったろう。
八重咲きの華美さはないものの、Ωらしく可憐で、清廉な気品を湛えた文字通りの姫君であった。慈しみ深く、忙しい公務の合間にも自分と乳兄弟たちとを隔てなく扱い、乳母のサハルと二人で目一杯の愛情を注いでくれた。
だからこそ。
久し振りの面会に喜んでいた乳兄弟たちは、衰えた王妃の姿に愕然とするばかりだった。
「お願いよ…こちらへ、来て…ちょうだい……」
臥したまま招く手に、ラシードの大きな目が決壊した。
健康的なオリーブ色だった膚は、白人よりも白く斑に色が抜け落ちている。
早熟なαの自分の守役たるべく背伸びを覚えたとは言え、まだ五歳。それでも必死に声を堪える弟の背を、アクバルがそっと促した。
同い歳、だが歳なりより少しばかり小柄な乳兄弟を抱きしめてやれば、その自分ごと、母は決して長くはない腕を伸ばして静かに泣く背を宥める。
「……ラシード…優し…い子。小さな、お兄…ちゃん。アインを、お願い…ね」
嗚咽を堪える乳兄弟が、声もなく頷く。
「アクバル…は、アインと、ラシードをお願…い……」
十一歳にしては大きな体。それでもまだ稚い少年が、御意、と畏まった。
「アイン…アイン・マァ。わたしの、可愛い…小さ…なチェシュ…メ・アラ。お父様…と、ハーリ…ド叔…父様を、頼り、なさい。アク…バルと、ラシー…ド…は、いつも、そばにいて…くれま…す。守っ…ても、くれ…ましょう。でも、本…当の意味で、二人を…守るのは、お前…です」
そこに異母兄の名がないことの意味を、幼いながらもアインは正確に理解した。歳の離れたβの兄は、αの自分をいたく嫌っている。
「……夢を…見たの。お前が、産…まれる…前、何度…も。綺麗な…それは綺麗…な、泉の、夢を……」
知っている。母からも乳母からも、父からさえ何度も聞かされた話だ。まるで天国のような、花の咲き乱れる美しく豊かな泉であったと。
アイン・マァ―――湧水、泉。
本来であれば女性にしかつけられないこの名は、神託の夢‐ルイヤー‐によって許され与えられたまさに神の祝福だと。
「必ず、幸…せに、なれる…わ……」
うっとりと優しく微笑んで、しかし疲れたのだろう、母はうとうとと穏やかな眠りに落ちたのだった。
(……………夢、か…)
ふう、と息を吐いて、アインは天蓋の帳に目をやった。
すでに夜は明け始めているらしい。隙間から弱い光がもれている。
何ともやるせない夢だ。
結局、母はあのまま目を覚ますことなく、番であり夫である父に看取られながら二日後に息をひきとった。
それだけで、息を忘れそうなほどであったのに。
その後にラシードを、父王ラヒムを、さらに乳母のサハルをまで立て続けに喪ってしまうとは。
そのサハルを弔ってから五年余り、アインはもうすぐ十八歳になる。
子供が大人になるほどの年月が経った。
「……楽園の夢というのは、なかなか見られないもののようだね」
苦く微笑って身を起こせば、宿直‐とのい‐の侍従が気づいて帳を開ける。挨拶に応え、身支度を整えると、彼は宮殿内の礼拝堂へ向かうべく寝室を後にした。
その道すがら、柱廊から今はまだ薄明の中で眠っている庭を見遣ればふと口許が弛む。
母の見た夢の泉がはたしてどれほどのものか、むろん想像する他はなかったが。
陽さえ昇りきってしまえば、そこにはまさしく楽園と見紛う眺めが広がるのだ。
いや、庭ばかりではない。
照りつける陽射しに煌めく、常緑樹の滴るような濃い緑と咲き乱れる色とりどりの花々―――ペルシャ湾の珠玉、イスマイリア。
オアシス都市である首都ワーハ・ヤシュムは元より美しかったが、大規模な海水の淡水化プラントによる水道事業の成功が国内の至るところに緑をもたらし、ここイスマイリアは砂漠の国でありながら目を見張るほど潤い豊かな眺めを誇っているのである。
兄のアブドル・マジードが王太子宮に訪ねてきたのは、そんな麗しい昼時分だった。
「すまんな、アイン・マァ。去日もご機嫌を伺ったが、すっかり頑なになってしまわれてな」
二つ三つ近況を確認すると、執務室のソファに深く身を沈めて悩ましげに息を吐く。
恰幅がいい、と言えば誉め言葉になろうか。
残念ながら亡き父王の面影のない異母兄は生母に似て太りやすいらしく、いつの頃からかゆったりした長衣‐カンドゥーラ‐の上からも判るほど丸いフォルムになっていた。それに伴って性格もずいぶんと角がとれたように見えるが、柔和な苦笑はその実まるきり目が笑っていない。
(相変わらずの嫌われようだな、私も)
まるで他人事のように呆れながらも、アインはただ労しげに微笑んだ。
