その他の部屋
□Say hello to sunshine.
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部室で制服から練習着に着替えて、グラウンドに向かっているときだった。
「遅咲きさん、咲いとる」
城野の隣で、萩がふと呟いた。指差した先を見れば、枝の先にほんのりと開く薄ピンク色に色付いた花弁。桜だ。
もう入学式も終わったこの時期だと、校内のほとんどの桜はとっくに開花して散り始めている。まだふっくらとしたつぼみを残すこの桜は珍しい部類に入るだろうけれど、恒例のものでもあった。
校舎裏のため日当たりが悪く、いつも最後までぐずぐずとしている様子から『遅咲きさん』などと萩が名前を付けているのを城野は知っている。
もうすぐ部活が始まるというのに、萩は桜の木の下まで歩いて行くと立ち止まってしまった。置き去りにもできず、城野も後を追いかける。
「おい、雄途――」
「『おはよう』やな」
花ほどけた桜を見上げて、萩が言う。
「はぁ?」
城野は眉をひそめた。
これから部活が始まる時間だというのに、何を言っているのか。城野の問いたげな空気を察したのか、柔らかい笑みがこちらを振り返る。
「ずっと冬の間眠っとって、目え覚ましたんやろ? だから、『おはよう』」
まるで春を告げるときを彷彿とさせる、謳うような口調だ。にこにことする萩を前に、気が付くと口元が歪んでいた。
「呑気やな」
つい、とげとげしく吐き捨ててしまう。
「おれら、三年になったんやぞ。瑞垣さんも居らん、門脇さんも居らん、なのに、」
言いかけて、城野は口をつぐむ。
心にくっきりと焼き付いて離れない光景が脳裏で蘇った。灰色の景色。打たれ、打てない白球。駆け抜けた白の軌跡は、横手が誇る快音を轟かせることなくキャッチャーミットへと吸い込まれていった。
あの試合から二週間と少しが経つ。
突きつけられた敗北に、何度唇を噛み締めたことだろう。それでも、前を向いてキャプテンという座を引き継ぐ責任が城野にはあった。横手の名前を全国区のものにした大きな戦力がない中で、原田が居る新田東を迎え撃たなければならないのだ。
城野は拳を握り締めた。こんなのはただの八つ当たりだ。餓鬼くさくて、みっともない。眉根を寄せてこちらを見つめている萩から、目を逸らす。
二人の間に下りた微妙な沈黙を先に破ったのは萩だった。
「おれらも……さ、寒い冬を過ごした桜みてえに、キツかった。でも……でもな、しんどい夢見て目え覚めときには、朝日が出るんやで」
城野は視線を戻した。穏やかな表情は変わらない。けれどマウンドに上がったときと同じ、強い光を芯に宿した瞳がそこにはあった。どきりと鼓動が跳ねる。
「そうしたら、待っとるんは『おはよう』や。今度は、おれらの番」
ふわりと舞う風が、帽子の下の萩の髪を揺らす。にっ、と歯を見せて笑う萩に素直に頷けるほど、大人にはなれなかった。
「……曇ってたら見えないぞ、朝日」
ぶはっ、と萩は噴き出す。
「確かに。雨とか、雪かもしれんしなぁ」
「じゃあ、」
「けど、雲の向こうにはお日さま居るし。雨降ったからって、おはようは変わらんし。おれはたっちゃんに投げる。そんだけ」
またな、遅咲きさん。
桜の花に向かって、萩は律儀に手を振った。
「そろそろ行こうで。キャプテンが遅刻なんて、あかんやろ」
歩き出し、城野とすれ違い様に肩を叩いていく。
——――自分よりも小さいはずの背中は、不思議と大きく見えた。