★八香姫は夜伽に問う

□第四夜:隠密に舞う床戦
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それは突然の襲撃だった。
どさりとどこかの床に投げ捨てられた体が軋みを訴えるが、後ろ手に縛られ、頭全体に布をかぶせられたまま、雪乃は小さなうめき声をあげる。

「〜〜〜っ、ふ…ンンッ!!」

何度目になるかわからない抗議の声が、布に吸収され、虚しく鼻息だけが跳ね返ってくる。見事な手さばきで声と動きを封じられ、運ばれること数刻、肌にこすれる感触が畳に似ているせいか、雪乃はすぐにそこがどこかの部屋だということを認識した。

「ッ!?」

素肌を撫でるようなひんやりとした人物の気配に、雪乃の体は大袈裟なほど反応した。
無理もない。心臓が口から出てしまいそうだと思うほどの緊迫感に、自由を奪われた身としては、頭を鳴らす危険な警鐘だけが今のすべてだった。仮に、このまま首を切り落とされても、喉を切り裂かれても、心臓を一突きにされたとしても、防ぎようはどこにもない。八香の姫である以上、暗殺される危険性は容易に想像できた。

「っ」

知らずと体が強張っていく。それを知ってから知らずか、ここまで運んできたらしい人物は腕を伸ばし、次の瞬間勢いよく雪乃の頭にかぶせていた布を剥ぎ取った。

「ンッ…ぁ…〜〜〜っ」

バサッと勢いよく取り払われた布に瞳孔が一度に大量の光を取り入れたせいか、雪乃は思わず反射的に目を閉じる。ねじって噛まされた布で、相変わらず言葉を発することは出来なかったが、それでも自由を得た視界から情報を得ようと雪乃は、恐る恐る周囲を見渡すように瞼を開いた。

「ふぇ?」

情けない。
とぼけた声しか出なかったのは、確かに感じた人の気配がどこにもなかったせい。物の怪の仕業だとでもいうように、殺伐とした広い部屋の真ん中で雪乃は口と身体を縛られたまま、たった一人で転がっていた。

「ぅ…っ」

一目見てわかるのは、どこかの城の一室だということ。
天井の木の組み方、屏風はどれも美しく絢爛で、商人たちでさえ使用をためらうほどの出来栄えだった。八香として一国の中でもそれなりの位を授かる雪乃の実家でさえ、これほどの贅沢はしていない。

「くっ…ぅ」

いくら視界が開けたと言っても、口に布を噛まされ、手首も足首もきつく縛られ、体の自由はきかないまま。体が痺れを訴えて痛みを伝えてくるのは、もう何度目のことか。しかも残念なことに、どれだけ思想を巡らせてみても、誰かに運ばれてきたこの部屋に見覚えはない。見当もつかない。
くんくんと鼻腔で記憶を辿ってみても、上品な香の匂いに心当たりはもちろん、思い浮かぶ人物もいなかった。

「ふぅ」

鼻息で何度か深い呼吸を繰り返してみる。今できることは、焦らずに状況を把握することだけ。心臓は今にも口から出てしまいそうなほど緊張しているが、幸いにも口は塞がれているのでその心配は必要なさそうだった。
誰かがいたはずの室内に一人きり。
ここまで運んできたのは確かに体温ある人のように感じたのに、その面影も見えない現状に不安が増す。まるで不気味な感覚が空気の中に潜んでいるようだった。

「〜〜〜ッ…ぅ…ンッ」

芋虫のように体をうつぶせに変え、雪乃は部屋から脱出しようと四方をふすまに覆われた部屋の中央から周囲を探る。どこか出口に通じていそうなふすまに辺りをつけ、その姿勢のままはっていくことを決めた。
ずりずりずりずり。
歩けば数十歩の距離は、当然のことながら全然進まない。はぁはぁと上手く整えることの出来ない呼吸を肩で繰り返しながら、雪乃はどうしてこうなったのかと思い返していた。

「なにッ!?」

それは突然の襲撃だった。
兼景の寝所から戻り、直江と複数の交わりを得たあと、雪乃は深い眠りについていた。けれど、夕刻ごろになって目覚め、体を清めようと近くの滝つぼへ足を運んだ。古くから滝が流れ込み、小さな池のようになっている泉。そこまでは、はっきりと覚えている。日付は変わっていない。八香の娘であれば、誰でも自由に出入りできる清め用の泉は、黄昏時の光を受けて茜色に輝いていた。ちょうど誰もいないのをいいことに、入って全身を洗い、自然の川に流れ、どこまでも続いていく森の調和に疲れた体は癒されていた。はずだった。

「兼景様、ご無事かしら」

不安が口をついて出たのは、全身を洗い終え、池のふちにある石のうえで髪を絞っていたときのこと。腰まで伸びた長い黒髪は、雪乃の白い肌に重なるようにポタポタと雫を落として濡れていた。

「あ、月だわ」

茜から群青に染まり始めた世界の中で、煌く三日月の微笑みを見たのが最後だった。突然後ろから口をふさがれ、首筋に手刀を一本。
その後、気づいた時には薄布でくるまれた体は後ろ手に、手首はもちろん足首まで紐できつく縛り上げられ、口に布がかまされたうえに、布が顔を覆っていた。時刻はわからない。誰に運ばれているのかもわからない。感触から男の肩に荷物のように担ぎ上げられ、不安定に揺れていることだけは理解していた。

「ッ!?」

八香の女はその生き様から、あらゆる場面で政治や戦の交渉の役に立つと言われている。そのため古くから里の女は誘拐され、時代の中で苦い思いを経験してきたという。その昔、志路家と契約するまでは。

「ゥンンっ…ッ…〜〜〜ンンぅ」

暴れ始めた雪乃に気づいたのか、荷運びの人物は少し立ち止まりはしたが、足を休めることはしないらしい。

「ッぅン、んンンぅッん?」

だれ、だれなの?
お決まりの台詞しか出てこない。混乱に支配されたうえに、自由を奪われている体が、誰かも知らない人に担ぎ上げられて運ばれている。体格的に男だということはすぐにわかったが、匂いも体つきも記憶の中に存在しない。一体どこに運ぼうとしているのか、殺すつもりなのか、何かの貢ぎ物にするつもりなのか、生贄の儀式に呼ばれるのか、その正体がわからないだけに恐怖が雪乃を襲ってくる。

「大人しくなさってください」

それはあまりにも静かで落ち着いた声だった。

「時間がありませんので、いちいち運搬物の相手をしている暇はないのです」
「ンンッ!?」
「夜が更ける前にお連れします」

どこに、だとか。誰に頼まれたの、だとか。
聞きたいことが山ほどあったにもかかわらず、速度を増したその足に、雪乃は再び意識を失っていた。
そうして今に至る。

「〜〜〜ッ…ぅ…ンッ」

芋虫のまま出口を目指しながら、雪乃は床を見つめて鼻から再び深い息を吐き出した。自分をここまで運んできた男の声を思い出せたが、休むことなく女一人を担いだまま道なき道を走り抜けることが出来る人物には、やはり心当たりはない。
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