空ハ青ク澄ンデ

□第三十話
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「然う来たかァ」

太宰治の楽しそうな声が響く。趣味が悪いが、太宰治ならば俺の意図を汲めるとは思っていた。

「高い代償が付きそうだ」
「きちんと御支払いを。我ら≪組合≫、為すべき事を為す組織。俺と云う損失分を補填しろ」

水を吸った服が貼り付いて重い腕を頭より高く掲げ、中指を立てる。
是以上無い程、喧嘩を売った。
──若(も)し本当に俺を始末する気なら。
──若し、俺の考えが外れたのなら。

武装探偵社は、フィッツジェラルドを敵に回す事になるだろう。オルコットが無数の策を手に徹底的に追い落とし、フィッツジェラルドが怒り報復する。

「考えておくよ」

是以上は水が多い。もう口を開くのは避けたい。
ドストエフスキーの方を見れば、ゆっくりと頷いた。矢張りもう是以上喋っては危険だったらしい。
太宰治の声は未だ続く。最早何を云っているか聞き取るのは難しい。
大きく息を吸って、止める。両手で口と鼻を押さえて呼吸をしない様にする。

止めて数分もしない内に、水が一杯になって大きく流れ出した。勢いに飲まれて、手を離しそうになった時温かい手が俺の鼻と口を塞いだ。

「夜宵!」

ぼうっとする視界と思考に、頭が整理出来ずにいる。俺の躰がグッと持ち上げられる感覚があった。

「確りして下さい。水は飲んでいませんね!?」
「飲んで、無い」

真横にはドストエフスキーの顔があった。俺を抱えていたのは中原中也だった。

「本、濡れたなァ……」
「本来貴方が持っている本があるでしょう。後で取り返しますよ」

手元にあるのは、ドストエフスキーがくれた紺色の表紙のもの。確かに緋色は無かった。
俺は落ちる前、二冊とも持っていた。其れは間違いない。だから、緋色の本は恐らくゴーゴリが持っているのだろう。
ドストエフスキーには、探偵社が返していないと思われている様だが。誤解は解かない方が善い、何となく都合がいい。

「完全に足手纏いの荷物になった訳だが?」
「元より、貴方は此の賭けの対象外。巻き込まれている事こそ怪訝しいのです」

若干の怒りを感じるドストエフスキーの言葉に、確かになと返して起き上がる。水を吸った服の所為で重い。
此れじゃ身体強化前と変わらない気さえする。

「では、行きますよ」
「疲れた……」

本当、何でこんな事に巻き込まれてんだと思う。ベストを脱ぎ捨て、ブラウスも脱ぎ捨てると、ドストエフスキーが此方を見ていた。

「貴方、然うしてると男性なんですけどね」
「女顔は百も承知だ」

正直女袴(スカート)も脱ぎたい所だが、是を脱ぐと変質者と呼ばれるだろう最悪な絵面になる為、渋々脱ぐのを諦めた。足に貼り付いて気持ち悪い。

「嗚呼、大分軽くなった」
「無理せずに。ゆっくり歩きましょう。中也さん、或る人を連れて来て下さい」

或る人とやらが気になったが、中原中也は頷いて直ぐに動いた。聞く事は出来なさそうなので、ドストエフスキーに向き直る。

「誰の事だ?」
「些細な事ですよ」

矢張りと云うか、答えては貰えなかった。
然(しか)し、先刻(さっき)から苛ついているのが判るほど感情的だ。

「寒いのか?」
「否(いえ)。何方かと云えば、其れはぼくが貴方に聞きたい事ですね」
「少し。隙間風が吹いている気がする」

然う答えると、或る部屋に這入った。其れは機械のある部屋の隣で、目が覚めた時に居た部屋に似ていた。

「此処で休んでいて下さい。少し用が有るので、ぼくは隣に居ます」
「判った。悪い、ドストエフスキー」

冷酷非道。悪をも裁く悪。
そんな男が俺を慈しんでくれる事が、本当に奇跡だった。
だから自然と謝る言葉が出た。味方になった心算は無いけれど。

「貴方が気にする事ではありませんよ。無事で善かった」

悪意の無い、其の慈悲深い笑みを見るのは二度目だった。
是が十八番の操心術なのだと云われても、俺はもう疑う事が難しいだろう。

「有難う」

何故。
何故、斯うも此の世界の悪は俺に優しいのか。

俺の礼に笑みを返して、ドストエフスキーは部屋を出た。
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