豪巧の部屋
□旧拍手作文
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朝起きて袖を通した制服のシャツに違和感があった。
しかし、それが一体どこからくるものなのか巧ははっきりと理解することができない。そのもやもやとした気持ちを抱えながら、階下のダイニングへと下りていく。朝食の席についたところで、突然母の真紀子に「どう?」と訊かれた。
「なにが?」
「シャツ。洗剤変えたんだけど、嫌じゃない?」
そういえば、洗濯機の横の棚に置かれている洗剤のボトルがいつもと違っていたような覚えがある。昨晩風呂の前に見かけたのだが、そんな些細なことは今の今まで忘れていた。
そこで合点がいく。
シャツを着たときに覚えた違和感。羽織ったときに仄かに立ち上る匂いが違ったのだろう。微妙な差異も嗅ぎ分けてしまう人間の嗅覚は凄い、なんて感心をしてしまった。
でも、それだけではない気がする。
いつもと違う匂い以外に、何か、もっと……、口では表すことができないがあったのだ。さて、それは何だったか。
黙り込んだままの巧の様子に、真紀子が小さく笑った。
「って、巧に訊いてもどっちでもいいって言うに決まってるわよね」
「ぼくは好きじゃで」
それまでの会話を聞いていたのだろう、青波が部屋に入ってきながら言った。
「あら、そう?なら、しばらくこれにしようかしら。特売で安いのよね」
「この前スーパーで豪ちゃんのお母さんに会うたとき、同じこと言うとったよ。『安いから買い溜めしとく』て」
ガチャン。
手元の箸を取り落として派手な音を立てた。部屋にいる家族の視線が一気に巧に集まり静かになった。
「どうしたの、巧。珍しい。具合でも悪いの?」
「……なんでもないよ」
いただきます、と朝食に手を付ける。
洗剤の香り以外に心に引っかかったもの。
その正体が分かった気がした。
◇◆◇
「巧!」
呼び止められ、無視するわけにもいかず仕方なく足を止める。
名前を呼んだ主が追いつくのを待って振り返った。
野球部の朝練を終えた帰り。
これから一時間目の授業だった。
「おれ、急いでんだけど」
「来月からの練習メニューじゃ。監督から受け取り忘れてたじゃろ、おまえ」
軽く息を弾ませた豪がそう言って渡してくる紙を黙って受け取った。
なぁ、と呼ぶ声に返事をしないでいると、顔を覗き込まれた。
「なに怒っとるんじゃ」
「怒ってなんかない」
「でも、なんか避けとるじゃろ、おれのこと」
睨み上げても怯むことのない視線が見下ろしてくる。唇を引き結んだままの巧に豪が距離を詰めた。
その瞬間、制服からふわりと立ち上る洗剤の香り。
今朝嗅いだ、自分のシャツと同じ匂い。
体温が急に上昇した気がした。
顔が、耳が、熱い。首にヒーターを当てられているみたいだ。
「……巧?」
訝しげな口調だ。
「体調でも、悪いんか?保健室……」
「いらないよ、そんなもん」
強く遮って踵を返す。すぐに足音が追いかけてきた。
背は向けたままで口を開いた。
「豪、あのさ」
「なんじゃ」
「お袋さんに言って、洗剤、変えてもらえよ」
突然の言葉に面食らったように、沈黙が降りた。
「……なんで?」
「臭い」
え、と焦ったような声がした。
「だからおれに近付かなかったんか?ほんまに?」
かなり慌てているような、狼狽えた口ぶりが可笑しくて自然と口元が緩む。
「何度も言わせんなよ。洗剤変えろ」
隣を見れば、シャツの襟を掴んで鼻を寄せる姿が目に入って思わず噴き出した。
本当は。
自分と同じ匂いがするなんて、まるで家族みたいだって。
そんなことをちらとでも考えてしまったなんて、巧の口からは到底言えやしなかった。