だからどうした

□34 愛よ伝われ
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ふわふわと、起きたり眠ったりを行ったり来たりしていた時のこと。

最中に何度も名前を呼ばれたせいか、夢現にも俺を呼ぶ智樹さんの声が聞こえてきて、ふへ、とだらしない息が口から洩れる。

するとその声が止まったからゆっくり瞼を持ち上げれば、気まずそうな目が俺を映していた。

また夢にするところだった。危ない危ない。


「ごめん、起こした?」

「……また俺が寝てるときばっかり」


尖らせた口から不満をこぼせば智樹さんは苦笑を浮かべた。


「早く呼び慣れようと思って」

「俺が起きてるときに呼ばないといつまで経っても慣れないと思うんだけど?」

「いや、聞かれてると思うと、なんというか……緊張するから、徐々に慣らしていこうかと」


まあ、気持ちはわからなくもない。俺だって初めて智樹さんを智樹さんと呼んだ日は心がそわそわして落ち着かなかったし、しばらくは呼ぶたびに緊張もした。

でも最中の智樹さんは緊張してる素振りもなく、情欲をはらんだ声色で何度も何度も「雅孝」と。


「してる時はいっぱい呼んでくれたのに」

「っ、それは、……夢中だった、から……」


思い出したのか、智樹さんの顔は赤くなって言葉は尻すぼみになっていく。

またそうやって俺の心をくすぐるんだから。これじゃ今すぐ襲ってくださいって言ってるようなもんだよ。

でも今は気分がいいから抱きしめるだけにする。

そうして背中に腕を回せば腕の中の体が、ぴく、と小さく揺れるから、その反応にまた心をくすぐられて、やっぱり見境ないなぁ、と自嘲する。


「ねぇ、旅館の時と俺が気付いた時と今。それ以外で呼んだ時ってあるの?」


返事はないけど首が縦に動く感覚があったから俺はまた唇を尖らせた。


「駄目だよ。呼び慣れないやつも聞かせてくれないと」

「……わかった」


返事は渋々だったけど聞かせてはくれるようだ。

そっと体を離して顔を見てみると智樹さんが少し不満そうにしていたから小さく笑えばさらに不服そうに眉根が寄った。

本当にわかってないなぁ。


「智樹さん」

「なに」

「好き」


智樹さんは未だに気持ちをまっすぐ伝えられると照れるのか寝返りを打って俺に背を向けてしまった。でもそのすぐ後に「俺も好き」と消え入りそうでも力強い声が耳に届いた。

髪の隙間から見える耳は赤い。

俺の頬はたぶん今までにないくらいに緩まってる。

ああ、もう、本当に、好き。この気持ちはこれからもずっと変わることはないんだろうな。




あれから智樹さんの「吉井君」は封印され、ぎこちない「雅孝」が増えた。もう、毎日が幸せすぎて幸せだ。

そんなある日の仕事中。

信号待ちをしているときにふと歩道に目を向けると見知った顔がそこにあった。

その顔は幸せそうに隣の男に笑顔を向け、男もまた同じく幸せそうな笑顔を莉穂に向けて、何やら楽しげに話をしながら信号が変わるのを待っている。

あれが懐の深い男か。確かに優しそうな男だ。

そんな幸せそうな二人につられて頬が緩む。

するとなんだか無性に智樹さんに会いたくなった。


なのになんで豊島さんが目の前にいるんだろうか。まあ、仕事だからしょうがないことなんだけど。


「ご苦労様。もう少し早かったら柊いたのに残念だったな。あ、荷物は奥に運んでくれないか」

「……わかりました。サインお願いします」


伝票とボールペンをカウンターに置いて、再び荷物を持ち上げ奥に向かう。

相変わらず余計なことしか言わないな豊島さんは。いないならいないで何も言わなくていいのに。

いや、わかってる。それが豊島さんという人間だってことは。わかってはいるけど、もしかしたら智樹さんに会えたかもしれなかったという事実が会いたい欲求を膨れ上がらせたから、本当に、正直なことを言うと腹が立った。

