★八香姫は夜伽に問う

□第二夜:遅咲きの初陣
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「かっ兼景(カネカゲ)様!?」


見間違いではないかと、雪乃は驚愕の眼差しを室内から現れた男へと向ける。
見上げた先には、記憶の中では幼いままの志路兼景。対面するのは実に十数年ぶりかも知れないが、昔の面影が垣間見える兼景の風貌に雪乃の緊張が解けていく。


「やっぱり、兼景様だ」


母も人が悪い。
兼景だと知っていれば無駄な緊張をせずにすんだというのに、無精ひげを生やした中年の男を思い描いていた雪乃は、ほっと胸を撫でおろした。


「知らなかったのか?」

「はい。まったく知らされていなかったので、今とても安堵しております」

「そうか」


くすくすと柔らかな声で笑う姿は昔のまま。差し出された手を無防備に受け取った雪乃は、その力強さに引き上げられて足を立たせる。


「ッ!?」


近くで見て、その成長がよくわかる。幼少期より顔馴染みの者であっても兼景は志路家の武将。長男であり次期城主である兼景がどのような鍛錬を積んできたのかはわからないが、端整な顔と鋭い視線を持つ好青年に変貌を遂げていたのだから無理もない。


「緊張しているみたいだな」


兼景の手が握る雪乃の手のひらをもむ。思わず反応してしまったのは内緒にしたい。それでも年上の顔馴染み相手にその心境は隠し通せなかった。


「安堵したって言わなかったか?」


静かな声に吸い込まれてしまいそうだった。
まるで琴線に触れるような洗練された美しい声に、雪乃の体がビクリとこわばる。


「まあ、そう緊張せずともよい」


そうは言われても、勝手に心臓が早鐘をうっていくのだから仕方がない。


「どんな顔をしてやってくるのかと思えば」
「なっ、なにがでしょう?」

「雪乃が昔と変わっていないことに、少しばかり喜んでいた」

「それは、子供っぽいと言いたいのですか?」

「いや、正室として迎え入れたい気持ちは昔から変わらない」

「まっ、また」


昔から兼景は、歯の浮くような言葉を当然のように使いこなしてくるから気が抜けない。至近距離で微笑まれるその威力を本人がどう認識しているのかは知らないが、きっとこの年になるまでに何人もの女が泣いてきたことだろう。
そうでなくても錯覚しそうになる。


「俺は今夜をずっと待っていた」

「か…っ…兼景様?」

「雪乃、よく来た」


唇が触れそうなほど間近に迫る兼景の瞳の中で、ごくりと緊張の息を飲み込んだ雪乃がうつる。室内を染めるわずかな光に揺られているのか、心臓までもがドクドクと不整脈を起こしたように息切れを起こし始めていた。
志路家を担う歴代の武将の中でも、とりわけ民からの人気が高いと言われるだけのことはある。生まれながらに色気漂う雰囲気は、会得しようとしてもできるものではないだけに、雪乃は自分自身が八香であることを忘れてしまいそうだった。


「すまない。少し意地が悪かったな」


兼景の匂いに抱き寄せられるようにして、ゆっくりと室内に招かれた体が、息をすることを覚えたように深い空気を吐き出していく。相手が兼景だと知って安堵したのは本当のことなのに、何故か今は、別の緊張が雪乃を襲っている。
鳴りやまない鼓動。
記憶の中よりも素敵な成長を遂げていた年上の幼馴染み相手に平常心は難しい。それでなくてもこれは初陣。雪乃にとって里以外の男と交わる初めての夜。


「俺が相手では気も乗らないだろうが、明日は玖坂との戦。志路家として負けるわけにはいかない大事な戦だ。今夜はよろしく頼むぞ」

「いっいえ、あ…っ…はい」

「ん?」


八香の娘として、懐柔対象である男にほだされてはいけない。それは鉄則で、雪乃自身もその教育は受けている。受けているはずなのに、こんなにも顔がほてるのは何故だろう。
例えば直江に対して抱く感情を言葉で表すなら、年の離れた兄が近い。実際に十歳近く離れていることもあるが、負けたくない相手であり、心許せる存在であり、すべてを教えてくれた恩師でもある。家族と言ってもいいかもしれない。それに対して、幼いころ何度か顔を合わせたことのある目の前の相手は、直江に対する感情のどれにも当てはまらない。それなのに、懐かしい感情は直江のそれととても良く似ていた。


「雪乃」


兼景の声は落ち着きを与えてくれると同時に、変な緊張感を連れてくる。
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