だからどうした
□08 不審者
1ページ/1ページ
そういえば智樹さんは姉貴とどんな話をしたんだろう。改めてそのことが気になったのは四日後の配達日。智樹さんちのインターホンを押した時だった。
あの日の帰り道では智樹さんの態度の理由に頭を占領されてたからそんなことすっかり忘れてたよ。まあでもそんなに気にすることでもないか。姉貴はともかく智樹さんは終始にこやかだったんだからそんなに変な話はしてないと思うし。
だけど。もしも、智樹さんのあれは営業スマイルだったとしたら……。
いや、とりあえず「先日は姉が迷惑を掛けましたごめんなさい」と頭を下げよう。その流れで話の内容を聞いてみよう。
「いま開けますね」の声が聞こえてからゆっくり開く扉をぼんやり見つめながら智樹さんとの会話を頭の中でシミュレーションをしてみる。だけどそれは智樹さんが出てきた瞬間にどこかにぶっ飛んだ。
久々に智樹さんが眼鏡をかけているから。
ああ、もう、相変わらずかっこいいなぁ。しかも今日はサイドで結わえた髪を前に垂らしているせいでいつもより色気があるように見える。ああ、髪の毛、柔らかそうだな、触ってみたいな。
「吉井君……?」
「……、っ、ひゃい!」
つい見惚れてて変な声が出てしまった。恥ずかしい。
荷物を持っていなかったら無意識のうちに髪へ手を伸ばしていたかもしれない。危ない危ない。
顔が熱くなるのを感じながらわざとらしい咳ばらいを一つ零していつものやり取りに移る。そうして渡したボールペンで伝票にサインをする智樹さんを見ていると、疑問が浮かび上がってきた。
「今更だけど、智樹さんって視力悪いの?」
最後の一画を書き終わるタイミングで素直に疑問をぶつけてみると智樹さんはぽかんとした顔を俺に向けた。あれ、俺そんなに変な質問したっけ、と心配になったけどそれは杞憂だったようで、智樹さんは不意に小さく笑って口を開いた。
「悪くはないんだけど良くもなくて、だからこれは本を読むときだけなんだ。でもたまにこうやってかけたのを忘れたまま出たりするんだけど……」
「へぇ、そうだったんだ」
「……どこか変かな?」
と、恐る恐る智樹さんが聞いてくるもんだからその不安を吹き飛ばすように「似合いすぎてかっこいいです!」と素直すぎる気持ちを半ば勢いで言い切ってしまった。
再びぽかんとした顔を俺に向ける智樹さんを見て、やっちまった、と。
だが時すでに遅し。口から出た言葉を飲み込むことなんかできるわけもなく。
これまたできるわけもないけど時間を巻き戻したい気持ちでいっぱいになっていると、目に見えてわかるほどに智樹さんの顔が赤く色づいていく。それから智樹さんは「え、あ、ははっ、よ、吉井君は人を褒めるの、が上手いな」と焦ったように言葉を紡ぐ。
思いがけない反応に固まっていれば伝票とボールペンを突き出すように渡された。
そして智樹さんは俺に仕事終わりのありがとうございましたを言う暇すら与えてくれず逃げるように「じ、じゃあまたよろしく」と扉を閉めた。
ぱたん、と閉まった扉の前で、ぽつん、と取り残される俺。
……。……え、なにさっきの反応。ただかっこいいと言われたことに照れただけか、俺にかっこいいと言われたことに照れたのか、どっちだ。いや、普通に考えれば後者なんてありえないけどさっきの反応じゃ何とも言いきれない。
あれだけの美貌だ、今までさんざん言われてきたに違いない。なのに俺が言っただけであんな風に照れるなんて。
こんなの誰だって自惚れるに決まってる。
もう、なんなんだよ。四日前は嫌われたかもしれないと不安になって、でもそうじゃないとわかって安心して、これからだっていう時にあんな反応を見せられて。
次は俺が智樹さんから目を逸らしてしまいそうだ。
ぷしゅう、と湯気が出そうなほど赤くなる顔を隠すように手で覆って、腹に溜まった諸々の何かを息に乗せて一気に吐き出す。
……、よし、切り替えよう。いろいろ考えるのは仕事が終わってからだ。
ぱんぱん、と軽く頬を叩いて気合を入れる。そうして仕事に戻ったものの、ふとした瞬間に智樹さんのあの顔を思い出しては現を抜かし、結局仕事には身が入らなかった。
そして姉貴との会話の内容を聞こうとしていたことを忘れていたと思い出したのは、仕事終わりの帰り道でのことだった。
今日の俺はダメダメだ。
溜め息を吐きながら静かな夜の道を進む。
