だからどうした
□19 知る前よりも
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沈んでずぶ濡れになった俺と、水しぶきをまともに浴びてずぶ濡れになった智樹さん。どうしてこんなことになったのか、息を整えてる間に頭を整理しようと思ったけどこんな状況でそれは不可能なことだった。
掛け流しの水音だけが聞こえる大浴場で、二人きり。
顎から滴り落ちるしずくも、濡れた髪をかき上げるしぐさも、濡れた肩も、今の俺には刺激が強すぎて、やり場をなくした目が無意識に逆を向く。そうしていると隣から小さな笑い声が聞こえてきた。
「ふ、くくっ、ごめん。我慢、してたんだけど……、ははっ、ほんと、ごめんっ」
「どうぞ存分にお笑いください」
智樹さんの笑いに合わせて揺れる水面を眺めながら気づかれないようにそっと息を吐く。
二人きりになるくらいならあの時俺も一緒に行けばよかった、などと後悔してももう遅い。今はこの場をやり過ごすことだけに集中しよう。
ひとしきり笑った智樹さんは最後に大きく息を吐くと静かになった。
また掛け流しの水音だけが聞こえる大浴場で、引き続き二人きり。
体が熱い。鼓動がうるさい。この鼓動が智樹さんに聞こえてしまうのではないか。そう考えると余計に鼓動がうるさくなる。肩が触れ合いそうなほど近くに智樹さんがいる。そう考えても余計に鼓動がうるさくなる。どうしたって何をしたって鼓動がうるさくなるこの状況は心臓に悪い。いろんな意味で。
智樹さんは今のこの状況を理解してるんだろうか。
恋人関係の二人が至近距離で素っ裸。何が起きてもおかしくない状況なのにいまだ何も起こらないのは俺の理性が頑張っているからだ。その理性が智樹さんの肌を少しでも見てしまうと簡単に崩れそうだからずっと水面を見つめているわけだけれども、それももう限界かもしれない。
だってただただ首が痛い。
いや待て。俺はなに頑なになってるんだ。夕飯前に風呂を済ませたはずの智樹さんがわざわざ起きてまでここに来たということは、何かが起きるのを期待している、と考えてもいいんじゃないかな。だったら理性で押さえつける必要はどこにもない。
いやいや待て待て。仮にそうだとしても心の準備もなしにいきなりというのは気が引ける。
でも待てよ。智樹さんは今のこの状況を理解できないような人ではない。それに今のこの状況を作り出したのは紛れもなく智樹さんだ。
据え膳食わねばなんとやら。智樹さんがここまでしてくれたんだ、俺が及び腰になってどうする。よし、いちにのさんで向きを変えよう。
と覚悟を決めた瞬間、智樹さんが俺の手を握って不安げな声を漏らした。
「どうして、……こっちを向いてくれないんだよ」
ついさっきまで笑い声をあげていた人と同一人物なのかと疑うほどの弱弱しい声色に、いちにのさん、を唱えることもできずに首が動く。
そうして合った目は俺をじっと見据えていて。どんな気持ちで俺の後頭部を見ていたのかを考えると胸が締め付けられた。
「どうして……、どうしてキス以上のことをしようとしないんだ。お、俺はずっと待ってたのに。やっぱり男相手じゃキスはできてもそれ以上のことは……っ」
今にも泣きだしそうな顔をするもんだから、言葉を遮って、安心させるように智樹さんを抱き寄せる。
「ごめん。違うんだ、そうじゃなくて。……怖いんだよ。男同士なんて初めてだから何をどうすればいいのかよく分からないし、そのせいでいやな思いをさせたらどうしよう、とか。……不安ばっかりなんだ」
「俺にうざがられても遠慮はしないって言ったじゃないか」
「いや、それとこれとは話が違うというか」
「そうだとしても男同士でもやり方はそんなに変わらないだろ。それに好きな人とやることなんだからいやな思いなんかしない。まだほかに何かあるか」
「い、いえ、ありません」
「だったら、いいだろ……?」
「は、え、ちょ、待っ」
太ももを掌で撫でられて思わず腰を引く。抱きしめていた腕をほどいて智樹さんの両肩を掴み、引きはがす。
「智樹さん待って。もしかして酔ってる?」
「酔うほど飲んでない」
「じゃあなんで急にこんなこと」
