La Luneシリーズ

□第三幕
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 ◆◆◆

 『吸血鬼』とは。

 ・国が認める代表的な人外の一つ。
 ・遺伝子の突然変異が原因とされる人狼とは違い、その形質は後天的に獲得する。
 ・身体的特徴として、赤い瞳、発達した犬歯、体外において腐食作用を示す血液などが挙げられる。
 ・高い身体能力と治癒能力を持ち、日没後の活動を好む。
 ・死に瀕した人間が吸血鬼に噛まれることにより転生し、以降は血を摂取することで不老の存在として生きていく。基本的に不死だが身体の再生能力の範疇を越える肉体への物理的損壊を受けた場合、二度目の『死』を迎えることもある。

 そんな特徴で定義づけられた生き物の一人にどうやら自分はなってしまったらしい。
 湯煙の立ちこめるユニットバス付きのバスルームで、巧は降り注ぐシャワーの水圧を首筋に受ける。
『吸血鬼になっとる可能性が高い』
 先ほど聞いた豪の言葉から、交わしたやり取りが蘇り目を閉じた。

「まずは巧自身のことじゃな。……これ、おまえの所持品じゃ」
 ダイニングテーブルに向かい合って座った豪が財布とスマートフォン、それから透明のホルダーに入ったIDカードらしきものをこちらへと滑らせてくる。二人の会話に気を遣ったのか、東谷も沢口も先に二階へ引き上げていて姿はない。机の上にある自分の持ち物たちを見つめ、巧はそうっと手を伸ばした。
 ホルダーに指先が触れる固い感触に一瞬手を引いたが、軽く深呼吸をしてから掴み直す。引き寄せたそれを見ればどこぞの職員証のようで顔写真と名前、生年月日などが記載されていた。
「異種生命体研究所……?」
 IDカードにある機関の名前を読み上げれば豪はうなずいた。
「吸血鬼とか、人狼みたいな人外を対象に研究をしとる研究所じゃ。巧はそこの研究員で、うちの大学の研究室にも客員講師としてよく出入りしとった」
「豪は……大学生なのか」
「ああ、医学部の四年じゃ。おまえと同い年で23になる」
 一浪しとってな、と肩をすくめる豪から再び視線を職員証へと戻す。原田巧と書かれた名前の隣、無表情で写真に写る顔をなぞる。若干吊りがちで切れ長の目に、通った鼻筋と鋭角的な顎のラインと、きつい顔立ちだ。
「豪の大学の研究室も、人外関係の研究をしてたわけ」
「そうじゃな。……まさかあんなとこで再会するとは思わなんだ」
「再会?」
 聞き返したが、豪は曖昧な表情を浮かべただけだった。
「とりあえずこいつら、返しとくな」
 一万円と少しが入った財布と、パスワードが分からずセキュリティを開けられないスマートフォン、それに職員証。どれも巧の記憶を呼び覚ましてくれはしない。唇を引き結んだところで豪が口を開いた。
「そんで、今何でこんなとこに居るか、じゃけど……結論から言うと、巧、おまえな……吸血鬼になっとる可能性が高いんじゃ」
 身体がびくりと震えた。
 吸血鬼。
 口の中で繰り返すが、さっぱり実感は湧かない。
「一週間くらい前からおまえと連絡が取れんようになってな。心配になってヒガシたち便利屋に頼んで探して貰うことにしたんじゃ。そんで、今日……もう日付変わっとるから昨日じゃな、昨日見つけたときにはもう」
「『もう』、何だよ。何が言いたいんだ、おれが化け物とでも言いたいのかよ」
 巧は拳を握り締めた。押し殺す声が感情に揺られて震える。
「そうは言ってねぇじゃろ、落ち着け。巧」
 握った拳が大きな手のひらに包まれ、温もりがじんわりと伝わってきた。振り払うこともできずに黙り込んでしまう。