なんだか無駄に疲れたし帰ったらすぐ寝よう。飯も風呂も明日でいいや、と投げやりになった瞬間、ポケットのスマホがぶるぶると震えた。ああ、また嫌な予感しかしない。
うんざりしながらスマホを取り出したけど表示されていた名前は予想していたものではなくて。え、なんで智樹さんが、と混乱しながらもすぐに通話を開始した。
「も、もしもし……!」
『……いま、大丈夫かな?』
電話口から弱々しい声が聞こえてくる。
「大丈夫だけど、どっ、どうしたの……?」
心配になって俺の声まで弱々しくなる。でもちゃんと声は出てたから向うに聞こえないわけではないはずなのに、なかなか返答がない。
本当にどうしたんだろう。こんな時間に電話してくることさえ珍しいのに、更に弱々しい声まで聞かされちゃ心配で心配でたまらない。それで焦って「智樹さん大丈夫? どうしたの?」と畳みかけるように問いかけても返答がないから涙が浮かんで視界が滲む。
とりあえず返答が欲しくてもう一度、今度は深呼吸してからなるべく落ち着かせた声色で「智樹さん、大丈夫?」と問いかけた。
そうしたところでやっと、相変わらず弱々しくはあったけど声が返ってくる。
『……、こんな時間にごめん。仕事で、疲れてるのに、本当にごめん』
「だから大丈夫だって。どうしたの?」
『風邪、ひいたみたいなんだけど、吉井君しか頼れる人がいなくて……。何か、適当に食べるもの買ってきてほしい、です』
物凄く申し訳なさそうだったから何事かと思えばそんなことか。お安い御用だ。
「すぐ行く」と短く答えて電話を切り、来た道を小走りで引き返す。
適当にって言われたから本当に適当に買ってきたけどこんなものでよかったかな、と袋の中を覗き込んで不安になりながらインターホンに手を伸ばす。でも電話の時と同じようになかなか出てこなくて、もう一回押そうかな、寝てるところを起こしちゃ悪いかな、でも買い物頼まれたから帰るわけにもいかないし、もしかして動けないほどしんどいのかもしれない、まさか倒れてはいないだろうな……、とぐるぐる考えていたからガチャリとドアが開いて一安心。
出てきた智樹さんは見るからに具合が悪そうによろよろと出てくるもんだから、咄嗟に体を支えると電話の時よりも弱々しい声で「ありがとう」と聞こえた。
昼間はあんなに元気そうだったのに。……ああ、でもそうか、あの時からどこか具合が悪くてあんな反応になったわけか。納得。
智樹さんの力ない案内で寝室に足を踏み入れベッドに智樹さんを寝かせた俺は「キッチン借りるね」と言い残して部屋を出た。
初のお宅訪問にも関わらず、今はそんなことよりも智樹さんの体調が心配すぎて緊張はどこへやら。そういえば姉貴が風邪ひいたときも似たようなことしてやったっけ、と暢気に昔を思い出しながらいろいろ準備して寝室に戻る。
「智樹さん、大丈夫? 起きれる?」
「……んー」
布団を押し上げてのそりと起き上がる智樹さんを横目に見ながら、サイドチェストにおかゆを乗せたお盆を置く。
「熱は測った?」
「……38度、ちょっと」
「おかゆ食べられそう?」
「なんとか」
「じゃあゆっくりでいいから無理せず食べられるところまで食べて、スポーツドリンクもあるからこまめに飲んでね。他にもゼリーとかいろいろ冷蔵庫に入れておいたから食べたかったら食べて。明日、仕事の合間に時間作って様子見に来るから」
うん、うん、とぼんやり返事する智樹さんが心配ではあったけど俺がいるとゆっくり休めないかと思って早々にお暇することにした。瞬間、熱のこもった智樹さんの手が去り行く俺の手を掴む。
びっくりして智樹さんの顔を見れば何故か智樹さんもびっくりしたような顔をしていて。
ぱっ、と手が離される。
「ご、ごめん。ありがとう、と言おうと思って。それから鍵、閉めたらドアポストに入れておいてクダサイ」
智樹さんはそう言いながらサイドチェストから取り出した鍵を渡してきた。
もしかして俺に帰ってほしくないんじゃ、なんて一瞬でも考えた自分が途端に恥ずかしくなり、「じゃあ、お大事に」と早口に告げて逃げるように部屋を後にした。
がちゃり、と鍵を閉めて、言われたとおりドアポストに鍵を入れる。
任務完了だ。
手を掴まれた時の熱を思い出しながら歩く帰り道。
何とも言えない感覚で体が満たされにやにやしながら歩く俺は、不審者に間違われてもしょうがないと思う。