「急じゃないよ。さっきも言っただろ、ずっと待ってたって。それに不安なのは吉井君だけじゃない。俺だって不安ばっかりなんだ。思ってたのと違うってさんざん言われてきたから、吉井君にも同じことを言われたらどうしよう、って……。だからってこのまま何もしないのはいやなんだ」
智樹さんが俺の胸元に額をつけて真情をぶちまける。
そうか、豊島さんが言っていたのはこのことか。
思ってたのと違う。一度だけならまだしも智樹さんはさんざん言われてきたと言った。好きになった人にそうやって別れを告げられることを何度も経験すれば恋愛不信になってもおかしくない。この人は本当に自分のことが好きで付き合っているのか、と。でも今度こそは、次こそは、と期待しても結局「思ってたのと違う」で簡単に終わる。それが続いた結果、ひとりの方が気楽、という答えに辿り着いたのかもしれない。
これらは俺の想像でしかないけど、俺の想像以上に智樹さんはつらい思いをしてきたんだと思う。それでもこうして向き合ってくれていることが嬉しくて、俺はまた智樹さんを抱き寄せた。
「思ってたのと違う智樹さんを知ったら、俺はそれを知る前よりも智樹さんを好きになるよ。きっと」
「そんなの、わからないじゃないか」
「だって俺、ぞんざいに扱われる豊島さんを羨んだくらいなんだよ。それに昼間も、ばかって言ってくれてめちゃくちゃ嬉しかった」
「え、吉井君ってそういう……」
言いながら智樹さんが身を引こうとするから慌てて腕に力を入れる。
「いや待って誤解しないで。俺はただどれだけ智樹さんが好きかを言いたくて」
「ははっ、ごめん、冗談だよ。ちゃんとわかってるから。……それに、もしそうだとしても俺もきっと前より吉井君を好きになると思う」
智樹さんが腕の中で身じろぎして俺の胸に耳をあてがう。そうして相も変わらずうるさい心音に耳を傾けながら「騒がしいなぁ」と静かに笑う。
……。なんだろう、この、和やかな雰囲気は。
ついさっきまでやるかやらないかの攻防戦を繰り広げていたとは思えない雰囲気に戸惑いながらも寄りかかってくる智樹さんを抱きしめ、頭にそっと手をのせる。すると耳を傾けていただけの智樹さんがさらに距離を詰めるように頬擦りしてくるもんだから体が硬直した。
雰囲気が変わっても状況が変わるわけでもなく。掛け流しの水音だけが聞こえる大浴場で、相変わらず二人きり。
「と、智樹さん……!」
理性が働いている今のうちに。智樹さんの両肩をつかんでそっと引きはがす。
「智樹さんがどんな気持ちでここに来たのかちゃんとわかってる。したくないわけでもない。でもやっぱり今はやめよう。こんなところじゃ集中できないし、もし誰かが来ても途中で止められる自信、俺にはないから」
智樹さんに負けじと俺もはっきり言葉にする。その勢いで「だから帰ってからしよう!」と、なんとも恥ずかしいことを言ってしまった。三秒ほど間が空いたあと、風呂のせいではない熱が全身を駆け巡る。
ほぼ同時に智樹さんも顔を真っ赤にさせるからさらに熱が上がった気がした。
「いや、あの、違っ、わないけど、……ごめん。はあ、なに言ってんだ俺……」
「お、俺のほうこそごめん。やっぱりちょっと焦ってたのかもしれない。昔から後先考えずに行動することが多くて……なんか、今になって恥ずかしくなってきた」
すいー、と目を横に動かして俺の視線から逃れた智樹さんが居た堪れなそうに縮こまる。
目の前でそんな恥ずかしがられちゃ我慢ならない。
俺は慌てて智樹さんの肩から手を離し、少し距離をとって背を向けた。
「さっ、先に出て部屋に戻ってて。俺もすぐ戻るから」
「う、うん、わかった」
大きな水音を立てて智樹さんが立ち上がる。その反動で俺の体が細かく揺れる。
それから遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなり、波立つ水面も穏やかになって、しばらく微動だにせずじっと待っていた。
「……、はあ」
自分の起こした行動で赤面するところとか、恥ずかしがり屋なくせして変なところで積極的なところとか、どうにかしてくれないかな。
ツボにはまって抜け出せそうにない。
いや、このツボからは抜け出す必要はないか。