瑞受けの部屋

□策士の囁き
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 むっと湿気を含んだ夏の空気が半袖のポロシャツから伸びた腕に纏わり付いて気持ちが悪い。日よけ目的に被ったキャップの下、汗で蒸れた頭が暑かった。首筋を汗のしずくがつつっと流れて背中へとシャツの下を伝っていくのを感じながら、瑞垣俊二は足元のペットボトルを拾いキャップを捻って中身を口に含んだ。すっかり温くなり甘ったるく思えるスポーツ飲料を飲み下し、ぺろりと下唇を舐める。その視線は眼下へとぴたりと据えられていた。

 からりと晴れ渡った空の下に広がる土色のグラウンド。上空には真っ白な雲が浮かんでいたけれど、太陽の光を遮りはしてくれない。石灰で引かれた白線が日の光を反射して眩しく輝いて見えた。

 彼がいるのは県内の野球場だった。

 中学生軟式野球部の県大会の決勝が今日、行われる。

 試合前の独特な雰囲気を内包した球場は、浮ついた空気を醸し出していながらどこか張り詰めた緊張感をも漂わせていた。ちらほらと外野席を埋める観客の興奮した話し声から、応援スタンドの生徒たちの表情から、そして何よりグラウンドに直接足の裏を付けて立ち走りボールを追いかけてウォーミングアップをする選手たちの後ろ姿から伝わってくる。

 瑞垣はスコアボードに目をやった。ボードの下の段に書かれている校名は、横手第二、そして上の段には――。

「あ、瑞垣!」

 久しぶりのような気がするのに、聞こえた声の主をすぐ認識できてしまうのが忌々しくて初めは気がつかないふりをしてやった。

「おい、無視すんなって」

 声が近づいてきて隣に立つ気配がする。さすがに知らぬ存ぜぬで通すことはできなくなって横を向くと、高校球児よろしく短く刈った頭と眼鏡面とご対面。

「あら、どちら様でしたっけ」

 わざとらしく目を見開いてぱちぱちとまばたきをして見せれば、呆れたように嘆息された。

「みーずーがーき」
「はいはい、お久しぶりですこと、一希ちゃん。ご機嫌いかが」

 ようやく反応をもらえて嬉しいのか何なのか、歯を見せて笑って海音寺は肩から下げていた大きなエナメル鞄を足元に投げ置き席に座った。ところどころ泥に汚れた練習着から察するに、部活終わりなのだろう。

「瑞垣も応援か?」
「せっかくのぐうたらスクールライフを返上して面倒見てやったからな、お粗末な結果出してくれるなよって目を光らせに来ただけや」
「門脇は?部活か?」
「いーえ。英語と数学で期末赤点取って補習だとよ。ほんま、おめでたいやつで」

 そうか、と海音寺は呟き鞄から水筒を取り出した。傾けると中で氷がぶつかりカラコロと涼しげな音を立てた。

 グラウンドに散る赤色の目立つユニフォームが三塁側のダッグアウトへと戻っていくのが視界に入って、代わりに一塁側から白と青が基調のユニフォームが駆け出してくる。

 海音寺が隣で身を乗り出した。

「うわ、なんか変な感じじゃな。自分が前に着とったユニフォームここから見んの。な、おまえ変な感じせんか?」

 瑞垣は答えなかった。

 視線が一点に吸い寄せられる。

 ナインの中にいながら、他のチームメイトたちに埋もれることなくしっかりとその存在を主張している2人組。途中でマウンドとホームベースへと分かれてポジションについた。

 決勝で横手二中が対する相手。

 再び瑞垣はスコアボードへと目を向けた。

 そこに映る校名は、新田東。

 最強のバッテリー、と地元で話題になりつつある投手の原田と捕手の永倉を擁する新田東中学野球部は、それこそ破竹の勢いと称するに相応しい苛烈さを以て決勝まで今年度の県大会を勝ち進んできた。

 その相手を、全国区に名の知れた強豪横手二中野球部が迎え撃つ。

 潰せ、と瑞垣はコーチとして命じていた。その短い言葉の意図を、重みを、そして苦々しさを、現キャプテンの城野は痛いほど理解しているはずだ。

 これはいつぞの練習試合とは違う。全国への切符を手にするには横手二中が勝たねばならないのだ。

「懐かしいよな」

 呑気な声に隣を横目で見やった。後輩レギュラーの面子を見つめて目を輝かせている姿に片頬を吊り上げて笑ってやる。

「なに?その年でもう懐古主義か?やだね、もうろくしたじじいなんて」

 海音寺は気分を害したように眉をひそめた。

「なんでおまえはそういう言い方しかできんのじゃ。分かっとるじゃろ。おれが言うたのは、『あの』試合。もう半年も経つんじゃけど、なんかついこの前みたいだなって。瑞垣も、思わんか?」

 言葉と共に白っぽい花びらと雨雫が舞うグラウンドが脳裏をちらつく。湿っぽい冷えた土の匂い。断崖に追い込まれたような感覚に脚が震えたのは忘れられない。

 鮮やかに蘇る記憶に、大きく息を吸い込む。熱気が肺を満たして膨らませる。太陽光の下、汗がこめかみを伝った。

 ここは、あそことは、違う。

 瑞垣は海音寺に聞こえるように舌を打ってやった。

「大昔の、記憶の彼方やな」

 今度は海音寺が唇の端を上げて笑った。

「嘘つき」
「ふふん、人間ポリグラフになったつもりなら残念、大ハズレや」

 脚を組んで、フェンス越しにグラウンドを見下ろす。肩慣らしをするナインの間を白球が繋いでいく。引き締まったチームだ。

 侮れないのは、分かっている。

「おれな」

 そう口を開く海音寺の口調が低くなった。

「また、やりたいと思う。おまえと」
「やだやだ、昼間っからいかがわしい発言しないでくれません?おれ、おまえみたいなアセクサイ野球バカは願い下げなんやけど」
「あほか。なんでそういう発想しかできんのじゃ」
「ま、現役引退してスポーツとか体育くらいしかやんねーもんなー。溜まっとるのは、事実」
「悲しいな、鬱憤晴らす先がねぇやつは」
「海音寺に言われたかねえよ」