「おれらが見つけたときには、巧は吸血鬼に変化しとって軍警の人を襲っとった。けどそのままにはしておけんかったし、無理やり回収して逃げてきたっちゅうわけじゃ」
 豪の話に、は、と言葉が漏れた。
「軍警に逆らって、ここまで来たのかよ」
「そういうことになるな」
「ばかじゃないのか」
 なんでここまでしてくれるのだろう。友達だ、と豪は言った。しかし、だからと言って傷害事件を起こした者を庇って共に逃げるなんてお人好しにもほどがある。
 豪の瞳が寸の間揺れ、視線が彷徨った。
「『友達』は放っておけん性分でな」
 呟きに混じるほろ苦さに疑念が頭をもたげるが、豪の咳払いによってそれも霧散してしまう。
「それに、気になることもあるしな」
「気になること?」
 豪は答えずに立ち上がり黙ったままキッチンへと向かった。カウンター式の台所を回り込み、下の収納スペースから取り出してきたのは一振りの包丁。巧は目を見張った。
「豪、何を――――」
 制止を聞くこともなくおもむろに包丁の刃を指の腹に滑らせた豪に、あっ、と声を上げていた。大した力を入れているわけではないだろうに、するりと肉へ食い込んだ箇所から赤い血の筋が盛り上がると指筋を伝って流れ落ちていく。
「ばか、何やってんだ!」
 我に返って立ち上がり、巧は近くにあったティッシュを箱ごと取り上げ豪の元へ向かった。まずは傷口を洗うべきだろうと蛇口を捻り手首を掴もうとするが豪にすり抜けられる。眼前に突きつけられる傷口に思わず身を引いた。
「血……どう思う」
 低く尋ねる口調はからかっているわけでも気が触れたわけでもない。真剣な眼差しを受けて巧は血の滲む傷へと視線を向ける。呼吸するたびに鼻の奥を強い鉄臭さが刺激するが、それだけだ。豪の手を取って、今度こそ流水に指先を濡らしてやる。いてっ、と豪が身を竦める気配がした。
「おれを試したってわけ?」
 尋ねれば、苦笑が返ってきた。
「すまん。……でも、吸血欲はなかった。違うか?」
「まぁな」
 傷はあまり深くなかったらしい。血を洗い流してしまうと、それ以上溢れでてくることはなく微かに赤い線が滲む程度だった。絆創膏でも貼っておけばそのうち治るだろう。
「巧と連絡が取れんくなったのが一週間くらい前。その前は間違いなく人間じゃったから、巧が吸血鬼になったと仮定すると転生時期はその辺りじゃろう。吸血鬼に転生してからまだ一週間経っとらんことになる」
「つまり?」
「転生したてで、今のおまえみたいに血を見て興奮しない吸血鬼なんかおらん。軍警の人たちも襲ってはいたけど、吸血行為は見られなかった。それに、瞳も赤うない。色々考え合わせると、妙なんじゃ」
 巧は水を止めた。豪の手にティッシュのボックスを押し付け、向き直る。
「自信ありげな言い方だな」
「カリキュラムの一環で大学の人外関係の研究室に配属されとるんじゃ。それくらいの知識はある」
「医学部なのに、人外のことも勉強するんだ」
「人外かて、肉体のベースは人じゃ。希望すれば人外の選択授業も取れるし、ってそうじゃねぇ。話を逸らすな。要するに、巧は普通の吸血鬼とは何かが違うってこと」
 ティッシュで傷周りの水気を軽く拭き取り、豪がこちらを見やる。巧は窓の外に目を向けた。段々明るくなってきている。夜は明けたらしい。
「吸血鬼は日が昇っても活動できるものなのか?」
 尋ねれば、首が振られる。
「いや。それもイレギュラーじゃな」
「でも、変化はしたんだろう」
 目覚めたときに爪の先にこびりついていた紅を思う。人を、襲ったのだ。
「豪」
「うん?」
 巧は豪を真っ直ぐ見つめた。
「吸血鬼について、もっと教えてくれ」

