だからどうした

□29 客寄せパンダ
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ふとした瞬間に、俺は都合のいい夢を見てるんじゃないかと思う時がある。起きた瞬間に夢を忘れるように、夢の中では現実を忘れているんじゃないかと考える時がある。でも朝目が覚めて智樹さんの寝顔を見ればそんな馬鹿な思考は瞬く間に消え去った。

薄く開いた口から漏れる寝息は規則正しく、今のところ途切れる様子はない。

俺はその様子をじっと眺めながら顔にかかる前髪をそっとかき分けた。


「ん、……ふふっ」


智樹さんが微かに身じろいで笑い声を漏らす。起こしてしまったかと思って心臓がはねたけど起きる気配はなくて胸をなでおろす。でも同時に少しの寂しさを感じて距離を縮めた。

俺の中で今、ゆっくり寝かせてあげたい気持ちと、目を開けて俺に直接その笑顔を向けてほしいという気持ちがせめぎ合ってる。

こんなに近くにいるのに、目の前にいるのに、その笑顔が俺に向けられたものじゃないなんて。


「……」


駄目だ。このままじゃ本当に智樹さんを起こしかねない。だからもう変なことは考えないよう二度寝をすることにして目を閉じた。

しかし二度寝に慣れていない体はなかなか睡眠を受け入れてくれない。それでも諦めずに頭の中で羊を数える。

そうすると頭の中が羊でもこもこして精神的に息苦しくなって二度寝は失敗してしまった。でもそのおかげで変なことを考える余裕がなくなり智樹さんの起床までやり過ごすことができた。

小さく唸りながら徐に瞼を上げる智樹さん。寝ぼけ眼を何度か瞬かせて俺を捉えるとふにゃりと柔らかく笑った。

ほんと寝起きの智樹さんたまんない。

普段は気が抜けてないとかそういうわけじゃないけど、寝起きの智樹さんは普段より気が抜けてて三割増しで頬が緩む。そして俺もつられて頬が緩む。

やっぱり俺に向けてくれる笑顔は格別だ。


「おはよう、智樹さん」

「ん、おはよ……。いま何時?」

「10時。まだ寝る? 起きる?」

「……起きない」


寝坊助なところも好きだなぁ、なんてにやけながら「じゃあ次は何時に起きる?」と聞くと「寝ない」と返ってきて。

どういうことだ、と混乱する俺を見てからかうように笑った智樹さんが、距離を詰めると俺の足に自分の足を絡めて、またふにゃりと笑った。


「もうちょっとこのままがいい」


もう、本当に、たまんない。

抱きしめたい、という気持ちが沸くよりも早くに体は行動を始めていて、腕の中にはすでに智樹さんがいた。そこからだらしない笑い声が聞こえたかと思えば背中に腕が回され、次の瞬間には互いの額がくっついた。

目の前には相変わらずゆるゆるで無防備な笑顔がある。

ある意味この世で一番気を許しちゃいけない相手に気を許してるんだよな、智樹さんは。わかってるのかな。いや、わかってないから俺にこんな緩みきった顔を見せてるんだよな。

まったく俺の気持ちも知らないで、と言いたいところだけど俺のこの気持ちなんて知らないほうがいい。


「……好きだよ、智樹さん」


言いたいことはもっといっぱいあった。だけどやっぱりこの言葉に勝るものが他に見つからなくて。目をじっと見据えて伝えれば、智樹さんは照れ臭そうに笑いながら「俺も好き」と言ってくれた。

俺は智樹さんが好き、智樹さんも俺が好き。それ以外の気持ちなんて必要ない。




同棲生活を始めて早二週間。今のところ、と言うとこれから何かが起こりそうで不吉だけど、とりあえず何事もなく過ごせてる。初夜に俺の心を満たした言いようのない何かも鳴りを潜めている。

今日は俺の仕事が休みだからまったりしようか、と話し合っていた矢先に智樹さんのほうに用事が出来てしまい、涙を呑んで智樹さんを見送ったところだ。

やることもなくソファに座ってしばらくぼーっとしていたけど、ふと「コーヒー奢ってやるからいつでもおいで」と、喫茶店を開いて間もないころに豊島さんからお誘いを受けていたことを思い出して暇潰しも兼ねて喫茶店へ向かうことにした。


