その他の部屋

□邂逅
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邂逅


 ガコン、と落ちてきたスポーツ飲料のペットボトルを拾うために、取り出し口へと屈み込む。グローブの固い感触がまだ濃く残る手のひらに、濡れた表面はひんやりと心地よかった。
 海音寺一希は、ペットボトルを手にしたまま自販機の隣にあったベンチに腰掛けた。息を吐き出して、見るともなしに辺りへ視線を彷徨わせる。
 終わったんだな。
 ぼんやりと、思った。

 県大会、ベスト8。

 それが、彼が所属する新田東中学校野球部の試合結果だった。つい先ほどまでグラウンドに立っていた身体は火照り水分を欲していたけれど、ペットボトルの蓋を開ける気にはなれない。容器をぎゅっと握り締めれば、張り付けられたラベルがぺりと歪んで軋んだ音が立った。
 球場のロビーは、グラウンドの整備が終わるまでの空き時間を過ごす野球児の姿が多く見られた。応援か偵察か、何やら集まって話している他校の生徒たちも居れば、次の試合に向けて軽く準備運動を始めている選手たちも居る。彼らが着ているのは、海音寺たちと対戦していた学校のユニフォームだ。
 海音寺は汗で鼻の上を滑る眼鏡を押し上げた。
 もし新田東が勝っていれば、自分たちが彼らになっていたのだ。当たり前のことを思い、歯噛みする。これが最後の試合となる上級生の3年生たちは、県大会ベスト8という過去最高の成績に満足していたらしい。試合後は晴れやかに笑って、海音寺たち2年生に『次の新人戦と秋季大会も頑張れよ』などと声をかけてくれた。
 だが。
 かんかん照りの日差しが照りつける、眩しい舞台での高揚感にはひどく中毒性がある。汗と土の匂い。バットで、グラヴで、ボールを捉えた瞬間。あと少し、もう一試合。そんな飢えた感情に、なかなか折り合いをつけられずにいたその時だ。
「飲まんの、それ」
 ふとかけられた声に、びくりとする。手元に影が差して顔を上げると、視界へ飛び込んでくる白地に赤の校名が入ったユニフォーム。海音寺は目を見開いた。
「横手の……門脇?」
 横手二中の門脇秀吾。
 この辺りで野球をしている中学生ならもちろん、きっと全国の軟式野球児だって知っているであろう名前が脳裏をよぎった。横手二中の名前を全国区にした、天才新人スラッガーだ。
 でかい。
 初めて間近に見て、圧倒されそうになる。上背も肩幅も既に海音寺を上回っており、同じ学年の中学生とはとても思えなかった。まだ顔のラインに子供っぽさを残す丸みがあって、大柄な体躯に不釣り合いな印象だった。
 自販機のボタンを押し、海音寺に向かってにっと歯を見せ門脇が笑った。あどけない笑みだ。
「新田東のショートじゃろ。珍しい名前の」
「海音寺。海音寺、一希じゃ」
「おれは横手二中の門脇秀吾。知っとるみたいやけど。あ、隣ええ?」
「はぁ……まぁ」
 断る理由もないが、こんな有名選手に話しかけられて正直なところ面食らっていた。意外と気さくなようだ。
 海音寺が選んだものと同じスポーツ飲料の蓋を開けると、門脇はごくごくと喉を鳴らして中身を流し込む。3分の1ほど飲み下してから、口を開いた。
「海音寺って、守備もバッティングも、上手いんじゃな。うちの2年に突っ込んでもそこそこイケるんやねぇかって話とったんじゃ」
 一瞬、返答に詰まった。
「試合、見とったんか」
「うん。この後、どっちかと当たるって分かっとったからな。下調べに……。あ、8回表の三遊間抜けたとこ? あそこの捕球、おまえめちゃくちゃキレッキレやったろ。うちのショート並みや……とか言うたらあいつに怒られそうじゃけど」