 目蓋を開けると、時間の感覚はなかったが長い間シャワーを浴びていたのか血が集まって赤くなった足元が映った。目に入りそうだった湯の雫を瞬きして払い落とし顔を上げる。
 横にある鏡が湯気で白く曇っていた。手のひらで表面を拭えば、IDカードの写真で見たような顔の下に筋肉に覆われほどよく引き締まった肉体が続いていた。湯が伝い流れ落ちていく肩のあたりには赤黒く陥没した二つの瘢痕が目立つ。吸血鬼に噛まれた痕。なぞってみれば微かに脈打つようで慌てて指先を引っ込めた。
 傷痕はそれだけでなく、噛み跡のない方の肩から斜めに白く盛り上がった線が胸を横切り脇腹へと伸びている。かなり大きな傷だ。ぎざぎざとしていて縫合糸の跡もなく手術痕には見えない。ぱっくりと割れたところがそのまま自然と合わさって閉じたように見えるのが不思議だった。おそらく、通称『死痕』と呼ばれ吸血鬼となるきっかけを作った致命傷の痕なのだろう。吸血鬼の再生能力を以てしてもこの痕だけは治ることがなく永遠に残ってしまうらしい。
 こちらを見つめ返す黒い瞳から目を背けた。
 吸血鬼としての証を持ちながら、そうではないというこの身。記憶がなくなっているのも、その影響だというのだろうか。
 唇を噛み、シャワーの水を止めると浴室を出た。豪の好意に甘えて先に風呂を使わせてもらっていた。長く待たせるのは申し訳ない。ここのセーフハウスの備品なのだというホテルのアメニティに似たバスローブに手早く着替えてリビングの方へ向かう。
「先、ありがとう――」
 言いかけた言葉が途切れた。いつの間にかソファーの方に移動していた豪が、横になって眠っていたのだ。緩やかに肩が上下している。先程、包丁で切った指先に巻かれた絆創膏を見つめながら巧はゆっくりと歩み寄った。追われているという状況下なのだ、身体的にだけでなく精神的にも疲れているはずだ。寝かせておくべきかもしれない。
「風呂上がっとったんか、原田」
 後ろから声がかかりびくりとする。振り向けば、ブランケットを片手に沢口が二階から下りてくる。
「喉が渇いて目ぇ覚めてさっき下りてきたら、ぐうぐう寝とってな。銃がしまってあるとこの上で寝られる豪の神経がおれには信じられんけど」
 少し笑ってそう言い、毛布を広げる沢口をいつの間にか手伝っている自分がいた。
「仲、良いのか」
 尋ねると沢口は短く頷いた。
「幼稚園くれぇからの付き合いじゃな」
「おれも?」
 今度は首を左右に振った。
「原田は、小学校の途中で引っ越してきた」
「それから一緒ってこと」
 答えは返ってこなかった。
「部屋、案内するけんついてこいや」
 沢口が向かったのは階段を上ってすぐ目の前の部屋。ブラインドの隙間から細く光が差し込むフローリングの床の上に置いてあるものはなにもなくて、がらんとした印象を受ける。
「クローゼットん中に布団とか一式入っとるはずじゃ。ちょお埃っぽいかもしれんけど」
「窓、開けてもいい?」
「ええけどなるべく小さくな。ブラインドは、」
「閉めたままだろ。分かってる。ガキじゃないんだから、何度も言わなくたって平気だって」
 そう言えば、沢口がまた笑った。
「記憶はなくても、原田は原田じゃな」
「どういう意味だよ、それ」
「そのまんまじゃ。頭良いくせに生意気で」
 褒めているのかけなしているのか、どちらとは分からないけれど、沢口の表情を見ていたら悪意はないんだろうなと肩の力が抜けてしまう。
 沢口に、東谷に、そして豪。
 この三人と自分は、どのような過去があるのだろう。
 思い出せないのがもどかしかった。
「……おれってさ、」
 呟きかけて、詰まった。何と言えばいい。どんな人間だったのか。どんな生活をしていたのか。誰と交流があるのか。研究所の職員で大学の客員講師。そんな肩書きが知りたいんじゃない。問いたいことがあり過ぎて、一言で表せなかった。
 巧の胸中を察したかのように沢口の目が伏せられる。
「おれ、説明とか苦手なんじゃ。明日、って言ってももう今日じゃけど気になることあるならヒガシか豪に訊いた方がええ」
「……わかった」
 答えれば頷き返される。
「まあ、とにかく寝ろや。こういうもやもやするときは、いっぺん寝てすっきりするんが一番ええて、父ちゃんも言うとったし。なんかあったら、おれ隣の部屋に居るし起こしてくれてええけんな」
 おやすみ、と無理やりなのだろうが浮かべられた笑みに気持ちが解けていく気がしたのも束の間で、戸が閉められ一人部屋に残されると逆戻りだった。それでもどっと疲れが押し寄せてきた身体は怠くて重く、沢口の言葉通りにクローゼットから敷き布団を引きずり出すとシーツを掛けるのもそこそこに横に転がる。目を閉じた次の瞬間には巧の意識は睡魔へと絡め取られていた。


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