何度も開けたことがあるのに、昼間でしかも中に智樹さんがいないことを考えると別物のようにも思える扉を開けて、いざ足を踏み入れる。

やっぱり昼と夜とじゃ雰囲気が違うなぁ、なんて思いながら店内を見渡していると俺に気付いた豊島さんが笑顔を浮かべた。


「あ、吉井君いらっしゃい。こちらのお席にどーぞー」


相変わらずふざけた様子の豊島さんにもはや安心感すら抱きながら、指定されたカウンター席に腰を下ろす。


「コーヒー、奢られに来ましたよ」

「ようこそおいでくださいました。当店自慢のブレンドコーヒーでよろしいですか?」

「……、はい、じゃあそれでお願いします」


この優雅な喫茶店のマスターキャラはいつまで続けるつもりなんだろう、と冷めた目で見ていれば、豊島さんが「吉井君のそういうとこ、柊に似てきたな」と気さくに笑ったので、違和感満載のキャラは無事に終了してくれたようだ。

まったく、この人は本当に何を考えてるのかわからなくて怖い。暢気な顔してコーヒーを淹れてる今もなんだかよからぬことを考えてそうで怖い。

そうして警戒する俺の視線に気づいた豊島さんが「吉井君は相変わらず怖いなぁ」と相変わらず暢気な顔で言う。


「前から聞こうと思ってたんだけど、吉井君、俺のこと嫌いだろ」

「いえ、そういうわけじゃないです。けど、はっきり言って苦手です」

「はは、そうか、苦手か」


嫌いと大して変わらない言葉なのに豊島さんは至極愉快そうに笑いながら、淹れたてのコーヒーを俺の目の前に置いた。


「召し上がれ」

「いただきます」


今更だけどコーヒーは特に好きというわけでも嫌いというわけでもない。しかし漂ってくる香りはおいしそうで。期待を胸にいざカップを持ち上げてコーヒーを口に含むと、微かな苦みとすっきりした酸味のバランスが絶妙で、後味もよく、それはそれは期待以上の美味しさだった。

溜息交じりに思わず「おいしい」と呟けば豊島さんは得意げに笑った。


それからしばらくはかつての面接を彷彿とさせるような質問攻めが続いた。「柊とはうまくやってるのか」とか「不満はないのか」とか。言うまでもなくうまくやってるし不満もないので、というかもし不満があったとしてもそれは智樹さん本人に直接言うことだしで、適当に受け流していると新たな客が入店したから質問攻めは終了した。

これでやっと一息つける。と思ったのもつかの間。入ってきた客が少し離れたカウンター席に腰を下ろしてさっそく豊島さんに話しかける。その言葉が耳に流れ込んできた。


「こんにちは。昨日の人、今日は来ます?」


あ、この人、智樹さんのこと言ってる。

何の脈絡もないのにそう思ったのは、視界の端に俺を一瞥する豊島さんがいたから。あれは意識的にしたことか、それとも無意識的にしたことか。ああ、でも、あの憎たらしく上がる口角は人をからかうときのものだ。

他人の会話に聞き耳を立てるような無粋なことはいつもならしない。でも智樹さんが関わってるなら話は別だ。

俺と目が合った豊島さんはその口角をさらに上げて客と会話を続ける。


「こんにちは。あいつなら用事があるらしくて今日は来ないみたいです」

「そっか、残念。目の保養をしたかったんですけどね」

「すみません、お目汚しの店長で」

「あはは、そんなこと言ってないじゃないですか。タイプじゃないってだけで店長さんも十分かっこいいです」

「それはどうも」


あの豊島さんと冗談交じりに会話ができる人間とはいったいどんな人なのか、気になって横目で見てみる。カウンター席に座るその女は、姉貴と同じくらいか姉貴より少し年上の、街中を探しても滅多に見ないほどの綺麗な人だった。

彼女はどうやら仕事の途中に立ち寄ったようで、テイクアウトのコーヒーを受け取ると早々に店を出て行った。

扉が閉まったのを確認した豊島さんが、何やらにやけ顔でこっちに戻ってくる。


「彼女、綺麗だろ」

「……そうですね」

「いやあ、柊のおかげで女性客が増えてこっちは万々歳だよ」

「……なんでここで智樹さんが出てくるんですか」

「あー、まあ、なんというか、客寄せパンダ的な? 結構なわがまま言ったからお詫びに毎日コーヒーを淹れてやるって言ってな。これ、柊には内緒にしといてくれよ」


なるほど。智樹さんはおいしいコーヒーが毎日飲めるしその智樹さんを目当てに客が増えて豊島さんが得をする、所謂ウィンウィンの関係、ってわけか。

しかしこれは理解できても納得できないというやつだ。

だって出会いが多ければ多いほど恋に落ちる可能性は高くなるから。智樹さんを信じてないわけじゃないけど、こればっかりはどうにもならない。人を好きになる瞬間なんて誰にも決められないんだ。

豊島さんが、急に黙り込んだ俺を何もかも見透かしたような目で見ながら小さく笑う。俺はその視線から逃げるようにして残りのコーヒーを流し込む。

だからこの人は苦手なんだ。
 
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