まだまだ仕事は終わらないのに。

溜息を吐きながら荷物を置いて戻ってくると、サインを頼んでいた伝票と一緒に持ち帰り用のコーヒーが置かれていた。


「さっきは悪かったよ。仕事頑張れ」

「……ありがとうございます」


反省を微塵も感じ取れない笑顔でのお詫びとコーヒーを受け取って店を後にする。

豊島さんはしょうがない人だけど、でもどこか憎み切れないというか。長年付き合いを続けている智樹さんの気持ちがわかったような気がして少し嬉しくなった。


そんなことがありながらやっと仕事が終わって帰り支度をしいる背後で、明日は休みの先輩と新人君がこれから飲みに行こうと騒いでいた。

なんだか嫌な予感がするから早々に帰り支度を終わらせてこっそり帰ろうとするも。


「あ、吉井さん!」


新人君に目ざとく声をかけられ、無視をするわけにもいかず溜息を飲み込んで振り向いた。


「なに」

「吉井さんもどうっすか」

「行きません」

「えー。俺まだ吉井さんと飲みに行けてないんすけどー」


不服そうな新人君に先輩がなだめるような声で「吉井は誘っても来ねぇよ」と投げかける。続けて。


「うちで待つ愛しの彼女に早く会いたくてしょうがないもんなぁ」


言いながら隣に来た先輩が脇腹を肘でつついてくる。それをあしらいながら「だから彼女はいないって言ってるじゃないですか」と否定するも、「照れるな照れるな」といつものように取り合ってくれなかった。


「え、吉井さん、彼女いたんすか?!」

「いやだからいないって言ってるでしょ」


新人君にも同じように否定したけどこっちもニヤニヤして「彼女がいるならしょうがないっすね」と、同じように全く取り合ってくれなかった。どうやら照れ隠しと思われたようだ。

間違ったことは言ってないんだけどな。


先輩と新人君にひとしきりからかわれ、やっとのことでついた帰り道。

待ち遠しくて、声が聴きたくて、我慢できずに今から帰ると電話しようとした瞬間、タイミングよく着信音が鳴った。

まさか智樹さんからか、と抱いた淡い期待は画面に表示された姉貴の名前に打ち砕かれた。落胆したのもつかの間、前例もあるので早々に通話を始めるともしもしを言う暇さえなく「今から来て」とそれだけで通話は終了した。

なんなんだ、いったい。

逸る気持ちを抑えて、とりあえず姉貴のところへ向うことに。

インターホンを押し、せめて用件を言えとか返事くらい聞けとか、一通り姉貴への文句を考えながらドアが開くのを待つ。しかし開いた扉から顔を出したのは健一さんだったから、考えていた文句はどこかへ飛んで行ってしまった。


「いらっしゃい」

「いったい何の用?」

「ま、入れよ」


まったく、二人して用件を言わないんだから。

呆れて文句を言う気も失せる。

健一さんを追ってリビングまで来てみると姉貴はせっせと料理を保存容器に詰めていた。そして俺に気づいて「ちょっと待ってて」とその手を速める。

健一さんにどういうことかと聞けば、やっと用件が判明した。

おかずを作りすぎたので持って帰れ、ということだった。

ほんの数秒で済むだろなんで電話でそれを言わないんだ、と新たな文句が浮かんだけど、正直なところ姉貴の料理は美味いし久しぶりだったから、浮かんだ文句は健一さんに渡されたお茶と一緒に飲み込んだ。


