★愛欲の施設 - Love Shelter -

□第1話 歓迎の悶(モダ)え
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「本当に私でいいんですか?」

気づけば優羽は、幸彦に向かってそう聞いていた。
何か落とし穴があるんじゃないかと、紙とにらめっこしていた学園長は、蒼白な顔を優羽に向けたが、もはやその存在は無いに等しい。


「優羽がいいのだよ。」


まるでおとぎ話のような現実に、優羽の顔から不安が消えていく。いや、正確にはそうであれば幸せだろうという、不確かな願望がみせる幻への怖いもの見たさに近かった。


「私、家族になります。」

「優羽さん!!?」


確かに了承した優羽の言葉に、学園長は驚嘆な声をあげる。それもそうだろう、だってこれは、誰が聞いてもおかしい。
本人の承諾なしに歴史を決められるなど、あってはならない。


「ここから先は家族の問題だ。」

「っ!?しかし!」


どちらが正しくて、間違っているかがわからなくなる。けれど法律上、この学園長にはもう何も言う権限がなくなっていた。
優羽が承諾した以上、これは幸彦のいうように、家族の問題。
一番他人が踏み込みにくく、深入りの許されない複雑な領域なだけに、赤の他人と成り下がった中年の男は言葉につまって唇をかむ。


「優羽さん。本当にいいんですか?」


次に答える言葉によっては、今後の人生が変わる。
ドキドキした。
こんなにドキドキしたことは生まれてから一度もない。もしかしたら間違った選択かもしれない。それは充分にわかっていた。


「はい。私は魅壷優羽になりたいです。」


学園長がどこか物憂げな顔をしたが、希望と期待に目を輝かせ始めた娘を止めることは出来ない。
自分の人生がどういう方向に転がろうと、今、目の前に転がっているチャンスを見逃すことなど出来ないのだろう。年頃の娘にありがちだが、どうかこの選択が間違っていないことを願うしかない。


「わかりました。」


その承諾の言葉が、長年育ててくれた学園長との決別を意味する。
二度と会うことはないかもしれない。
そう思った瞬間、今までの思い出がよみがえってきて、自然と涙が溢れてきた。


「今までお世話になりました。」


姿勢をただして深く頭を下げる優羽にならって、幸彦も頭を下げる。その姿を見た学園長の目にも涙が浮かんでいた。


「優羽さんをよろしくお願いいたします。」

「はい。必ず幸せにします。」


こんな父親が出来るなんて、なんて最高の日なのだろう。下げた頭のまま、チラッと幸彦を盗み見ながら、優羽はふふっとあどけなさの残る笑みをもらした。


「よろしくお願いします。」


今度は優羽から差し出した手に、幸彦は力強くそっと手を握り返してくれる。
大丈夫だ。
確証は何もないが、なぜか断言できた。不安や心配がないというのは嘘になるが、幸彦のもつ雰囲気は、きっと天災が身を襲ったとしても、命がけで守ってくれるだろうという安心を感じられた。

その後、挨拶と荷仕度をすませた優羽は、幸彦の待つ車に体をすべりこませる。


「優羽さん。お元気で。」

「ありがとうございます。長い間お世話になりました。」


これが最後。
今朝起きたときには想像もしていなかった出来事が、現実になることを実感してギュッと心が引き締まった。
間違った選択をしていないだろうか。
だけど、それは誰に決められたわけでもなく自分で決めたこと。
名残惜しさに後ろ髪をひかれるが、幸彦が運転手に車を出すようにつげたことで、優羽の意思とは無関係に見知った施設は遠ざかっていく。


「さよなら。」


小さく自然と口からこぼれた。
別れの言葉を告げながら、その最後の姿まで目に焼き付けた優羽が席に座り直すと、幸彦がそっと肩に手をまわしてくる。


「泣きたい時は、泣きなさい。」


頭上で囁かれる甘い声に優羽は、顔を赤くしながら首を横にふった。
悲しくないと言えば嘘になるが、これから迎え入れてくれようとしている父親の前でそんな涙など見せられない。期待が胸を膨らませているのは、事実として今も実感している。


「家族なんだから隠し事はしないこと。」

「えっ?」

「素直でいなさい。」


引き寄せられた肩に色気が漂う。
嗅いだことのない魅惑の匂いと、スーツの上からでもわかる均整のとれた体。決め細やかな肌に形の整った顔立ち。
近くで見れば見るほど、本当に同じ人間ではない生き物のように思えた。


「はっはい。」


優しい言葉と温かな胸をくれる幸彦を直視できなくて、居心地の悪そうに優羽は身体を萎縮させてうつむく。
今、顔を覗かれたらタコよりも真っ赤にゆで上がっているに違いない。


「飲むかい?」


差し出されたペットボトルのお茶を受けとると、優羽は疑いもせずにそれを口に含んだ。
どこにでも売ってるごく一般のお茶。
フタを開けて渡してくれるところがまたスマートでカッコいいのだが、今の優羽には緊張で味がわからない。


「おっおいしいです!」

「それはよかった。」


ニコリと笑うのは反則だと思う。
何人の女性をその笑顔の虜にしてきたのだろうか。さぞかしモテたであろう若かりし頃の面影、いや、訂正する。今でも十分モテるはずの男性が、これから自分の父親になるのだ。
想像したところで、現実味は今一つわかない。けれど、他愛もなく始終ご機嫌に会話を弾ませる幸彦に、優羽の不安はいつしか拭いさられていた。


「ごらん。もうすぐ我が家だ。」


気づけば数時間走った高級車は、日が傾き始めた頃、大きな門扉の下をくぐり抜ける。優羽が幸彦の言葉に車体の外へと顔をむけると、そのむこうには、声を失うしかない巨大な屋敷がそびえ立っていた。
白い洋館に広い庭。
門から建物までは車か馬がないとたどり着けないほど遠い。
手入れの行き届いた場所。なのに何故か、生活感が感じられない。
まるで、絵本の中のようだと思った。


「ようこそ、魅壷家へ。」
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