 うるせえ、と運動靴の爪先でスニーカーを小突かれた。

「てか、そもそも野球の話じゃ。おまえと野球やりてぇ、って話」
「言うたやろ、おれ、ご隠居さん」
「別にユニフォーム着てボール追っかけるだけが野球じゃない。だろ?」

 視線が合ってしまって、するり、と。

 いつの間にか入り込まれているような感覚。

 瑞垣は唇を舐める。

「……何が、言いたい」

 問えば、海音寺は肩をすくめた。

「野球との関わり方も色々、ってこと。現にこれから」

 海音寺が顎で示した先は新田東のメンバーがウォーミングアップを続けるグラウンドだ。

「試合を見るんも『野球』だし、その後ろでコーチングするのも『野球』。おまえもまだ現役なんじゃ、瑞垣」

 練習の終了を告げるアナウンスがスピーカーから流れて、グラウンドでの動きが止まる。チームがダッグアウトへと引き上げていく。

「随分とカッコつけたこということ言うてくれるやないか。練習時間どんくらい?」
「即興じゃ。でも、これは言うつもりで来た」

 そう言ってにこりと笑って、海音寺は続けた。

「おれ、おまえのことヘッドハンティングしたい。うちのコーチ、やってくれんか」

 はぁ?、と遠慮のない声が出た。いやそもそもこんなやつに遠慮なんかしたことはないが。

「なに寝とぼけたこと言うとんのや。マジで大丈夫?」
「真面目に言うとる。新田高校野球部のコーチング、してくれ。第三者の立場から、おまえの分析が欲しいんじゃ」
「他にアテなんか山ほど居るやろ。お断りや」
「居らん。おまえしか」

 グラウンドは再び整備され、試合開始までもうまもなくといったところだ。

「なんでおれが新田くんだりの野球部までお世話せんとあかんのや。そもそも硬式と軟式じゃ、勝手が違うやろが」

 睨んでも効果はないらしく、海音寺は汗で鼻の上を滑った眼鏡を押し上げただけ。門脇のトスバッティング、と呟いた。

「付き合うとんのやろ。硬式には触れとる」
「むちゃくちゃな理屈こねんな」
「門脇がコーチングしてもらえるなら、おれだってええじゃろ」
「良くありません。徒歩十分の距離と急行乗る距離を一緒にすんな」
「じゃ、瑞垣の中で問題なのは距離だけってことじゃな」
「ふざけんな」

 ホイッスルの合図が球場を切り裂いて、一塁側、三塁側から一気に部員たちが中央へと駆け寄っていく。

 土の上でそれぞれ動く赤と青の帽子が鮮やかだ。

「海音寺」
「ん?」
「おまえ、まさかあのバッテリー引き込むつもりか」

 答えるまでに間があった。

 グラウンドからゆっくりと視線を剥がして隣を見た。なんとも言えないような表情だ。

「まあ正直それはあの2人次第なんじゃけど」
「計画にはあるってことかよ。おーコワ。おっそろしいな」
「気がつく瑞垣がおれは恐ろしいけどな」

 先攻は新田東。横手二中は守備につく。打席に入るのが誰かは、この距離では分からない。だが、これまでの試合と同じ布陣で来ているならば、確か1番バッターはあのクリノスケのはずだ。事前に情報は仕入れてある。

「もし……もしな、原田と永倉が新田高に来て、港北と対戦したら……面白いことになると思わんか」

 海音寺の口から飛び出す港北、の文字にぴくりと反応してしまったのは不覚だ。

「……そこにおれも巻きこみたいってわけか」
「言うたじゃろ。おまえとまたやりてぇ、って」

 真剣な目で言われて、からかう気も失せた。ざわざわと身の内でもたげる何か。興味がないと言えば、それは嘘になる。

 鈍い打球音を意識の隅で捉えた。

「港北を――秀吾を潰せ、ってことか?」
「そういうことじゃない。おまえは両方に関わる、そんだけじゃ。あとは野球の神様次第」
「あいつらバッテリーがそっちに行くか、もな」
「まぁな」
「不確定要素が多すぎや」
「けど、面白い。違うか?」

 ふふん、と鼻で笑って試合の進行状況に集中を戻せば、ショートが堅実なゴロ処理を見せてワンアウトを取ったところだった。

 横手の守備は、自分がいた頃のチームより洗練されている。創り上げたのは他でもない瑞垣だ。

「飯と交通費はおまえ持ちな。あと次の日学校がない日だけ」

 隣は見ずに言った。

「ええんか」
「何度も訊くな、鬱陶しい」
「へへっ、やった。あ、帰んの面倒かったらおれんち泊まってもええし」
「やだ、一希ちゃんたら積極的」
「だからなんでそうなるんじゃ」

 続いて打席に入るのは2番打者。萩の投球をきっちり見極めボールを取ってくる。

 相手のポジションはファーストの瞬足で、現在のカウントはワンアウトツーボール。

 さてこの次は。

 叩き込んだ通りに、守備の陣形が動く。

 瑞垣は口の端を持ち上げた。

 ――――さぁ、勝ちに行け。



『野球って面白いよな』

 策士の誘惑に勝てない参謀の話。

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