だからどうした
□25 悪い人間
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泣きたくなった、というかもうすでに涙目で。こんな顔を見られると余計に涙が出そうな気がしたから背を向けて鼻水をすすれば、智樹さんが静かに俺を呼んだ。
「吉井君」
「……、なに」
「座って」
「……なに言われても俺は動かないから」
「それでもいいから。座って」
「……ん」
もう一度鼻水をすすって、手の甲で目元をぬぐって、元の場所に腰を下ろす。そしたら体が無意識にそっぽを向くから、自分は本当に情けない人間だな、と呆れ果てた。
傍から見てもその情けない姿は変わらないだろうに、智樹さんは呆れることなく俺の手を取って口を開いた。
「俺のためにありがとう」
智樹さんはそう言って握る手に力を入れた。
「……でも、八つ当たりなんかじゃなくて京香さんは本当に俺が嫌いなんだと思うよ」
「っ、そんなことない!」
「いや、だって京香さんにとって俺は大事な人を攫っていくような悪い人間なんだよ。そんな人を好きになんてなれないだろ? それに初めて会った時から敵意むき出しだったしな」
苦笑を浮かべる智樹さんの顔を後目に二人が初めて会った日のことを思い出してみる。
確かにあの時の姉貴は智樹さんを敵視してたかもしれない。でも次の日もそのまた次の日も、一週間経っても、付き合ってると知った後も、特に何も言ってこないから俺たちのことは認めてるはずだ。というか本当に嫌いならさっきの場面では大っ嫌いと言うよりも冷めた笑顔で毒づいてる。姉貴はそういう人間だ。だからさっきのは勢いで出てしまった言葉であって本当に智樹さんを嫌ってるわけじゃ……。
いや、ちょっと待て。俺は姉貴を庇ってるのか、智樹さんを慰めようとしてるのか、どっちなんだ。
……いやいや、そんなの考えるまでもないだろ。姉貴が智樹さんを嫌ってるわけでなくても大っ嫌いと言った事実は変わらないんだから、姉貴を庇う必要なんかない、……はずなのに。どこかに姉貴を嫌いにならないでほしいと願う自分が存在してる。
俺はいったいどうしたいのか。自分の感情がいまいちよくわからずに口を閉ざしたままでいると、智樹さんは何もかもを見透かしたように小さく笑って「行っておいで」と俺の背中を優しくたたいた。
「……、ごめん。すぐ戻る」
言いながら立ち上がり、姉貴を追うために動き出す。
なに言われても俺は動かないから。と、数分前にはっきり宣言しておきながらこうもあっさり腰を持ち上げるなんてやっぱり俺は情けない人間だ。だけどどうすればいいのかを智樹さんが教えてくれたから。たとえどんなに情けなくなったとしても意地を張り続けるよりずっといい。
そうして靴を履いていざ玄関の扉を開こうとすれば、握ろうとしたドアノブが遠ざかって行った。
あれ、なんで。と不思議に思ったのも束の間。ゆっくり開かれた扉の向こうには姉貴が立っていた。さっきと変わりない涙目で。まさか扉を開けてすぐに俺がいるとは思ってなかったのか姉貴はピシリと固まってしまった。かくいう俺もまさか姉貴が自らの意思で戻ってくるとは思ってなかったから信じられない気持ち半分驚き半分で、固まってる。
そんな間抜けな俺たち姉弟を動かしてくれたのは智樹さんの「とりあえず中に入りませんか」というセリフだった。
「……」
「……」
「……」
智樹さんの助言通り、とりあえず部屋の中に移動した俺たちは小さなテーブルを三人で囲っていた。
気まずい空気が流れる部屋の中、一番に口を開いたのは、自らの意思で戻ってきた姉貴でもそれを追おうとしていた俺でもなく、大っ嫌いと言われても怒ったりせずにむしろ心配すらして意地を張る俺の背中を押してくれた智樹さんだった。
「俺、席外すよ」
言いながら立ち上がろうとするから咄嗟に智樹さんの手を掴んだ。
さっきも言ったはずだ。これはもう俺と姉貴だけの問題じゃないんだと。俺も姉貴も互いにごめんなさいしたとしてもすべてが元通りというわけにはいかない。姉貴が智樹さんに謝らない限りは。
だから智樹さんにはいてもらわなきゃ困るんだ。
「ここにいて」
思ったよりも威圧感のある声が出てしまった。でもそのおかげか智樹さんは何も言わずに座りなおしてくれた。
