だからどうした
□31 ごめんの代わりに
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どれだけ振り払っても、あの夢の光景と声が頭と耳にしつこくまとわりついて、心臓がドックンドックンと明らかに体に悪い騒ぎ方をする。暑くもないのに背中に汗がにじみ出る。からからに乾いた喉を潤そうとしたその唾液も今は乾ききっていた。
「な、に……?」
そうしてやっと絞り出した言葉は喉に引っかかってぎこちないものになった。
智樹さんはそんな俺の反応を見て口を引き結び躊躇いはしたものの、意を決したように口を開いて息を吸い込んだ。
「……俺に隠してることないか?」
不安げな顔で俺に問いかける智樹さん。俺はまず夢と同じ言葉が出てこなかったことに安堵して、次にキスマークのことを思い出して返事が詰まった。
沈黙は肯定の証、とはよく言ったものだ。
おかげで智樹さんは俺が隠し事をしていると確信して、眉尻を下げた。
何か、とてつもない勘違いをしてるような気がする。
智樹さんにこんな顔をさせるくらいなら打ち明けたほうがいい。なのにいざ口を開いても言葉が出てこない。時間にして数秒、だけどかなり長い時間こうしてるような感覚に陥った。そうしてる間にも状況は悪くなる一方で。
何も言わない俺をまっすぐ見る智樹さんの目にはうっすらと涙がにじんでいた。
このままじゃ駄目だ、と俺も意を決して口を開く。
「待って、ごめん、正直に話すから」
とりあえず自分を落ち着かせるために深呼吸をして、智樹さんの目を見つめ返す。
頭の中で整理しながら、見た夢の内容と、智樹さんを目当てに店を訪れる人が確実にいて智樹さんがその中の誰かを好きになってしまうんじゃないかと不安を抱いたことや、それから豊島さん相手にもあらぬ想像をして嫉妬したことも、すべてを話した。そしてここ数日は自己嫌悪のしすぎでそっけない態度をとって不安にさせたことも謝った。
「自分が情けなかったんだ。智樹さんが後悔してないかって聞いてきたときは俺の気持ちを疑われたような気がして怒ったのに、今度は俺が智樹さんを疑うようなことして……」
そう言ってる間にも智樹さんの顔を見ていられなくなって顔をうつ向かせる、そんな自分自身にまた嫌悪する。
でも智樹さんは俺を責めることなくむしろ優しい手つきで顔を持ち上げてくれた。
「吉井君のそれを疑うって言うなら俺も吉井君を疑ってた。ごめん」
「……え、どういうこと?」
「豊島が言ってたんだ、吉井君が女性客に見惚れてたって。まあ、あいつの言うことだから話半分に聞いてたんだけど、吉井君の様子がおかしいことに気付いていたから……、その人を好きになったのかもしれないと思ってました」
言い終えた智樹さんがもう一度「ごめん」と謝るから、でも智樹さんがそう思ったのは俺の態度が原因なんだから謝ることないよ、と慌てて返せば智樹さんは軽く首を振った。
「だって出会いの数で言ったら吉井君のほうが多いじゃないか。今回のことがなくても、吉井君の態度がおかしくなくても、いつかは同じようなことを考えたと思うから」
「智樹さん……」
「でもそのたびに謝ってたらきりがないだろ。だからごめんの代わりに、……す、好きって言うことにしないか?」
唐突な提案にぽかんとしながら、自分で言ってて恥ずかしくならないの、と出かかった言葉を智樹さんの真っ赤になった顔を見て飲み込む。
もう、本当に、この人にはかなわないな。
ついさっきまで腹の底で渦巻いていたもやもやと緊張が綺麗さっぱり消えてなくなり、ぽっかりと空いたそこにあたたかくてふわふわしたものが流れ込んでくる。
その感覚が妙に心地よくて頬を弛ませると「いま馬鹿にしただろ」と智樹さんに睨まれてしまった。でもやっぱりそんな真っ赤な顔ですごまれても迫力なんかなくて、思わず笑い声を漏らせば智樹さんは居た堪れなそうに目をそらした。
