La Luneシリーズ

□第三幕
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 奥底に押し込められていた意識がゆるゆると浮上していくにつれて、耳鳴りのような雑音が激しく襲う。かと思えばその波も程なくして収まり、目蓋の向こうで世界が白く染まって再び黒く塗りつぶされた。静かな振動音と潜めた低い声に徐々に聴覚の焦点が合っていく。
「――じゃ。このままだとまずいことになるぞ、豪」
「今さら放り出すわけにはいかん。そんなことできるわけねぇじゃろ」
「けど、どうするんじゃ。どうにかヒガシがカメラの目を誤魔化してくれとるけど、それだっていつまで続くか……」
 三人分の声がする。
 身体が揺れ肩から腹にかけて食い込むものがあり、締め付けが苦しい。ふと寄った眉根に触れたのは、指先か。柔らかくはない感触は心地良いものであるはずがないのに、不思議と安心してしまう自分がいて目を開けた。
 暗い。目をしばたたいた。
「気がついたか、巧」
 覗き込む男の姿が一瞬ぼやけ、視界がクリアになるのに瞬きを数度要した。二十代、くらいだろうか。どうやら自分たちは車の中に居るようで、後部座席の隣に収まる大柄な体躯は少しばかり窮屈そうだ。通過していく対向車線のヘッドライトが、角張った横顔を照らし出しくっきりとした陰影を落としては窓の外へと流れていく。ごつい顔付きをしているがくりりと丸い瞳はどこか人懐っこそうな空気を醸し出していた。
 スモークの張られた窓越しの様子を見るに辺りは住宅街のようだった。明かりの乏しい一帯が、夜明けを近くに控えた薄暗さの中に沈んでいる。
 男の手がこちらの眉間から離れたかと思うと頬に触れた。
「気分は平気か。どっか痛いとことか――」
 ひどく優しい口調だったが遮らずにはいられなかった。
「あんた、誰?」
 口走ってから、浮かんだ男の表情に覚える後ろめたさ。見開かれた瞳は揺れ、唇が引き結ばれる。言ってはいけないことを口にした気がしてざわめく心を取り繕うかのように、口早に言葉を継いだ。
「ここ、どこだよ。ていうか、どこに向かってーー」
「巧」
 呼ばれて初めて、恐ろしい事実に直面してしまう。口の中が一気に渇いた気がした。
 『たくみ』という三文字の単語。
 それは、一体。
「……誰の、名前だ」
 呟き、呆然と男を見つめた。
「おれの……名前、なのか」
 車内に下りる沈黙を破ったのは、前に座る助手席の男だった。長く息を吐き出してから口を開く。
「何が起こっとるんか分からんけど……まずいことになったみてぇじゃな」
 バックミラー越しにこちらを見やる顔立ちもまた見覚えがないものだ。否、そう主張する『記憶』があった。心に引っかかる感情を、理性が否定する。
「いや……記憶が一時的に混乱しとるだけかもしれん」
「けどな、豪」
「待てよ、あんたたちは誰なんだ。おれは、」
 不意に、頭の髄でずきんと締め付けられるような痛みが走りこめかみを押さえた。回り出す視界の中、脳裏をよぎるのは宙に浮かぶ朱の飛沫と悲鳴。鼓膜を震わす激しい銃声が耳奥に蘇り、内臓がひっくり返る。口元へと手をやりかけたのと、隣から広げたビニール袋が滑り込んでくるのと同時だった。腹の底からこみ上げるものをこらえられずに吐き出した。けれど固形物はなにも出てこなくて酸っぱい液体だけがびしゃびしゃとビニールに当たっては落ちていく。袋に縋り付き震える背中を大きな手のひらが撫でた。
「サワ、窓」
「了解」
 運転席側の窓が下げられ、外の空気が車内へ入ってくる。車通りが少ないのか辺りは静かだ。
 徐々に吐き気の波が引いていき落ち着いていった。面識のない者たちにみっともないところを見られたと思うと羞恥に身体が火照り、すえた臭いを放つ袋から顔が上げにくい。車が止まり、声がした。
「大丈夫かぁ、原田」
 振り返り覗き込む新たな影がある。このまま俯いたままでいるわけにもいかないので、渋々上体を起こせば身を捻って運転席から身を捻って顔を覗かせた坊主頭が目に入った。眉尻が下がり今にも泣きそうな表情だ。
「……平気だ」
 掠れた声で答えると、横の男があっさりと吐瀉物入りのビニール袋を取り上げ口を縛り、代わりにペットボトルがを押しつけてくる。中身はスポーツ飲料らしい。
「身体が落ち着いたら飲んどけ。常温じゃから、胃に負担も少ないはずじゃ」
 信号が変わったのか車が再び動き始めた。何なのだろう、と疑念に眉をひそめずにはいられない。口調から察するに向こうはこちらのことを知っていて、しかも自分とはかなり親しいようだった。友人、と呼ぶには近すぎる気がするこの距離は一体どういう関係なのか。
「原田巧。それがおまえの名前じゃ」
 黙り込んだ反応をどう受け取ったのか、男はそう言ってぎこちなく笑った。
