だからどうした
□11 二度目まして
1ページ/1ページ
智樹さん特製のカクテルが入ったグラスに口をつけながら、カウンター越しに常連の男と笑顔で会話している智樹さんをぼーっと眺める。ここ最近でようやく見分けがつくようになったけどあの上品な笑顔は営業用で、俺に向けられたことは今まで一度もない。友人特典みたいなものでつまり俺はここにいる誰よりも特別な存在なんだと、自惚れでもなく本気でそう思ってる。もちろんそれは喜ばしいことだけど、だからこそあの笑顔を向けられる他の客を羨ましく感じる時がある。
たとえ営業スマイルだとしても智樹さんの笑顔なら俺も向けられたい。そんなわがままを胸の内に秘めたまま、相変わらずぼーっとして智樹さんを眺める。
どれだけそうしていたことか。常連客が不意に智樹さんの髪に手を伸ばし、一束とって指にくるくると巻き付けた。それを見て、黒い糸をぐしゃぐしゃに丸めたような、漫画とかでよく見るあの黒い塊が胸の中に作られたような気がした。
いやいや、俺だって智樹さんの髪は触ったことあるし、っていうかなんで気安く触らせてんだ、その客だけじゃなく他の客にも触らせてんのか……って、考え出したら今日はもう駄目だ。帰ろう。
変な考えを振り払うようにカクテルを煽って飲み干し、席を立つ。その動作を目敏く見つけた智樹さんは、常連に断りを入れて俺が到着するより早くレジで待ち構えていた。
「もう帰るのか?」
「うん。なんか眠たくなっちゃって」
いつもならここでもう一言二言言葉を交わしてさよならだけど今日の俺はダメダメなので「また来るよ」と早々に背を向ける。背後から茫然としたような「ありがとうございました」が聞こえてきても俺は振り返らずに店を後にした。
数日後。ああ、この前は失礼なことしちゃったな、と憂鬱になりながら荷物を持って智樹さん宅へ向かう。大丈夫、いつも通りにすればいいだけなんだから。そう自分に言い聞かせ廊下を曲がると、智樹さん宅の前に男が立っていた。
おまけに「開けろよー」と言いながらドアをどんどん叩いてる。
知り合いかな。もしかして智樹さんは留守なのかな。もしそうじゃないとして智樹さんがドアを開けないということは招かれざる客ってやつなのかもしれない。ま、本当にただの留守かもしれないし。
これは時間がかかりそうだし今日は仕事が詰まっていて急いでいるので先を譲ってもらおうと男に近づく。あわよくば追い払うことができるなら万々歳だ。
「すみません、そちらのお宅に用があるんですが」
恐る恐る声をかけると男はこっちを向いて愛想のいい笑顔で「あ、どうぞどうぞ」と快く譲ってくれた。そして「出直すかー」と独り言を零し、擦れ違いざまに軽く会釈をして去っていく。俺はその姿が見えなくなってからインターホンを押した。
でもいつものあれが聞こえなくて。留守だと思って不在票を取り出したらガチャガチャと鍵を開ける音がした、次の瞬間。
「うるさいんだよいい加減にしろ!」
と怒鳴り声が聞こえて。あまりの剣幕に驚いて取り出した不在票がひらりと落ちる。
ぽかんとする俺と智樹さん。先に反応を見せたのは智樹さんだった。
「ご、ごめん、変な男、いなかった……?」
「え、ああ、いたけど声掛けたら帰ったよ」
荷物を受け取りながら智樹さんがほっとしたように息を吐いたりするから少し心配になったけど、今日は本当に忙しいのでいつものやり取りを終わらせ、いまだに申し訳なそうにしてる智樹さんに「今夜、店に行くから」と告げて次の配達に向かった。
仕事が終われば智樹さんに会えると思うと知らずのうちにテンションが上がっていたのか、久々のハードスケジュールだったにもかかわらず何故か疲れを感じない、そんな帰り道。前のほうに見覚えのあるアッシュグレーの長髪が見えたから小走りで近寄ればやっぱり智樹さんだった。
声をかけると今から店に行くとのことだったのでご一緒することになった。
