APH
□トマティーナ
1ページ/1ページ
暑さ真っ盛りな8月。
情熱の国の夏は、そりゃあもうたまったものじゃない。気候もそうだが、何より、人々が。
今日は、今月最後の水曜日。ようするに、トマティーナ開催日である。もちろんこの家の、否、この国の主人も参加している。
使用人の私は、主人の帰りを今か今かと待ちながら、床拭きをしてみたり、本棚の整理をしてみたり、洗濯をしてみたり、畑に水を撒いてみたり、また床拭きをしてみたりした。
今頃、街のみんなにトマト投げられてるのかなあと思うと、自然に笑みが溢れた。
しばらくして、コンコンコン、とドアを叩く微かな音で、私は目を覚ました。待ち惚けている間に寝入ってしまったようだ。その証拠に、ついさっき淹れたはずのコーヒーが冷めきっていた。
「はーい」
いろいろと考えてるうちに、最初のノックから少し時間が経ってしまった。
急いで木造りのドアを開けると、そこには再度ノックしようと手を構えていた、この家の主人の姿があった。
「あ、名無おるやん。何や、閉め出し食らったかと思ったわ〜」
そう言って、いつもの暖かく優しい笑みを放つこの人は、体中もうトマトまみれで。
一瞬私も笑みをこぼしたけれど、その姿をみて憤怒した。
「なんでトマトまみれなんですか?ホンマに閉め出しますよ!?」
ドアを閉めようとすると、主人は抵抗してそのべっちょべちょの手でドアを押さえた。
「ちょ、ちょー待って!」
「その手で触らんといてください!」
私はその手をドアから叩き落とす。痛いだの何だの言っているけれど、そんなことにいちいち耳は貸してられない。そんなことしていたら、この人との生活なんて耐えられない。
「裏回ってください、今から洗い流しますから」
そう言ってから、私は再び屋内に戻る。すると、すぐに家の裏から呑気な鼻歌が聴こえてくる。
壁の向こうに薄く微笑をすると、バスタオルを持って自分も裏へ出る。
「もう、どうして向こうで流してこんかったんですか?」
「しゃーないやん、名無に流してもらえって断られたんやから」
井戸から水を汲み上げ、何も言わず唐突に主人に水をかける。
「冷たっ、」
「水やから当たり前でしょ」
もう一発いきますよーと、今度はちゃんと声をかけて、優しくかけ流す。私の力だと、水の入った木桶を両手で支えなけらばいけないから、実際体を洗っているのは本人だ。頭から木桶を被せてもいいのであれば、私が洗ってあげるのだけれど。
しばらくして、やっともとの主人の姿に戻ると、主人はくしゃみをひとつ。
「へっくしょんっ」
「ジャパンではバカは風邪ひかへんって言葉があるの知っとりますか?」
「知らへんよ...」
言いながら鼻をすすり、濡れた前髪を掻き上げるこの人は、
「カリエドさん」
「アントーニョ」
「ヘルさん」
「アントーニョやって」
この人は、
「...そのまんまでいてくださいよ」
「なんやて!?そこにタオルあるやん、わざわざ持ってきてくれとったやん!」
この人は、私の大事なご主人様だ。それ以上でも、それ以下でも。
「ご自分でどうぞ。基本セルフですよ」
「いつから決まったん!?」
ブツブツ言いながらもタオルでワシャワシャと髪をかき乱す姿が、なんだか子供みたいで。
「アントーニョさん」
「何!?」
ご要望通り名前を呼んでやれば、子犬のように目をキラキラ輝かせ、こちらに勢い良く振り向く。
「...おかえりなさい」
仏頂面でそう言って顔を逸らし、横目でチラリとアントーニョさんを見る。するとその人は、ちょっとだけ驚いたように目を見開いて、またいつもの笑顔を浮かべた。
「ただいま!」
.
おかえりなさいっていい言葉ですよね。イケメンに言われてぇ〜。