さて、これ以上智樹さんに気を遣わせるわけにはいかないな。姉貴にはまず一番に智樹さんに謝ってほしかったけど、ここは俺から切り出したほうがよさそうだ。そう思って姉貴に視線を戻すと滝のように流れる涙が目に入った。
初めて見る姉貴のマジ泣きに面食らって、出かかっていた言葉が喉の奥に引っ込む。
「ごめっ、ごめ゙んなざい゙ぃ」
俺が引っ込んだ言葉を引き上げるより先に、姉貴が叫ぶように謝りながらテーブルに頭突きする。そして勢いよく顔を上げたかと思えばしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。何を言ってるのかよく聞き取れなかったけど、智樹さんに謝っていることだけはかろうじて聞き取れた。
肝心の智樹さんは聞き取れただろうかと、智樹さんに目を向ければ案の定ぽかんとしていた。
姉貴のマジ泣きにドン引きしてるんだろうか。
智樹さんに謝っている旨を伝えたら許しの言葉を頂戴したので姉貴を落ち着かせることにした。とは言ってもこんな状態の姉貴は初めてだからどうすればいいのかわからないのが正直なところだ。
とりあえず姉貴の隣に移動して、背中をぽんぽんとたたきながら手を握って優しく声をかけてみる。
「姉貴、もういいって。許してくれるって。っていうか最初から怒ってなんかないって」
しかし言い聞かせても姉貴が落ち着く気配はない。むしろさっきよりも言葉が聞き取りづらくなっていく。俺でも解読不可能なほどに。
こんなのどうしろっていうんだよ。
解決法が見つからずに姉貴の隣でおろおろしていると、小さく笑う智樹さんの声が耳に届いた。笑うといっても楽しそうとか馬鹿にしてるとかそういった笑いではなく、肩の力が抜けるような心地よいもので。思わず智樹さんに目を向ければ物凄く優しい顔で微笑んでいたもんだから陥ってる状況なんて忘れて見惚れていると俺の視線に気づいた智樹さんは気まずそうに咳払いをして笑うのをやめてしまった。
少し惜しいけど状況を考えるとしかたがない。今はとりあえず姉貴をどうにかしないと。
まずは自身を落ち着かせるために深く呼吸をして、再び姉貴に優しく声をかける。
「わかってるよ、姉貴が本気で智樹さんを嫌ってるわけじゃないことくらい。それに智樹さんももういいって言ってくれてるんだから、そろそろ泣き止んでよ」
深呼吸をしたからか意図したものよりも柔らかい声が出て自分でもびっくりしてしまった。姉貴にもやっと通じたようで、小さく頷いてから目を閉じて、さっきの俺と同じように深く呼吸をするとゆっくり瞼を持ち上げた。
その目から新たにあふれる出る涙は確認できない。
相変わらず切り替えが早いな、と場違いな関心をしながら元の位置に戻って話を進める。
「さっきも言ったけど、俺は智樹さんと一緒に住むことにしました。相談もせずに決めたことは謝りますごめんなさい。でももう決めたことだから。姉貴が反対しても考えは変えないから」
「私は別に反対してるわけじゃないのよ。あんたは自分より他人を優先するところがあるからいろいろ我慢して溜め込むんじゃないかって、心配してるだけなの。それで雅孝が傷つくようなことがあれば……、私はあなたを絶対に許さない」
前半は俺に向けて、後半は智樹さんに向けて、姉貴が淡々と言い放つ。それから鞄に手を突っ込んでゴソゴソ漁ったかと思えば徐にその手を俺に突き出してきた。
「いやになったら私のところへすぐに来なさい」
咄嗟に受け取ったブツを確認してみると当初の目的である合鍵と、それとは形の違う鍵が手の平に乗っかっていて。姉貴の発言を鑑みるとこのもう一つの鍵は、つまりそういうことなんだろう。
こういうところはぶれないな、と呆れながらもこれ以上ややこしいことにならないよう素直にもらっておくことにした。きっと使う機会なんてないだろうけど。
「じゃ、私は帰るわね」
そうして姉貴は何事もなかったように颯爽と帰っていった。
一気に肩の力が抜けた。でも智樹さんはなんだかそわそわと、数十分前と同じように閉まった扉を見詰めていたから気になって声をかけてみる。
「どうしたの智樹さん」
「……、ごめんちょっと行ってくる」
智樹さんはそれだけを言い残すと、おそらく姉貴を追って部屋を出て行った。