だからどうした

□01 だからどうした
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ラジオから流れてくるリスナーのリクエスト曲を聞き流しながら次の配達先を確認していると柊智樹の名前が目に映り込み、自分でも呆れるくらいに気持ちが高揚する。

これから柊さんに会えると思ったら仕事の疲れが吹っ飛んだ。ような気がした。


柊智樹さんと出会ったのは二週間ほど前のことで。見慣れない名前に少し不安を感じたのはまだ記憶に新しい。

まあ、柊さんの顔を見たらそんな不安はさっきの疲れと同じようにどこかへ吹っ飛んだわけだけれども。

そう。何を隠そう俺はその柊さんに一目惚れをしてしまったのである。

あの日のことは多分この先一生忘れはしない。




少しの緊張と不安を共に、インターホンに指を伸ばす。

どうやらこのマンションに新しく越してきたらしい柊さんとやらは一体どんな人なのか、優しい人ならいいな、いや別に優しくなくても怖くないならいいか、といろいろ考えながら扉が開くのをじっと待つ。

中から「いま開けますね」という声が聞こえて間もなく開かれた扉から、同じ男とは思えないほどの綺麗な人が姿を現した。

その顔を見た瞬間、俺の中にあった不安は緊張だけを残してどこかに消えた。


「こ、こんにちは、お届け物です。サインかハンコ、お願いします」


この仕事を始めて早数年。日に何十回も口にして慣れていたはずのこのセリフは、何故か初仕事の時よりも緊張した。

とりあえず平静を装いながら先に荷物を渡す。それを下駄箱の上においてこっちを向いた柊さんに伝票を渡し、「ボールペンお借りしてもいいですか?」と言われたので胸ポケットに入れっぱなしのボールペンも渡す。

それらを受け取って伏し目がちになりサインをする柊さんの姿を、俺はじっと眺めていた。

アッシュグレーの長い髪は後ろで緩く結わえられていて、耳にかけられたはずのサイドの髪がはらりと落ちた。それを気にも留めずサインを書き終えた柊さんが伝票とボールペンを返すために俺を見る。


「ご苦労様です」


労いの言葉とともにその二つを受け取った俺は思わず「綺麗だなぁ……」と呟いていた。


「……、え?」

「あ、あぁ、すいません。字が……俺、字が下手なんで、つい」


しどろもどろになりながらもなんとか誤魔化す。この際誤魔化し切れたかどうかは問題じゃない。

とにかく穴があったら入りたい気分だ。

そんな俺の気も知らず、きょとんとしていた柊さんは小さく笑ってこう言った。


「ありがとう。字を褒められたのなんて小学生の時以来です。いくつになっても褒められるというのは嬉しいものですね」


……、どくん。

さっきから騒がしかった心臓が一瞬止まりかけ、次の瞬間には一際大きく脈を打った。

なんて心臓に悪い顔で笑うんだ、この人は。

そんな破壊力抜群の笑顔を直視できなかった結果、俺は咄嗟に軽くお辞儀をして「それでは失礼しますありがとうございました」と言い半ば逃げるように立ち去ってしまった。

乱暴にトラックのドアを閉めて、ハンドルに突っ伏し全身の力が抜けるように息を吐く。


「はあぁ、……なんなんだよぉ、もー……」


なにあの笑顔。この世にあんな風に笑う人間がいるなんて思わなかった。もはや犯罪だよあれは。あの笑顔を見た人の心臓がたちまち壊れるって。

なんて馬鹿なことを考えながらも気持ちを切り替えてエンジンをかける。

だけどどうしてもふとした瞬間にあの笑顔を思い出してしまい、道を何度か間違えてしまった。まあ、仕事に支障をきたすほどの間違いじゃなかったのが不幸中の幸いというやつか。


その数日後の休日。たまには実家に帰って来なさいといつもうるさい両親を黙らせるためにもやってきた実家の縁側で、昼飯を食った後に柊さんの笑顔を思い浮かべながらボーっとしていると隣に人の座る気配を感じた。

こんなことをする人は一人しかいない、と確信しながらも隣を確認すればやっぱり健一さんだった。

鳴海健一さん。この人は姉の旦那、つまりは俺の義兄で、でも本当の兄弟みたいに接してくれる、とてもいい人だ。


「どうした雅孝。物思いにふけるなんてらしくねぇことしやがって」

「んー、まあ、なんというか」

「なんだ、本当に悩み事か。相談なら聞いてやるぞ」


年齢も知らず、既婚か独身かもわからず彼女がいるいないもわからない、知ってることと言えば名前のみ。そんな人を好きになった。しかも男。なんて、いくら健一さんが頼りになるからといってもさすがに相談しづらい案件だ。

待てど話し始めようとしない俺を本気で心配してくれたのか、健一さんが「そんなに重大な悩みなのか?」と声色を変えた。

なんだよ、さっきは面白がってたくせに。

心の中で文句を言いつつ、俺一人で解決できる問題でもないしやっぱり相談するならこの人だと意を決して口を開く。


「……、名前しか知らない人を好きになったんだ」


まさかの恋愛相談に健一さんは呆れたように「そんなことか」と呟いた。相変わらず失礼な人だ。


「でもその人、男なんだ」

「……。お前は本当にその人が好きなのか? 俺が好きって気持ちとは別物だって言い切れるか?」


物凄い自惚れだけど健一さんのことは本当に好きだから何も言い返せない。

とりあえず今はそのことは置いといて。

改めて自分の気持ちを確かめてみる。さっきも言った通り健一さんのことは好きだ。でも柊さんの時みたいに健一さんの笑顔を見たって心臓が騒がしくなることはない。今すぐ会いたいって気持ちが湧くわけでもない。

だから「うん」と返事すると健一さんは「そうか」と言って俺の頭をかき乱した。


「っ、なにすんだよ!」

「何を悩むことがあるんだ」

「な、何を、って……俺の話聞いてた? 人を好きになった時点で悩まない人なんていないだろ。ましてや相手は男なんだから……」

「だからどうした」

「へ?」

「好きになっちまったものはしょうがねぇんだから、相手が男だからってうじうじ悩むな」


言葉で言うなら簡単なことだ。所詮は他人事だからそんなことが言えるんだ。

いろいろ文句は浮かんだけど、でもおかげで悩みは吹っ飛んだ。

好きになっちまったものはしょうがねぇ、か。確かにその通りかもしれない。相手が男だろうが好きな気持ちに変わりはないんだから。それに柊さんのことを何も知らないなら直接本人に聞けばいい。これから知っていけばいい。

その結果がどうであれ、うじうじ悩むよりましかもしれない。

これも健一さんのおかげだと礼を言えば健一さんは「振られたら慰めてやるから思いっきりやれ」と励ましのつもりなのか縁起の悪いことを言って俺の背中を叩いた。

痛さの中には確かに優しさも混じっていて、俺はもう一度「ありがとう」と礼を言った。




そんなことを思い出しながら、やっと配達先である柊さんのお宅に到着した。

インターホンを押して待つ間に呼吸を整えていると、この前と同じように扉の向こうから「いま開けますね」という声が聞こえてくる。

どっくん、どっくん、と明らかに体に悪そうな音を立てる心臓に落ち着けと言い聞かせるもそれは無駄な努力に終わった。

ガチャリ。扉が開いて柊さんが顔を出す。

さて、とりあえずはお友達から始めなきゃ。
 
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