だからどうした
□04 今更なんですけど
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柊さんと晴れて友達になれて早二ヶ月。そろそろ何かしらの進展がほしいな、と少し欲が出てきた頃、大変なことに気が付いた。
それは、俺たちはいまだに苗字にさん付けして呼び合い、互いに敬語を使っているということ。
友達としてこれはどうなんだ、と。互いに敬語を使ってるうちは進展も何もないんじゃないかと思ったわけだ。……いや、進展というかもっと親しげに接してほしいだけなんだけど。
名前で呼んでほしいなんて贅沢は言わない。だけどせめて、名字のままでもいいからせめて君付けにしてほしい。
たったそれだけのことで親密度はぐんと上がるはずだ。
こういうのは意外と切り替えるタイミングが難しいから俺がきっかけを作らないと。
すー、はー、と何度か深呼吸をして、それでも震える指でインターホンを押す。この瞬間はいつもいつも緊張するけど、今日は一段と緊張した。そしていつもの「いま開けますね」が聞こえればその緊張は最高潮に達した。
どうやって切り出せばいいのか、インターホンを押す前に考えておけばよかった。なんて後悔しても時すでに遅し。
扉から出てきた柊さんの顔を見た俺の脳内は雪原の如く真っ白になった。
「こんにちは。お届け物です」
だけどこの挨拶は意外にもすんなり口から出てきてくれた。おかげでいつものやり取りは難なく終わらせることができて、ついにその時はやってきた。
でもどう切り出せばいいかわからなくてただ黙って突っ立っていると、帰ろうともせず雑談しようともしない俺を不思議に思った柊さんが「吉井さん?」と俺を呼ぶ。
ああ、やっぱり、距離を感じるなぁ。
今まで当然のことだったのものが少し意識するだけでこんなにも寂しく思える。やっぱり敬語もさん付けもやめてほしい。
だから回りくどいことはせずに単刀直入に申し出ることにした。
「あ、あの、今更なんですけど……」
「?」
「敬語、やめませんか? もちろん、柊さんさえよければなんですけど。あとできればさん付けも……」
何も悩むことはなかったんだ。最終的にはこの話題になるんだから単刀直入に言えばよかったんだよ。
でもまさかこんなことを言われると思ってなかったのか柊さんはきょとんとした。だけど次の瞬間には笑みを浮かべて「確かに今更だな」と早速敬語をやめてくれた。
「もちろん吉井君もやめるんだろ?」
「え」
「敬語。あとさん付けも」
「いやいやいやそんな恐れ多いことできないです……!」
なんて言ってみたけど、敬語を使うことで自分を抑えているところがあったりするから、敬語を使っていないと好きだって気持ちをポロリとこぼしてしまいそうで不安というのが本当の理由だ。
でも柊さんが「俺だけ不公平じゃないですか、吉井さん」と言葉遣いを戻したりするから。
「……あー、もう、わかったよ、わかったから元に戻さないで」
と、半ば勢いで敬語をやめてしまった。
だけど柊さんはそれだけじゃ満足してくれないようで「他にもあるだろ、よ、し、い、さん」と挑発的な目で俺を見据える。
どうしよう。敬語は勢いでやめたけど、さすがにさん付けをやめるのはマジで恐れ多いよ。というかなんて呼べばいいんだ。柊、なんて呼び捨ては以ての外だよ。じゃあ柊君とか?