「母君もお寂しいのでしょう。懇意になさっていた夫人の多くが降嫁なさいましたし。父上の思い出と兄上だけがよすがであられるのですから」
とうに組織を解体されていなければならない先王の後宮‐ハリム‐。現在の王宮が出来て以降、改修を重ねて代々の国王が後宮として使ってきたその棟に、アブドル・マジードの生母アシュラフ夫人は今も数人の夫人とともに「ラヒム王を偲びながら」暮らしている。
実際、気の毒な人だとは思う。何しろαは生殖能力が低い上に、その因子は劣性遺伝である。若くして入宮し、多くの夫人の中でやっと子供、それも男児を授かったアシュラフ夫人はその後長らくハリムの女主人のように振る舞っていたのだ。
その時間が、災いしたのかも知れない。
アブドル・マジードはβだったが競合する兄弟もなくすんなり立太子されるはずで、そうなれば無位の彼女が立妃され名実ともにイスマイリアの王妃となる……と叶わぬ夢を見てしまったのだろう。
薔薇色だったハリムの日々に、ある時アインの母となるシーリーンがやって来た。美しく可憐な十八歳の夫人、しかもこれまで後宮には一人としていなかったΩの。
盛大な婚儀と立妃礼、そして密やかな番契約。生まれてきたのは、伝統的に継承権を優先されるαの男児。
この上、ラヒム王が実は何年も前から王妃としての教育を与えつつシーリーンの成人を待っていたのだと知ったのだから、母子ともども裏切られたと感じなければ大嘘であろう。大葬礼後に「王宮の主は今もラヒム様よ!」とヒステリーを起こしての卒倒を繰り返し、医者を味方につけたアシュラフ夫人に幼くして理不尽にも追い出されてしまった当のアインですらそう思う。
「ですが、困りましたね……」
微笑みを翳らせて、ひっそりと嘆息する。と、異母兄はピクリと片頬を震わせた。
即位戴冠を目前に控えながら第一王太子が王宮におらず、先王のハリムが残っている異常事態。
しかし、伝統文化の継承と実践による維持とは憲法に定められる王室の義務なのだ。
ラヒム王の崩御から八年。心情を斟酌したとしても、アシュラフ夫人の行いはすでにして度を越し国民の反感を買っている。慣例によって順位こそ逆転したものの兄弟間の王位継承権は平等であり、いずれは王位に就く予定のアブドル・マジードにとっても上手くない事態なのは間違いない。
「…ともかく、母上には近々に納得して頂くのでこの件については任せてほしい」
苦く口許を歪める辺り、さすがに自覚はしているようだった。
「―――ご自分から伺候にいらっしゃるとは、だいぶ焦っておいでのようですね」
その後アブドル・マジードに割り当てた属領の議事報告を簡単に受けて会談を終えると、彼を見送ったアクバルがきっちりと扉を閉めて振り返った。
「兄上も王室の務めは心得ておいでだからね」
それこそアインが生まれるまでは、アブドル・マジードが第一王太子となるはずだったのだ。当然と言えば当然である。
だが母の癇気に便乗して異母弟を王宮から追い出し、溜飲を下げたツケが今になって回ってきた。唯一自分の矜持を保てる「国王のハリム」に妄執する母は、現状、息子の首枷となってしまっている。
三ヶ月後の戴冠式までにこの件を収められなければ、母子ともども国会による審問からの訴追は免れまい。
ただでさえ繰り下げられた継承権が剥奪されかねないのだ、焦りもするだろう。
やれやれと苦笑いをこぼして、アインはアクバルから差し出された温かい紅茶を啜った。
「本日の面会はあとお二方です。その後は軽食を召し上がってから、ブルジュ・ウマルのコンベンションホールで植物工場展の観覧となります」
「解った。……次の方をお通ししてくれ」
カップを下げさせると、アインは居ずまいを正して隣国の大使を招き入れた。
* * *
砂まじりの舗道を行く雑踏、親しげな談笑に明るく熱心な売り声。
混じり合った喧騒が、ざわざわと丈高い白亜のアーケードに反響している。
昼下がりの市場‐スーク‐は日常の買い物をする市民と土産物を物色する観光客とで一際賑やかだ。
(やっぱりちょっと浅草っぽいかな)
ごちゃごちゃな感じが。
来るたびにそんなことを思う。そして少しだけ懐かしい気持ちになった自分に、外国にいるんだなあ、と口許が小さくにやけるまでがセットだった。
蓮は半年前このイスマイリア王国の王立大学に入学した社会福祉学科の秋期生だ。日本の繊維企業大手に務める父がこちらの支社に赴任していたことから、その勧めで高校卒業とともに渡航、無事に合格して、今ではこうして大学の外でも砂漠の国の生活を大いに満喫している。
(たかが買い物なんだけどね)
しかし、されど買い物、である。
何しろ、二年以上をかけたのだ。