だからどうした

□30 言いようのない何か
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ある夜のバーからの帰り道。続いていた沈黙を破ったのは智樹さんだった。


「……吉井君、話があるんだけど」


智樹さんがこう切り出した時からなんだか嫌な予感はしていたんだ。

妙に騒ぐ心臓に落ち着けと言い聞かせながら、暗く静かな道でゆっくり向かい合う。と、智樹さんの息を吸う音が変に大きく聞こえた。


「好きな人ができたから別れてほしい」


そう言って俺をまっすぐ見つめる智樹さんの瞳は、何を言われてもすべてを受け止める覚悟があるような、揺るぎのないもので。ああ、もう智樹さんの中に俺はいないんだ、と。だったらせめて後腐れのないように見送ってあげないと、と涙を呑んで声を絞り出す。


「わかった。今までありがとう」


返事を確認した智樹さんが俺を置いて先に進んでいく。振り返ることなく、まっすぐに。

わかった、なんて言いたくなかった。できることなら別れたくないって縋り付きたかった。でもそうしてしまうと智樹さんを困らせることになるから、今にも追いかけてしまうそうになる体を必死に押さえつける。


「……、い、やだ……。待って……」


姿が見えなくなってから本音がポロリとこぼれて、引き留めようと手を伸ばす。だけどもうその声も伸ばした手も智樹さんに届くことはなく、追いかけることもできずに、俺はただただその場に立ち尽くしていた。


「……行かないで」


呟いた自分の声に目を開けると、俺は暗い道に立ち尽くしているのではなくベッドの中で後ろから智樹さんを抱きしめていることに気が付いた。

なんだ夢か、と安堵したのも束の間、これから先いつあんなことが起きてもおかしくはないんだよなと夢を思い出して胸が締め付けられる。というかこっちは確かに現実なんだろうか。現実では実際に俺たちは終わっていてそれを受け止められずに女々しくも智樹さんを抱きしめている夢を見てるんじゃないだろうか。

不安になって智樹さんを抱きしめる腕に力が入る。

ああ、この感覚は間違いなく智樹さんのものだ。

でもまだこれだけじゃ安心できなかったからダメ押しに印をつけることにした。

妙な色気を感じる生白いうなじに唇を寄せる。そうして軽い口づけを繰り返しながら後頭部に鼻先をこすりつけて智樹さんの匂いを肺一杯に吸い込めば、少しだけ心が落ち着いた。

だけどすぐに夢の中の智樹さんの背中を思い出して、目の奥が熱くなる。

なんで嫌な夢ほど鮮明に記憶に残るんだろう。いつもみたいに忘れられたらこんな思いしなくてすむのに。ほんと、最悪。


「どこにも行かないで。ずっと俺のそばにいてよ……」


願うように囁いて、うなじに強く吸い付く。

もうそろそろいいか、と唇を離すと赤い痕が浮かび上がった。そのくっきりと綺麗にできたキスマークに指を這わせて口を歪ませる。

キスマーク一つでこんなにも満たされるなんて。もっと早くにつけていれば言いようのない何かも湧いてこなかったのかもしれないと思うと少し惜しい気分になった。

もう、本当に最悪だ。


「……よし、い君?」


声が聞こえて咄嗟に腕の力を緩める。


「ごめん。苦しかった?」

「んー、吉井君にこうされるの、すき」


寝言のように返事しながら腰にある俺の手を撫でると智樹さんはすぐ睡眠に戻った。この様子じゃキスマークをつけられたことには気付いてなそう。

そのことにほっとしてしまう自分がいて、自己嫌悪に陥る。

ああ、本当に俺は最悪最低な人間だ。夢じゃないことくらいとっくにわかっていたはずなのに。

こんな自己嫌悪の中で眠れるわけもなく、俺は智樹さんを抱きしめたままカーテンの向こうが明るくなっていくのをぼんやりと眺めていた。




結局キスマークのことは打ち明けられずに日が経った。後ろめたさから変な態度をとってしまい不審がられたりしたけどそのたびに誤魔化すことを繰り返していた。

そして昨日こっそりうなじを確認してみれば、くっきりと綺麗についていたキスマークは薄くなっていた。もともと髪で隠れる場所だし、これだけ薄くなれば目には止まらない。つまり智樹さんがこれに気付くことはない。

唯一の脅威は豊島さんだったけど、智樹さんに伝わってる様子はないからたぶんキスマークには気付いてない。だってキスマークに気付いていれば智樹さんをからかってるはずだから。まあ、気付いていて黙っているのかもしれないけど、智樹さんに伝わってないならそれでいい。