 門脇は一人苦笑いを浮かべる。
 急に顔が火照ってくる気がして、海音寺はペットボトルの蓋を捻り口をつけた。試合後の渇いた身体に、ほどよい甘さと塩味が染み渡る。気が付くと半分近くを貪るように飲み干していた。
 口元を手の甲で拭い、海音寺は帽子を取ってぱたぱたと仰いだ。冷房が効いているとはいえ、グラウンドの熱が響いているのか屋内のロビーもそこそこに蒸し暑い。自然と、ため息が零れ落ちていた。
「……まあ、負けたけどな」
 思ったより、ほろ苦さが滲んだ口調になった。門脇がちらりとこちらに視線をやったのを感じる。
「惜しかったよな。攻撃も守備も悪くねぇのに……ええピッチャー不足て感じか」
 門脇の指摘は図星だったが、それを簡単に受け入れるには自分のチームへの愛着が強すぎた。海音寺は唇を尖らせ、ペットボトルの液面を見下ろす。
「そんなひどかねぇぞ。3年の菱野さんも、うちの代の緑川も。1年だって、ええバッテリーが居るし」
「でも強くもねぇだろう」
 確かに、そうだ。
 大きな欠点もないが、ずば抜けて秀でたところがあるわけでもない。良く言えば安定したピッチャー、悪く言うなら平凡な投手、ということになる。
 黙り込んだ海音寺の膝を広い手のひらが叩いた。
「すまん、お節介やな。言い過ぎた」
「うん、まあ……ええけど」
 来年すごいの入ってきたりせんかなぁ、などと思いながら、ぽつりと呟く。
「せっかく従兄弟が応援しに来てくれとったから、もう一回くらいは進みたかったな」
「へぇ、会いに行ったりせんでええの」
「試合終わったらさっさと帰った。この後ダブルデートなんじゃと。あ、そういや彼女さん、横手の近くに住んどるとかなんとか……はなえさんとか、なみえさんとか言うたな」
 門脇が答えるまでに、少しの間があった。
「それ、ひょっとして、たかえさん? 本庄たかえ?」
「ああ、そんな名前じゃったな。なんじゃ、知り合いか?」
「おれの姉貴の幼なじみ。昔は結構うちにも遊びに来とって……。今日、姉貴も一緒なんじゃねえのか。デートに何着てくか決まらんー、とか昨日騒いどったし」
 こんな偶然があるなんて。
 海音寺は思わず笑ってしまった。
「世間は狭いな」
「だな」
 グラウンドの整備が終わったことを告げるアナウンスが流れる。もうすぐ、次の試合に向けてのアップ時間の開始だ。
「次、おれたちの分も、頑張ってくれな」
 そんな言葉が海音寺の口から滑り出た。
「ああ」
 門脇は言われ慣れているのだろう、頷く動作は自然だった。けれど、今のやり取りには違和感が拭えない。自分で言っておきながら、眉をひそめる。違う、そうじゃない。
「いや……やっぱ今の、なし。忘れてくれ」
 海音寺は帽子を深く被り直して深呼吸をした。
「おれたちは、おれたちで勝ちに行く。いつか、横手にも通用するようなチームにする、絶対。待っとってくれ、門脇」
 笑われるかとも思ったが、意外にも門脇の表情は崩れなかった。顎を引いて、「わかった」と生真面目に頷く。
「海音寺ってさ、ひょっとして次のキャプテン?」
「まあなぁ、あんま、自信ねぇけど」
 今日の試合で、3年生は引退を迎える。2年生である自分たちが、これからは部を率いていかなければならない。その先頭を任されると思うと、バッターボックスに向かうときの緊張感など吹けば飛びそうなものに思えてくる。
「おれもキャプテンやれ言われとってさ」
 門脇がため息をついた。
「おれよりなんぼか頭良くて器用ですげえやつおるのに、キャプテンなんて柄やないって断りやがった」