歩きながら他愛ない話を繰り広げている最中にも昼間のことがちらりと脳裏をよぎる。
聞いてもいいかな。
もし聞いたとして、何か事情があって「吉井君には関係ないことだから」と気を使われたり暗にそのことには触れないでほしいみたいに突き放されたらたぶん一番ダメージが大きい。
今の自分は「吉井君には関係ないことだから」と言われずに済む立ち位置にいるんだろうか。
ええい、悩むくらいならいっそ聞いてやる、と開き直って切り出そうとした瞬間、どこからか視線を感じてあたりをきょろきょろと見渡す。でも特に異変は感じられなくて、でも出鼻を挫かれたので智樹さんとの他愛ない話へ戻る。それから十歩ほど進めばまた視線を感じて振り返る。
「どうした?」
「あ、いや、なんでもない」
立ち止まった智樹さんが怪訝な目で俺を射抜く。確かに視線は感じる、でも俺の気のせいかもしれないから「なんでもない」以外に言いようがない。
なおも怪訝な視線を向ける智樹さんの背中を軽く押して先を促す。
そうしてまた十歩ほど進んだところで視線を感じて。変に思われてもいいからこれで最後にしようと振り向けば昼間見た男が今まさに智樹さんの肩をつかもうとしているところで。
無意識のうちに咄嗟に智樹さんを引き寄せた。
そのせいで智樹さんの肩に触れようとしていた男の手が、すかっ、と空を切る。
「あーあ、俺の負けか」
男の口から悔しさを微塵も感じられない口調でそんなセリフが出てくる。当然意味を理解できるはずもなく、ポカンとしていると今度は「こんなところで何やってるんだ」と智樹さんの声が聞こえた。
ああ、やっぱり知り合いだったのか。と頭の隅のほうで考えていると男の目が一点で止まって。
「いつまでイチャイチャしてんだ?」
なんて言うから男の目線を辿れば智樹さんの腕を掴んでいる俺の手が目に入り込んできたので「あ、ごめん」と表では平静を装いつつ内心では、これがイチャイチャしてるように見えるってこの人の目は大丈夫か、っていうか何でこんなことしたんだ俺、と混乱しながら智樹さんの腕を離す。
「痛くなかった?」って聞けば「大丈夫」と返ってきたけどそんなはずはない。かなり強い力で握っていたような気がするから。
本当に痛くなかったのかな、痣になってないかな、と心配する俺をよそに智樹さんが男を睨みつける。
「……で、お前は何をしようとしたんだ」
「いやぁ、驚かせようと思って。普通に声をかけても面白くないなぁ、と思って」
「別に面白くしなくていいから普通に声をかけろよ」
心底うんざりしたように智樹さんが溜息を吐く。こんなに刺々しい智樹さんは初めて見る。そうしてやっぱりどこか羨ましく感じる自分がいて、一体この男は智樹さんとどういう関係なんだろう、と興味半分妬み半分でじろじろ見ていればそれに気付いた男が昼間と同じような愛想のいい笑顔を浮かべた。
「なに? 気になる?」
なんだかすべてを見透かされたような気がして息が詰まった。そして慌てて「い、いえ、すみません」と目を逸らす。すると智樹さんが男を小突いた。
「いじめるな」
「いや、だって、面白いから」
言葉通り心底面白そうに笑う男は俺に手を差し出した。握手を求められているのだと気づいた時には男の手がすでに俺の手と握手を交わしていて。
「初めまして、ではないよな。……二度目まして? 豊島秀といいます。柊とは中学からの付き合いです」
「あ、どうもご丁寧にありがとうございます。吉井雅孝です」
「うん、よろしく」
「こ、こちらこそ」
握られた手をぶんぶんと上下に揺らされながら、自己紹介は終わった。
それから豊島さんは俺が智樹さんの店に行くと知って「俺も行くところだったんだよ。ご一緒していいかな?」と何故か俺に許可を求めてきた。それを断ることはできた。でも俺がそうするといろいろ勘付かれそうなので受け入れることにした。
そのせいで智樹さんの口からは大きくて重い溜息が零れ落ちたから俺は店に着くまで心の中でごめんと謝り続けた。