だからどうした

□10 好きだよ
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待ちに待った木曜日、正午ちょっと前。道中のドーナツ屋で購入した土産を片手に智樹さんちまでやって来た。少し早く来すぎたかと腕時計で時間を確認すると、約束の時間までまだ三十分もある。五分前や十分前ならまだともかく三十分も早く来るのはさすがに駄目か。だけどここまで来たんだからもういいや、と開き直って持ち上げた手をそのままインターホンへ向けた。

ピンポーン。

部屋の中で響くインターホンの音が微かに耳に届く。この瞬間はいつまで経っても慣れない。特に今日のこの日は。

数秒していつもの「いま開けますね」が聞こえて、ガチャリとドアが開く。

するといい匂いと共に智樹さんが見慣れぬエプロン姿で出てくるもんだから見惚れる前に頭が真っ白になった。


「いらっしゃい」

「こ、こんちは。これ、途中で買ってきた。後で一緒食べよ」


片言になりながらドーナツの入った箱をぎこちなく持ち上げて智樹さんに渡す。その手はプルプルと小刻みに震えていたけどなんとか不審に思われずやり過ごすことができた。

ありがとうの言葉とともにドーナツを受け取って中へ進む智樹さんの後を追いかける。

その背中を見ていると、いらっしゃいじゃなくておかえりって言ってほしいな、仕事から帰ってそう言われると疲れなんか一気に吹っ飛ぶだろうな、というような妄想が浮かんでくる。でもこういう妄想は誰でもすることだろうからこれくらいは許してほしい。

リビングに入ると玄関のドアが開いた瞬間から漂っていた空腹を刺激する匂いはより一層強くなった。


「もう少しで出来るから座って待ってて」

「うん。わかっ……あ、ごめん、来るの早かったよね」

「いや、どうせなら出来立てを食べてほしいと思ってたら作り始めるのが遅くなっただけだから」

「へ、あ、そ、ですか」


思わぬ言葉に思わず照れながら食卓につく。

出来立てということはつまり最高においしい状態ということで、俺にそれを食べてほしいということはつまりよりおいしく思ってほしいということだ。それはつまり俺の期待を裏切りたくないということで、俺の胃袋をつかみたいということでもある。

ということはつまり智樹さんは俺が好き……?

……。いやいやちょっと待て、思考回路がおかしなことになってる。

一度、心を落ち着かせようとゆっくり深呼吸したものの、入ってくる空気はおいしそうなものばっかりで、とりあえず落ち着きはしたけど代わりに腹の虫がぐぅと鳴いた。

そしてその音はお茶を持ってきてくれた智樹さんの耳にも届いた。


「あはは、今のは大きかったな」

「……お恥ずかしい」

「ごめんな。あともう少しだけ待ってて」


お茶を置いてキッチンに戻り調理を再開させる智樹さんを、コップに口をつけながらじっと眺める。ちびりちびりとお茶を喉に流し込みながら、機嫌よさそうにキッチンに立つ智樹さんをじっと眺める。

いいな、この光景。もう二度と見られないかもしれないから心に焼き付けておこう。

そうしてなるべく瞬きせずに数分。ふと我に返ると食卓にはおいしそうな料理が広げられていた。


「……うまそー」


ごくり。滲み出る生唾を飲み込めば思ったより大きな音が出た。

そんな俺とは正反対に智樹さんが「はりきって作りすぎた上に統一感ゼロだな」と困ったように笑うから、すかさず「これくらいなら普通に食うよ。しかも好物ばっかり」と主張する。

いや、事実を言うと腹十分目はこれの三分の二ほどだけど、智樹さんが俺のために作ってくれたという付加価値だけでこれの倍は食べられると思ったんだ。


「それは頼もしいな。じゃあ食べようか」


待ちに待った木曜日の待ちに待ったこの時間、地球上に俺以上の幸せ者はいるんだろうか。いや、いるわけがない。と、真剣に馬鹿げたことを考えながら「いただきます」とほぼ同時に箸を持ち、さっきから俺の目を捉えて離さない豚の角煮へと手をつける。