そういうところだよ、智樹さん。智樹さんのそういうところが好きで好きでたまらないんだよ。
「好きだよ、智樹さん」
「……そこは普通にごめんでいい」
「そう? じゃあごめん。大好きだよ」
「ばか。……俺も大好きだ」
戻ってきた目はいまだに羞恥心を含んでいて、それでも俺の目をまっすぐに見つめ返してくれる智樹さんが愛おしくて。抱きしめたい衝動に駆られて腕を広げつつ一歩を踏み出す。
しかしそこで肝心なことを思い出して足を止め、背中に回そうとした手は両肩を掴んだ。
明らかに抱きしめられる流れだったのに何故こんな形になってるんだ、と智樹さんが不思議そうな顔を浮かべてる。
「……ひとつ忘れてた」
というか隠し事の本題はこっちだったんだよな。と思ったら消えたはずの緊張が戻ってきて、その緊張が肩を掴んだ手から伝わってしまったのか智樹さんの顔から赤みが引いた。
それを見てさらに緊張するという負の連鎖が生まれたけど、とりあえず深呼吸をして少しでも緊張を鎮める。
そうして開いた唇は微かに震えていた。
「智樹さんが寝てる間にキスマークつけました、うなじに」
震える声でそう言ったあと、智樹さんは一拍おいて再び顔を真っ赤にしたかと思えばうなじを手で抑えてうつむき加減に「あの野郎」と忌々しそうに呟いた。それが誰のことだか考えなくてもわかったのは俺の感がいいというわけではないと思う。
落ち着きを取り戻すように深く息をついた智樹さんが顔を上げて、また俺の目を見据えた。
「……許さないから」
「うっ、ごめんなさい」
鋭い視線と言葉が胸にぐさりと突き刺さる。
簡単に許されることじゃないとは思ってたけど改めて本人の口からそう言われるとダメージが大きい。そうやって俺がダメージを受けていると智樹さんが静かに口を開いた。
「言っとくけど、き、キスマークをつけたことに怒ってるわけじゃないからな」
じゃあ智樹さんは何に対して怒ってるんだ。ってことを考えてみると理由は二つしか思い浮かばなかった。
「うなじ……いや、見えないところにつけたから? 寝てる間につけたから? どっち?」
ただそのどちらが正解なのかはわからなかったから率直に問いかければ「どっちもだよ」とつぶやく声が聞こえた。
なんだよ、それ。寝てるときに、見えないところにつけたから怒ってるって。なんだよ、それ。起きてるときに、見えるところにならキスマークをつけていいってことかよ。なんだよ、それ。つけられたキースマークを自分の目で見てどんな顔するんだよ。恥ずかしく思いながらも幸せそうに笑うのかよ。なんだよ、それ。反則だろ。
想像するとたまらなくなって、当初の予定通りに智樹さんを抱き寄せる。智樹さんもこれを待ち焦がれていたのか、早急に俺の背中に腕を回して首筋にすり寄ってきた。
幸せすぎてどうにかなりそう。
「あー、もう、好きだ。好き、大好き」
言いながら腕に力を入れると耳元で小さく笑う声が聞こえた。
「さっきも聞いたよ」
「別にいいでしょ。何回でも言うから何回でも聞いてよ」
「……、じゃあ俺も」
智樹さんがそう言うから次の言葉を待っていると息を吸う音が妙に大きく聞こえた。
「好き。……好きだ、雅孝。大好きだ」
「っ」
智樹さんの声がすうっと全身に染み渡る。
このタイミングでしかもそんな優しい声色での名前呼びはずるい。ずる過ぎるよ。
感極まって溢れそうになる涙をこらえるように一層強く抱きしめて、体を離す。そうして向き合えば智樹さんは少し気恥しそうにしながらも幸せそうに笑ってくれた。
だからそれは反則なんだって。
「……もう駄目だ。はやく帰ろう」
「え、あ、うん、?」
いきなりの帰宅催促に困惑気味な智樹さんの手を引いて帰路を急ぐ。
それからしばらくの間、困惑した様子で俺を呼ぶ智樹さんがいたけど今の俺には返事をする余裕もなくて。そんな俺を見て察してくれたのか智樹さんは俺の手を強く握り返して口を閉ざした。
空に浮かぶ満月が照らす帰り道を俺たちはただ無言で歩き続けた。