豪巧の部屋
□3月最終日曜日
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『おれは、おまえがキャッチャーでなくても構わない』
『おまえがキャッチャーだから、いっしょにいるわけじゃない』
耳の奥で蘇る。
現キャプテンの野々村からの指示に頷き返事をしつつも、それらの言葉が豪の頭から離れることはなかった。
巧のキャッチャーでない自分。
うまく思い浮かべることができない。巧のキャッチャーとして、豪は巧と出会った。豪のピッチャーとして、巧も豪と出会った。そう思っていた。
自分たちはバッテリーだ。
友達とか、そういう関係ではないと本能に近い部分で悟っている。
でも、巧は豪がキャッチャーじゃなくても良いと言う。確かにそうだろう。そうでなければピッチャーというポジションを真の意味では務められない。だが、キャッチャーだから、バッテリーだから共にいるわけじゃないとしたら、なぜ巧は豪の傍にいるのだろう。
巧は豪にどうあってほしいというのか。
分からなかった。
巧はこの1年で変わったと思う。そしてそれはまた豪も自分自身に抱いている気持ちだ。変化した者同士これからどう関わっていけばいいか、ふと考えてしまう。
視線を感じたからグラウンドへ目を向けてみれば、横手二中側のダッグアウトを見つめる巧の姿が見えた。近くに立つ吉貞と会話しているようだった。こちらを見てはいない。
帽子のつばの下の目は豪から外れていたけれど、さっきまできっと見ていたんだろうなと豪は感じた。
そう確信するように思える自分に苦笑しそうになる。
巧が自分のことを見ていたということは分かるのに、お互いのことはさっぱりだ。
ミットに手を差し入れた。使い慣れた革の匂いと感触が手のひらに吸いついてくる。ボールを手にして豪は歩き出す。
疑問は消えることなく胸に残っているけれど、その存在は巧の元へ向かう間に透明になって薄れていった。
「巧」
ボールを放って渡す。
巧のグラヴに渡ったボールを見た瞬間、背筋がぴりりとして引っ張り伸ばされるような感覚に陥った。
そして思う。
やはり、自分はこいつのキャッチャーなのだと。
だから。
「二度目はありませんよ」
そう言い切れた。
豪の言葉を聞いたとき、相手はどんな表情をしていたのだったか。
ほとんど思い出せない。
始終意識にあったのはマウンドに立つ相手だけだった気がする。
ミットを通して手のひらに食い込んでくる感覚。それを創り出す本人の周囲に漂う凪いだ雰囲気とは真逆で、猛々しく噛み付いてくる手応えを受けるたびに身体が震えた。
それでも前みたいに思考が止まることはなくて、ひたすら目の前の試合に没頭する。
自分はこいつのキャッチャーでいたいのだ。能力の限界まで向き合い続けていたい。
後悔は、したくない。
だから無心で捕り続ける。
そう決めた。
もうぶれは、しない。
迎えた最後の打席。
その日の最高の球。最後を締めくくるのに相応しい球。
風を切って唸るスイングをかいくぐり、ど真ん中に突き抜けてきた。豪のミットの中に飛び込み、まるでここが自分の居場所だと主張するかのように収まる。
誰も動かなかった。動けなかったのかもしれない。バットを持ったままだらりと腕を垂らすバッターを見ることもなく、豪だけが立ち上がり動いた。
18.44メートルという自分たちの距離を横切って巧の元へ向かった。ボールを手渡すと、伏せられていた目が少しだけ上げられて視線が絡んだ。
言葉はなかった。
ちょっと目つきと口元が緩んだだけ。それも、普段の巧を見慣れていなければ変化すら気がつけないくらい少し。
巧はまばたきをしてうなずくと眼差しを解き、空を仰いだ。ぽつぽつと降り始めていた雨雫が頬に落ち、伝って流れ落ちていのを豪は黙って見つめていた。
巧が上を向いたのが合図だったかのように、わっと歓声が聞こえた。
グラウンドに散っていたナインが、ベンチで試合を見守っていた選手たちが、一斉に自分たちが立っているマウンド目指して駆け寄ってくる。あっという間に興奮した部員たちに呑まれて、誰が誰だか区別もつかない。
なのに首を巡らせれば、同じようにチームメイトからもみくちゃにされている巧が視界に入って。
無遠慮に頭を撫でられたり背中や肩を叩かれたりしているせいで迷惑そうなしかめ面だ。帽子がずり落ちないように手で押さえている。
「門脇さんに打たれたもんな、原田、ハンバーガーおごりじゃからな」
ハンバーガー、ハンバーガー、と調子っ外れの音程が聞こえる。かと思えば、ぐえっ、と喉を詰まらせる音がした。東谷と沢口に取り押さえられた吉貞が腕の下でもがいていた。
巧と目が合って同時に噴き出した。
その瞬間、思う。
こうして隣に立っていたいと。
傍で並んでいたいと。
おまえはおれじゃなくてもいいかもしれないが、おれは違うんだ。
だから、もうしばらく、おまえのキャッチャーで居させてくれないだろうか。