いやいや、やっぱり恐れ多いよ。
その結果。
「とっ、智樹さん、じゃ駄目かな……?」
無難なところに落ち着いた。
だって名字で駄目なら名前を呼び捨てにも君付けにもできるわけがないない。だったら消去法でこれしかない。
結局さん付けはやめられないってことだ。
これで駄目だって言われたらどうしよう、と心配になったけどそれは杞憂に終わったようだ。柊さん改め智樹さんが「なんだか照れるな」と小さく笑ってくれたから。
今まで見てきた笑顔の中であえて順位をつけるとしたら今のこの笑顔は文句なしの第一位だ。たぶんこの先一生忘れはしない。死んだって忘れてやるもんか。
そのためにも智樹さんの笑顔を心に焼き付けようとじっと眺める。
だけど断トツ一位の笑顔は伊達じゃなかった。
今まで見てきた笑顔の中で断トツ一位ということはつまり長く直視できない笑顔ということで。耐え切れず不自然にすいー、と目を泳がせれば智樹さんが「どうした?」と問いかけてきた。
「い、いや、なんでもない。そろそろ行くね」
「ああ。またよろしく」
「っ、……じ、じゃあ、失礼します!」
これまた直視できないような笑顔を智樹さんが浮かべたりするから思わず敬語に戻るし、足早に去る背後からはおかしそうに笑う声が聞こえてくるしで、その恥ずかしさから暑さのせいではない熱が顔に集中した。
ただ、中には嬉しさも存在してるから頬がゆるゆるに緩んで、自分でもよくわからない感情で満たされた。
ああ、俺は本当に智樹さんが好きなんだな、と改めて実感する。
こんなにも心臓に悪い恋をするのは何年ぶりだろうか。ふと気になって今までの人生を振り返ってみれば、そもそも恋をすること自体が久々だったことに気が付いた。
前に付き合っていた女は高校を卒業してから一度も連絡を取っていないから自然消滅みたいな感じになった。その前の女は浮気したしてないの喧嘩別れで、さらに前の女は他に好きな人ができたのごめんなさいと泣きながら謝ってたっけ。
……なんか、別れの理由が真っ先に浮かぶのって虚しいな。
だけどこんな俺でもやっぱり初恋というものは特別なものらしく。一番古い記憶のはずなのに嬉しかったことも楽しかったことも、辛かったことも、事細かに覚えてる。
と、まあ、俺の恋愛遍歴は大体こんなものだ。
比較することはよくないと思う。でもこればっかりはほかに比べようがないからしょうがなく比較するけど、今の俺の気持ちは初恋のそれに近い気がする。……いや、もしかするとそれよりももっと好きな気持ちが大きいかもしれない。
ということはある意味これを初恋と呼んでもいいんじゃないだろうか。
なんて馬鹿なことを考えて自嘲しながらトラックに乗り込んでエンジンをかけ、上機嫌で発車した。
その日の夜。帰宅途中にポケットの中のスマホが着信音を鳴らしたから取り出してみれば、昼間に思い出した、自然消滅した彼女の名前が表示されていた。
今になってどうしたんだろ。不思議に思いながらも躊躇いなく通話を開始する。
『こんばんは。吉井雅孝さんで間違いないでしょうか?』
「はい、間違いありませんが」
『あー、よかった、番号変わってなくて。元気してる?』
「おー、元気元気」
「そっちは?」と聞き返せば同じように『元気元気』と返ってきた。約5年のブランクがあるとは思えない緩さだ。だけどその緩さは彼女の『今から会える?』というセリフでどこかに行ってしまった。
「会えるけど……、今どこ?」
『待って。地図メールするから』
急にぷつりと途絶えた電話に茫然としていればすぐにメールが送られてきた。地図を見てみるとここからさほど遠くもなく徒歩で行けそうな距離だったから何も考えずに、すぐ行く、とメールを返信して地図を頼りに歩き出す。
それにしても急に電話をよこすなんて本当にどうしたんだろ。
電話じゃしたくない話ということはつまり顔を見て話したいということで。それはつまり大事な話ということじゃないだろうか。
まさか自然消滅していたと思ってたのは俺だけで向こうはまだ続いてると思ってる、とか?
もしくは自然消滅したと向こうも認識していて、それでいて俺ともう一度やり直したい、とか?
うーん、どっちも違う気がする。
確かな違いがあるのにそれを説明できなくて。違和感を胸に抱いたまま、目的地に到着した。
「……、まじか」
地図と目的地を見比べて間違いがないか何度も確認したけどどこもおかしいところはなかった。
なんと莉穂がいたのは智樹さんの店だったのである。