★提供人形 -Donor Doll-

□序章
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《プロローグ:必然の出逢い》


「おなかすいた。」

つぶやいてから、しまったと思う。
通り過ぎていく人の何人かがその言葉に反応して振り返ったが、沙耶は顔を隠すように足を速めた。


「恥ずかしい。」


無意識とはいえ、口に出すなんて馬鹿げている。
おなかがすいた(・・・・・・・)なんて。
それにしても、雑踏の中をスタスタと軽い足取りで流れていくのは至難の業だと思う。日は暮れ、夜も遅いというのに都会の人たちは生まれながらにこの人の海を泳いでいるからか、誰もぶつからずに往来できているから不思議だった。
頭上の星よりも地上のネオンがきらめく夜の繁華街。
人々は思い思いに着飾り、愉しみ、群れを成して歩いている。
クスクスと色気のある女の笑い声とそれを後押しするように盛り上げる男性たちの横を足早に通り抜け、コンビニの前で大声ではしゃぐ学生たちの輪をすりぬけ、前からやってくる自転車に髪がなびく。


「っ」


おなかが鳴りそうになる。
いや、実際になっていたが、車のクラクションの音がそれをかき消してくれた。
おかげで人々の視線は、事故か何かで大騒ぎとなった道路の中心へと向いていた。
ホッと肩の力が抜ける。
野次馬のように事故現場へ向かう人の波にさからうように、沙耶は再び顔を隠して自宅への帰路を急いでいた。
理由は明白。こんな体験は初めてで、どうすればいいかわからないほどの飢えが沙耶に襲い掛かろうとしていた。
怖いという感情をきっと誰もわかってくれないだろう。話したところで笑われるか、冷めた目で一瞥されるかだけで、ほしい情報も助言も誰もくれないに違いない。泣くよりも何よりも、沙耶は混乱していた。


「ヒッ?!」


ほぼ走っていた沙耶の足が止まったのは、もう家が目と鼻の先まで迫った路地の一角。
顔を上げれば見慣れたマンションが見えるが、沙耶の目はまるで縫い付けられたようにただ一か所を見つめたまま止まっていた。


「ミツケタ」

「っ」


血だらけの男。
蒼白な顔は道路に設けられた電灯に照らされているからか、ほぼ血の気が引いたその顔色は人間の色には到底見えない。そのくせ血走った目はまばたきもせずに沙耶を見つめているから恐ろしい。
先ほどの事故はきっとこの男が原因なのだということはすぐにわかった。
誰かわからない血が彼にかかっているのもその理由だが、あのクラクションの音で振り返ったとき、今目の前にいる男がまっすぐに沙耶を見つめていたことを知っている。追突しあった車と車のあいだから。
どうやって抜け出てきたのかはわからない。
それでも不自然に折れ曲がった手や足に痛みを感じないのか、血だらけの蒼白なその男は沙耶にむかってニヤリと気味の悪い笑顔をむけてくる。


「いや…ッ」


後ずさりするはずの体が震えている。
沙耶は男が走り寄ってくるのをどうすることもできずに、まるで自分のものではない甲高い悲鳴を叫んでいた。


「っえ?」


本当に数センチ。
はぁはぁと血走った男の息遣いが顔に吹きかかるのを感じられるほどの至近距離でその男は停止している。一体どうしたのか。
たしかめる時間が沙耶にはなかった。
許容範囲を超えた恐怖と安堵が一周して、意識が唐突に落ちていく。


「っ。」


ガクッと折れた膝と抜けた腰が輪を描くように沙耶の体制を崩れさせたが、道路にどさっと人が倒れるような音は響かず、代わりにカエルを踏み潰したような男の声が聞こえてきた。


「こらこら、あかんやろ。」


気絶した沙耶の体を片手で簡単に支えながら、あいたもう片方の手で血だらけの男の首をつかむ若い男。くすくすと柔らかいその男の笑い声が、くぐもるようなうめき声を出す男の横から話しかけてくる。


「こんな可愛い子を夜道で襲おうとするなんて、しつけがなってないなぁ。」


青にぼやける閃光。
ぐしゃっと飛び散る血しぶきと、首と胴が離れた男の影が地面へと崩れ落ちる。それはまるで映画のワンシーンのようにゆっくりと、月ではなく街灯の光に照らされて闇の隙間から彼はその姿をのぞかせた。


「あーあ、まっず。」


ぺろぺろと返り血に染まった自分の指を舐める仕草は世の女性たちを卒倒させるに違いない。
繊細に見える細い指と、血の赤で染まった形のいい唇。端正な顔立ち、均整のとれた体は造形美のように彼の影でさえじっと見惚れるほどに見る者の目を奪う容姿をしていた。無造作にかたどられた髪とどこか冷めた瞳だけはどうか知らないが、片手で簡単に男の首をもぐほどの力を持ったその男は、がっくりとうなだれた沙耶に気づいてその顔を寄せてくる。


「ん?」


そして何かに気づいたらしい。
一瞬、考えるように沈黙を口にした男は、周囲にさっと意識を飛ばすと何か意味のありそうな息を吐きだして沙耶のホホを軽くたたいた。
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