 大変そうだよなぁ、と困ったようなしかめ面は、不安そうにも見えた。
「門脇みたいな天才バッターでも、そんな顔するんじゃなあ」
 本音がつい口をついて出る。門脇は少しむっとしたようだった。
「だって、大変じゃねぇかキャプテンなんて。部員に気ぃ配って、まとめて引っ張ってってさ」
 ペットボトルの表面を指でなぞりながら、門脇は続けた。
「うち、練習メニューとか練習試合の日程とかも自分たちで決めたりすることも多いんや。こっちの意見聞いてくれんのはありがてえなとか思うけど、考えんといけんこと多すぎてな……ホームラン打つ方が、よっぽど簡単じゃ」
「簡単じゃねえかもよ。ホームランも」
 何気なく放った言葉のつもりだったが、門脇の目の色がぎらりと変わったのが分かる。怒鳴られても、拳を振り上げられてもいないのに、海音寺は無意識のうちに身を引いていた。天才の自負。そんなワードがふっと浮かんだ。門脇から立ち上る妙な気迫に吞まれそうになったところで。
「おーい、カド。集合だって」
 声が聞こえてきた先に、門脇と同じユニフォームを纏った集団が見えた。少し離れたところに固まっている。どうやらチームメイトらしい。
「今行く」
 そちらに向かって返事をすると、門脇は腰を上げた。海音寺の方を見下ろした雰囲気は元に戻っている。
「このまま毎年全国行ってたら、いつか会えるかもな」
「は?」
 海音寺が聞き返せば、若き天才バッターは不敵な笑みを口元に浮かべる。
「すげえピッチャー。簡単に返せんような球、投げるやつ。そんなん居ったら、打ち崩してみてぇ。ぞくぞくする」
「全国ばっか見とると、意外と足元掬われるかもしれんぞ」
「なんじゃ、この辺に心当たりでもあるんか」
「いや、ねえけど」
 門脇に敵うピッチャーは少ないはずだ。でも、どこかには必ず存在する。それがすぐ近くにいるのか、遠くにいるのか、まだ分からない。
 けれど、地方大会だから、練習試合だから、全国大会だから、そんな括りは関係ないと思う。出会いはどこに転がっていたっておかしくないのだ。例えば今日、海音寺がこうして門脇と話をしているように。
「へえへえへえ、なに、秀吾、むちゃくちゃ余裕かよ。試合前にアツアツの密会とか、ちょっと止めて欲しいわぁ」
 笑いを含んだ声が耳に届き、門脇がぱっと振り返った。
「あほ、変な言い方すんな俊」
 横手のユニフォームの中に、にやにやとした視線を海音寺たちに送る少年が見えた。海音寺と目が合うと、片目をつぶって肩を竦めてみせる。
 どういう意味かは図りかねて反応をし損ねた海音寺の横で、ったくあいつは、と門脇がぼやいていた。その様子から察するに、かなり親しい仲らしい。足を踏み出しかけた門脇は、最後に一度こちらを顧みる。
「じゃあな、海音寺」
「バイ。秋の大会でな」
 片手を挙げて応え、別れた。
 仲間と共にグラウンドへと消える後ろ姿を見送り、残ったスポーツ飲料を飲み干す。足の裏で容器を潰すと海音寺は立ち上がった。
 この後は、横手の試合を見学してから帰る予定だ。チームメイトは今頃スタンドで監督と一緒に待っているだろう。

『横手にも通用するようなチームにする』

 門脇に告げた言葉を、違えるつもりはなかった。これからの1年は、長いようで短い。どんなチームにしていくか。そして、どんな試合ができるチームになるか。作っていくのは、自分たちだ。緊張と興奮で胸が高鳴る鼓動を胸に、海音寺は上のスタンドへと続く階段へと足をかけた。
 グラウンドからの熱気と光が、己を呼んでいる。



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