「ちょっとはマシになったんじゃねぇか?」


ソファに座ると隣に健一さんがやってきて、キッチンに目を向けながら俺に問いかけてきた。


「何が」

「京香のブラコン」

「そう?」

「だって今の住所聞かれてねぇだろ?」

「あ」


言われてみれば聞かれた記憶はない。そういえばなんやかんやあったあの日から電話の回数も減ったような気がする。ゼロになったわけではないから気が付かなかったけど。


「だからこうして呼び出すことでお前の様子を確認したいんだろ。これくらい許してやってくれ」

「……許す許さないも、面倒なだけで別に怒ってるわけじゃないから」


言ってからにんまり笑う健一さんに見透かされているのが居た堪れなくなって、お茶を一気に飲み干し、逃げるように姉貴の手伝いに向かった。

その背後で小さく笑う声が聞こえたけどたぶん空耳だったと思う。

手伝いの甲斐あって、詰め作業は早々に終了した。

玄関で靴を履いて振り返り、姉貴の手から保存容器が入った紙袋を受け取る。

手伝いの段階で分かっていたことだけど、改めて中を見れば初めから作りすぎるのが目的であるかのような量でつい笑ってしまった。

しかも好物ばっかりなんだよな。


「あ、雅孝……あの、えっと……」


はっきり物事を言う姉貴が珍しく塩らしい。隣に立つ健一さんも物珍しい視線を姉貴に向けている。

いつものぶっ飛んだブラコン発言をしてくれたら売り言葉に買い言葉で言い返せたものを。

いや、ここはいつか感じた感謝も込めて素直に礼を言おう。


「ありがとう姉貴。味わって食べるから」


俺の言葉を聞いて姉貴は安堵したような顔で笑ってくれた。


そうして再びついた帰り道。

かけようと思っていた電話はやめにした。だって声だけじゃどうせ足りない。

代わりに早足で道を急ぐことにした。

おかげで息は上がったけど思ったより早く到着してドアノブに手をかける。


「ただいまー」


一人暮らしの時はただの習慣でしかなかったこの言葉も、智樹さんに向けたものだと思うとなんだか背中がむず痒くなる。

白状すると、俺はいまだに「ただいま」を言うことに緊張している。

これじゃ智樹さんのことは言えないな。

自嘲して靴を脱げば、開いたリビングのドアから智樹さんが姿を現した。


「おかえり、……ま、さたか」


相変わらずぎこちない。でも俺のお願いを聞き入れてくれるところが、もう本当に愛おしくてたまらず、速足で智樹さんのもとへ向かう。

そうしていつかの妄想通りに抱きしめようとしたところで、手に持った紙袋の存在を思い出した。

智樹さんもそれに気づいて俺の手元に目を向ける。


「それなに?」

「姉貴に持たされた」


軽く広げて中を見せれば智樹さんは柔らかい声色で「京香さんは相変わらずだな」と微笑んだ。

両手が塞がってるんだからそんな顔するのはやめてほしい。

持っているものを放り投げるわけにもいかず、抱きしめたい欲をぐっと抑え込んでとりあえず部屋に入り、そこでテーブルに紙袋を置いてから、智樹さんに向かって腕を広げる。

意図を汲んでそこに入ってきた智樹さんをすかさず閉じ込めると、帰ってきたことを改めて実感した。


「今日はいつもより一日が長かった気がする」


いや、確実に。ほぼほぼ豊島さんのせいで。


「お疲れ様」


でもその言葉と背中をぽんぽん叩く優しい手が俺の疲労を吹き飛ばしてくれた。それだけじゃなく心も満たしてくれるもんだから頬が緩む。

前に気持ちは変わらないなんて思ったけど、どうやらそれは間違いだったようだ。

だって好きの気持ちは今この瞬間もどんどん大きくなっているんだから。

何をすれば、何を言えば、俺のこの気持ちを全部伝えられるだろうか。何をしても、何を言っても、俺のこの気持ちは一ミリも伝わらないような気がするのは俺の行動力とか語彙力が足りないというわけではないと思う。

不意にあの時の智樹さんの言葉と表情が頭に浮かんだ。

愛を感じたから。

あの時の智樹さんはそれはもう幸せで一杯一杯な顔をしていた。

俺が頑張って気持ちを伝えても智樹さんがそれを受け取ってくれないと意味がない。……という結論に至ったところで智樹さんに全てを委ねるつもりはない。

俺はこの気持ちが全部伝わるまで、いや、伝わっていてもなお伝えていくんだ。

決意を固めて抱き締める腕に力を籠める。

俺の愛よ伝われ、なんて馬鹿みたいなことを念じながら。

すると智樹さんが徐に息を吸った。


「……まさたか」

「ん」

「まさたか」

「うん」

「雅孝」

「はい、雅孝です」


なんだかおかしくなって笑い交じりに返事をすれば、耳元からも小さく笑う声が聞こえた。




‐‐‐ おわり ‐‐‐
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