それを箸でつまんで口に入れた瞬間、甘辛いたれが口中に広がって、肉の塊もトロトロに柔らかくて、時間と手間をかけて作られたものだと理解できた。

旨い。旨すぎる。

口の中の角煮をごくりと飲み込み、白飯を掻き込む。それもまたごくりと飲み込み、次に大根が入った味噌汁を啜り、ほう、と息を吐けば全身の力が抜けた。

これは箸が止まらないやつだ。

案の定、次から次へ箸が止まらず、他のものを食べても馬鹿みたいに「うまいうまい」と繰り返す。智樹さんはそんな俺を見て笑っていた。


「ごちそうさまでした。うまかったー」


宣言通りすべてを平らげ、満腹になった腹をさすって背もたれに体を預ける。


「お口に合ったようでなによりです」

「もう、ほんと最高。こんなに満足する飯は初めてだよ」

「そんな大袈裟な」


智樹さんはそう言って笑うけど俺にとってこれは大袈裟でも何でもないんだよ。

その後は俺が皿洗いをすると申し出たけど智樹さんが今日は吉井君にお礼する日だからと聞き入れてくれなくて軽く言い合いになった。そして妥協案として一緒に皿洗いをする、という俺得な展開に持ち込んだ。

二人並んで立ち、智樹さんが洗った皿を受け取って泡を洗い流すと水切り籠に並べていく。その作業の途中で、少し前かがみになっている智樹さんを斜め上から眺めていると、耳にかけていた髪がはらりと落ちたから。

俺は手を拭いて、ただ無心で髪を梳くようにして耳にかけなおした。

智樹さんのびっくりした顔がこっちに向けられる。そこでやっと自分の行動を客観視できた。まずい、どうしよう、さすがに今のはアウトだろ。と血の気が引いたけど智樹さんは「ありがとう」と当たり前のように礼を言って皿洗いを続けるから、なぜか俺のほうが戸惑っていた。

ほどなくして皿洗いは終わった。そして何事もなかったように「コーヒー飲むか?」と聞いてくるもんだから「うん」と間抜けた返事になった。

え、ちょっと待って。俺、確かに髪を触ったよな。妄想しすぎて幻覚を見たわけじゃないよな。だってまだ髪の感触が確かにこの手に残ってるんだから。いやぁ、思ったよりサラサラしてたなぁ……、って違う違う。

余計な考えは頭を左右に振って外に締め出す。幸いにもキッチンにいる智樹さんから今俺が座っているソファは死角になっているおかげで奇行は目撃されなかった。

しばらくしてコーヒーを持ってきた智樹さんが躊躇いもなく俺の隣に腰を下ろす。そしてやっぱり何事もなかったように「テレビつけていい?」と聞いてくるもんだから「うん」と間抜けた返事になった。

バラエティ番組を流し見ながらドーナツを食べつつコーヒーを飲み込めば、なんだかもうすべてがどうでもよくなった。

意識しすぎた俺が馬鹿みたいだ。とりあえず肩の力を抜いて、今のこの時を楽しもう。


「あ、今更だけど甘いの大丈夫だった?」


そうして切り替えたところで本当に今更過ぎる疑問が浮かんだ。目に入ったからついドーナツを買ってきたけど先にお伺いを立てておくべきだったか。

甘いのが苦手だったらどうしよう、と不安になりながら返事を待つ。だけどなかなか返事が来ないから隣を向こうとした瞬間、肩に重みが訪れた。おまけに、ふわり、と何かいい匂いが漂ってくる。

これはまさか、とドキドキしながら真横を見ると智樹さんの頭が俺の肩に乗っかっていた。

気持ちよさそうにすうすうと静かに寝息を立てている。

そうだよな、いつも朝方に帰ってきて昼過ぎまで寝てるって言ってたもんな。風邪が治ったその日に店を開けてたし昨日もきっとそんな感じだったんだろう。

病み上がりなのに無理させちゃったかな。と申し訳なくなったけどそれ以上に俺のために頑張ってくれたことが嬉しくて、胸のあたりがじんわりと暖かくなった。


「ありがとう、智樹さん。……俺、智樹さんが好きだよ」


いつか正面切って言えたらいいな、なんて。当分言えそうにないけど。

相手が寝てるとはいえ自分の気持ちを口にすれば否が応でも心臓が激しく鼓動する。きゃー言っちゃった、と女みたいに内心で騒いでいると、身じろぎする振動が肩越しに伝わった。

思わず背筋が伸びる。


「ん、俺も」


まさかの返答に、どきっ、と心臓が跳ね上がる。眠ったと思ってたのは俺だけで実は起きていたというオチを想像しながら智樹さんの顔を凝視する。と、唇が開く瞬間がスローモーションに見えた。


「甘いのは、結構、好き……」


それ以上は寝息しか聞こえなくて、確実に眠っていることが確認できた。よかった。いろんな意味でよかった。

ほっとして息を吐く。それでも忙しなく動くこの心臓は、しばらく静まりそうにない。
 
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