★愛欲の施設 - First Wedge -

□第五夜 逃げない娘
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《逃げない娘》




一日の間に、寝たり起きたりを繰り返したせいで、優羽の時間感覚は見事なまでに狂っていた。現に、窓のない洞窟の居城内では昼か夜かもわからない。
薄暗い室内。この場所に招かれて、何日もたってはいない。それなのに優羽はもう、何日もここで過ごしているような気がしていた。
広間に行けば太陽の光がみせる影の長さで少しでも時間がわかるかもしれないが、その勇気はわいてこない。身体もひどくダルかったし、何もかもがどうでもいいと感じていた。つまるところ、優羽は誰もいない部屋でジッと、ボーッとしていた。


「……んっ…」


寝転んだまま顔を動かしてみる。
身体の上にかぶせられている一枚の薄い布のほかに、身に着けられるものは近くに見当たらなかった。涼に連れてこられた時の服もなければ、必要以上の布もない。もちろん、新しく服が用意されているはずもなかった。

エサ

それ以上でも以下でもない存在だと宣告されたばかりだ。けれど、どこかで期待していたことも否定しない。
彼らが得体のしれない異形のモノでも、重ね合わせた肌の温もりに何かを感じてくれていれば嬉しいと、儚い夢を心のどこかで感じていた。少しは何かしらの情というよりかは、見せかけだけでも、ここでの生活に希望を持ちたかった。
それなのに現実はどこまでも残酷なんだと、知らずに優羽の口からため息がこぼれおちた。


「はぁ」


途方に暮れる。
これからどうしようかと、まったく先の見えない未来に頭を悩ませるほかない。


「おいしくたって…っ…そんな方法わからないし」


エサとして美味しくあるべきだと言われた。
人間としても、女としても、食べられる以上「マズイ」とは言われたくない。当然だが、エサとして生きてきたことがないだけに、どうすれば「おいしい」と言ってもらえるのか見当もつかなかった。きっと、彼らがいらないと感じれば容赦なく捨てられるのだろうし、自分がいなくなったところで彼らは何も感じないのだろうとも思う。


「………」


それが少し、寂しかった。
あれだけ身体に匂いを刻(キザ)み付けておきながら、たくさんいるエサの一人として思い出されもしないのかと思うと、なぜか胸が苦しくなる。
忘れられないのは多分、自分の方。


「はぁ。せめて、味の好みくらい言ってもらえたらなぁ」


そこで優羽は自分の吐いた言葉にハッと気づく。

どうして、おいしく食べられようとしているのだろう?

ふいに、頭の中で冷静な自分が話しかけてきた。
こんな危険な場所から今すぐにでも逃げ出して、もっと自由な人生を楽しむべきだと訴えてくる。あの村に何かしらの思い入れがあるわけでも、未練があるわけでもない。助ける義理もなければ、身代わりになる必要だってどこにもないじゃないか、と。
未来ある人間として、狼のエサで一生を終えるなんて馬鹿げている。


「うんうん」


そうして一人うなずく優羽のもとに、また別の自分が話しかけてきた。

本当に逃げたいの?

逃げ切れると思っているの?
逃げ出してしまえばそれで終わり。何かが始まる前に、何もかもが終わってしまう。
本当は、傍にいたいんじゃないの?


「……ッ…」


後悔しないのかと聞かれれば、胸の中にわずかな戸惑いが生じる。たしかに悪い人たちばかりじゃない。傍にいるのを心地よく感じる瞬間だってあった。それに約束のこともある。
「もう少し彼らのもとにいてもいいんじゃない?」頭の中から聞こえてくる声が、見ないようにしていた本心を刺激してくる。わずかに心に巣食っている期待。かすかな希望は打ち砕かれたはずなのに、まだ性懲りもなく胸の中に残っているみたいだった。


「うーん」


優羽は、また頭を悩ませる。
もうこうして幾度となく自問自答を繰り返し、頭の中で葛藤を繰り広げていた。

今なら、まだ引き返せる。今ならまだ、彼らを知らなかった頃の自分に戻れるはずに違いない。逃げられる保証はどこにもないが、もしかしたら逃げられるかもしれない。隙(スキ)を見つけるまでエサのふりを続ければ。しかし、そうしているうちに彼らの輪の中から抜け出せなくなる。あの快楽は、知ったら忘れることなんて出来ないのだから。


「ふふ、無理よね」


逃げだしてどこへ行こうというのか。
身寄りもない貧相な女を受け入れてくれる場所なんかどこにもなかった。今の状況になった過程を考えてみればわかること。結局、どこに身を置いても訪れる末路は一緒なのかもしれない。


「それなら、エサとして食べられるほうがまし?」


自分でもよくわからない。一思いに散らせてくれるならともかく、ここの狼たちはそろって願いをかなえてくれるつもりはないらしい。


「……う〜ん……」


優羽はついに腕組みをしながらうなっていた。寝ていた場所で半身を起こし、薄い布を胸から下に置いたまま、腕を組んで頭を悩ませる。誰も来ないことをいいことに、目覚めてから何十分もこうして時間を費やしていた。
いや、正確な時間などわからないので、勘でしかないが……無駄に頭を働かせているせいで時間がたっているのか、たっていないのかさえわからないのだから仕方がない。


「………あ」


こんな時なのに、お腹が鳴った。


「そういえば、昨日から何も食べてないんだっけ」


厳密にいえば、もう何日もまともな食事をとった記憶がない。水で誤魔化すとか、木の実でしのぐとか、故郷の保存食も持ち出せるものは残っておらず、着の身着のまま優羽はこの地まで流れてきた。そして村を見つけて厄介払いされて、森をさまよって、涼に連れられて、今に至る。
なんとも、数奇な人生だと思った。
でも、生きている。
お腹の音が鳴るというのは、そういうことで、生きていくための欲求は、生きている限り無限に続いていく。

彼らと同じように。
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