「おれは豪。永倉豪って言う。車の運転しとるんは沢口で、助手席に居るんは東谷。二人ともおれたちの友達じゃ」
「……そうか」
 なぜ自分はここにいるのか、彼らとどんな関係なのか、どこへ向かっているのか、疑問は尽きなかったが追求する前に車が停まった。
「到着したで」
 そこはとある一軒家の玄関口。東谷と紹介された方の男が助手席から下り、駐車スペース前の柵を開けに向かった。車は東谷のガイドを受け、バック音を響かせながら数度の切り返しを経て家の敷地内に入っていく。
「ちょっと待てくれ。これはどういうーー」
「説明は後でちゃんとするけん、今は言うとおりにしてくれんか。……巧のためなんじゃ」
 訳の分からぬまま事態が動いていくのはなんとも居心地か悪い。しかし、豪が嘘をついているようには見えなかった。本気で自分のことを考えてくれているらしい。抗議の声をぐっと飲み込めば、車が一際大きく揺れて停車する。
「誰に見られとるとも限らんし、早よ家ん中入ろう」
 豪だけでなく沢口にまで言われ、巧はシートベルトを外すとスライド式の扉の外に出た。狭い駐車スペースの脇にある玄関口には既に東谷が居て、家の鍵を開け巧たちを待っている。周囲を警戒しているのか油断のない視線を辺りへ走らせていた。
「豪」
「なんじゃ」
「……おれたち、追われてでもいるのか」
 問えば、隣に立つ豪の眼がすっと細まり困ったような笑みが浮かんだ。
「勘がええんは相変わらずじゃな」
 歩き出す豪に手首を掴まれてつんのめりそうになる。引きずられるようにして家の中へと上がれば電気がつけられた。
「……手、見てみ」
 低い呟きに従って目線を下へと向けた巧は目を見開いた。
「こ、れって……」
 爪や指先にこびりついた暗褐色の錆色。同時に見えたジーンズはあちこち裂けて生地の糸がほつれている。暗い車内では気がつかなかったものだ。
「これでも目立つ血の跡は拭いたし上も着替えさせたんじゃが、なかなかしつこくて」
 脳内が真っ白になり背後で扉の閉まる音すら聞こえない。固まり立ち尽くしかけたところで、ぎゅ、と手首を握る手に力が籠もり巧は顔を上げた。
「大丈夫じゃ。なんとか……なんとかするけん」
 繋がれた温もりだけが確かなもので。存外にしっかりとした眼差しを受け止めて、混乱した思考を鎮めるために大きく深呼吸をしてみる。
「……あー、もう、そんなとこに突っ立っとるな。後ろがつかえとるじゃろが」
 わざとらしい咳払いに続いて巧たちは押しのけられた。東谷がずかずかと廊下に上がり部屋の奥へと入っていく。
「一階はリビングと水回り、二階は寝室が三つじゃ。好きに使ってくれて構わん。ただし窓のブラインドは下げとくこと。冷蔵庫とか食品棚のもんは食ってもええけど、消費した分はおれかサワに言うてくれ」
 廊下の突き当たりのドアの向こうには十畳ほどのリビング兼ダイニングルームが広がっていた。沢口、豪の後から続いた巧は眉をひそめる。
「この家……東谷のなのか?」
「正確には違うけど、セーフハウスの一つ、ってとこじゃな」
「セーフハウス?」
「そ」
 頷き、二人掛けにしては大きめな設計のソファーへと歩み寄った東谷が屈み込む。座面の縁に指を引っかけ力を入れれば、ぱかりと持ち上がって収納スペースが現れる。その中に入っていたのは。
「うわ」
 流石の豪も驚いたようで声を上げた。
 ぎゅうぎゅうに並んでいたのは銃火器の類だった。座面の裏に固定されているもの、ケースごと並べられているもの、様々だがいわゆる武器というものに間違いない。その中からまず最初に選び取ったのは拳銃二丁で、ジーンズの穿き口に銃身を挟み上からシャツで覆い隠してしまう動作から見るにかなり扱い慣れているようだ。続いて無造作に取り上げたライフルのボルトを操作しガシャンと音が鳴る。
 そんな相方の様子にも動揺することなく、沢口はと言えば食品棚から取ってきたのだろう栄養食品を差し出してきた。
「チョコ味とプレーン味があるけど、どっちがええ?」
「要らない」
 沢口には悪いが短く断り、巧は問う。
「あんたたち……何者だ?」
 ライフルのスコープの具合を確かめていた東谷が顔を上げ、ソファーの座面を元に戻した。沢口と軽く顔を見合わせて肩をすくめる。
「ま、簡単に言えば『便利屋』ってとこじゃな」
 便利屋。
 口の中で繰り返すと、沢口が首肯した。
「家の補修から夜逃げの手伝い、探偵業務、身辺警護まで何でも承りますってのがボスのモットーで――――」
「要するに、今は豪から依頼を受けてここに居る。依頼者との守秘義務があって、おれからはこれ以上何も言えんけど」
 東谷が視線を向ける先は巧の隣。豪がふぅと息を吐いた。
「とりあえず、座らんか巧。何があったか……おれも分からんことが多いんじゃけど、できる限り説明する」
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