とりあえず今のところは安心していい……と思う。

こうしてハラハラしながら過ごす中、今日は新作の映画を観に行こうと家を出たところで、でもその前にやることがあると智樹さんが言うので店に立ち寄ることになった。そうして智樹さんが奥に姿を消してる間、俺は豊島さんの玩具になるわけだ。

少し時間がかかるとのことでコーヒーを飲みながら智樹さんを待っていると、豊島さんが唐突に口を開いた。


「そういえば吉井君。最近、何か変わったことはない?」

「ないです、けど」


急にそんなことを聞かれたもんだから少し言葉が詰まってしまった。しかし不幸中の幸いというか豊島さんは特に気にかけることもなく「ふーん、そっか」と力が抜けるような声でつぶやいた。

なんだ今の意味深な質問と拍子抜けする返事は。豊島さんはキスマークに気付いてるのか気付いてないのか、一体どっちなんだ。真意を探ろうと怪訝な視線を向ければ豊島さんは余裕綽々と言った感じでにやりと口角をあげた。

あ、この顔は気付いてる。

となれば確認しなければならないことが一つ。


「……智樹さんには言ってませんよね?」

「ん、何を?」


わざとらしい顔が憎らしい。


「その……キスマーク、です。……うなじの」

「やっぱり柊は知らないのか? はは、吉井君もやるなぁ」

「笑い事じゃないです。で、言ったんですか、言ってないんですか」

「言ってないよ。人をからかうネタはちゃんと選ぶからな、俺は」


まあ、からかおうとしたけど反応が薄かったからもしかしてと思って途中でやめただけだけど、と続けて豊島さんが苦笑を浮かべる。

ネタを選ぶ選ばないじゃなくて人をからかうこと自体をやめようとは思わないのか、この人は。まったく相変わらずだなぁ、なんて暢気に思いながらコーヒーを飲んで冷静になれば新たな疑問が浮上した。

他人のうなじなんてわざわざ髪をどかしてまで見るものじゃない。だったらなぜ豊島さんは智樹さんのうなじを見たのか。いつ、どこで、どうやって、どんな状況で、どんな気持ちで。

そんなわけないと思っていながらもあらぬ光景が頭に浮かんで、カップを持つ手に力が入る。

ああ、もう、本当に俺は最悪最低な人間だ。と、自嘲してコーヒーを飲み干すと豊島さんが何か言おうと口を開いた。しかし智樹さんが出てきたのを見た豊島さんはその口を閉ざした。


「待たせてごめん。それじゃ行こうか」


立ち上がって、先に店を出た智樹さんを追いかける。そうして扉に手をかけたところで呼び止められたから振り返ると、豊島さんはなんだか複雑な顔をしていた。


「なんですか?」

「……柊を悲しませるなよ」

「そんなに智樹さんのことが心配ですか」

「いや、そういうわけじゃなくて……」


変に威圧的な態度をとってしまったせいか豊島さんが口ごもってしまった。それを終了の合図とみなして外へ出る。


「俺が心配なのはむしろ君のほうなんだけどな、吉井君」


扉が閉まる間際に豊島さんの声が聞こえたけどどうせいつものお戯れだろうと判断して聞こえなかったことにした。




店から少し離れたところで智樹さんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「また豊島に何か言われた?」

「別に何も言われてないけど。なんで?」

「いや、なんだか元気がないように見えたから、豊島がまた余計なことを言ったんじゃないかと思って」

「はは、豊島さんが余計なことを言うのはいつものことでしょ」

「確かに」


あいつは余計なことしか言わないな、と笑う横顔を横目に、言いようのない何かが湧き上がってくるのを感じ取りながら豊島さんとのやり取りを思い出す。

敵対心丸出しでみっともなかったな。豊島さんが相手でもあの調子だったんだ。このままじゃ言いようのない何かが膨れ上がって爆発して、智樹さんを悲しませてしまうかもしれない。でもだからと言って言いようのない何かをぶちまける勇気もない。

八方塞がりになって溜息を吐く。そんな俺を見て智樹さんがどんな顔をしていたかなんて、気にする余裕もなかった。




デート終わりの夜の帰り道。続いていた沈黙を破ったのは智樹さんだった。


「……吉井君、話があるんだけど」


どこかで聞いたことのあるセリフと声色に嫌な予感を感じながら向き合えば、夢と同じ目をした智樹さんがそこにいた。
 
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