★八香姫は夜伽に問う
□第三夜:嫉妬に濡れた尋問
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出向を告げる貝の音は、薄雲の広がる空に甲高く響き渡る。何か憑き物が落ちたように晴れ晴れとした武将を筆頭に、志路家の軍が侵攻したのは日が昇って間もない頃だった。
「雪乃っ!?」
バンっと部屋のふすまを壊す勢いで顔を見せた直江の姿に、雪乃の肩が大袈裟なほどビクリと大きく揺れ動く。
「なっ直江?」
「無事だったか」
ヘナヘナと安堵したように肩の力を抜いた直江に、雪乃の顔が苦笑にゆがむ。いつもどこか脱力していて、やる気のない直江からは想像できない焦りように、雪乃は内心驚きを隠せはしなかった。
「いやだ、直江ったらまさか眠れなかったの?」
クスクスとした笑いが込み上げてくるのは仕方がない。
師弟の関係になってからというもの、優位な立場にある指南役がここまで崩れた姿は見たことがなかったのだから、変な感情が湧いてくる。
「笑ってんじゃねぇよ」
がしがしと頭をかいた後で、ふすまを閉め、大きな足取りで距離を縮めてくる直江を雪乃はじっと眺めていた。
「だって、直江が慌てて駆け込んでくるなんて今までなかったものだから」
「いいから、顔見せろ」
「んっ」
髪をすくように頬を撫でる直江の手が大きくて心地よい。
「直江?」
帰ってきたのだという安心感は、直江の腕の中で得られるものらしい。すりすりと懐かしむように撫でる直江の手に、頬を摺り寄せるようにして甘えながら、雪乃は立ったままそっと直江を覗き込んだ。
「そんなに心配してくれていたの?」
思わず安直に聞いてみた。そこで自分の言動にようやく気が付いたのか、直江はハッと顔をあげてわざとらしい咳ばらいをひとつこぼす。
「バカ言え。教え子の初陣が気にならない師がどこにいるっつんだよ」
「気にしてくれてたんだ」
「揚げ足ばっかとってんじゃねぇよ」
「ありがとう、直江」
たった一晩。それでも一晩。
笑う月の下で交わされた情事は、雪乃の運命を大きく変える役目を果たしていた。
「無事に戻ったんならそれでいい」
「うん。ただいま、直江」
八香の宿命は変えられない。昨晩、兼景から受けた求愛は、雪乃の心に憂いの気分を落としていた。正室になれるはずもなければ、なるつもりもないのに、兼景から注がれた求愛の証拠は今も足を伝って零れ落ちそうになっている。
「ッん」
気を緩めれば足を伝っていくほどの量に内心不安がよぎっていく。
早く掻き出してしまいたい気持ちと、それをどこか勿体ないと思う気持ちがないまぜになって、雪乃の心は乱れていた。
「直江、私、湯を浴びたいの」
一刻でも早く、ほっと一息ついてしまいたい。
なぜか体の芯から疼くような感覚は、兼景と離れても収まりをみせてくれそうにないうえに、たった一晩で淫乱に花開いた八香の血に、今もまだ侵されているような錯覚さえしてくる。
「ぁ…ッ…直江、聞いてる?」
兼景の欲望を拒むことも出来たはずなのに、拒むことは出来なかった。
幼いころからの顔馴染み。好きか嫌いかを問われれば、好きだと答えるしかなく、結果としてその場の情に流され八香の禁忌を破ることになってしまった。
だからこそ、通常に戻したい。それなのに、なぜか直江は離れようとはしてくれなかった。
おかしな気分に酔いそうになる。
「雪乃」
兼景の寝所から帰ったばかりの雪乃から、わずかな香の匂いが鼻をつく。離れようとした雪乃を抱き寄せながら、直江はその頭上に唇を寄せて、香の正体を探るように鼻を動かした。
「なにかされたか?」
「うっ、ううん」
ぎこちない返答に、勘が働いたらしい直江の眉間にしわが寄る。
なにかされたのかと聞かれれば、たしかに「なにか」はされた。体液がすべて兼景のものに入れ替わってしまったんじゃないかと思えるほど注ぎ込まれた正体は、指導者である直江には言えない。
「痛いことをされたか?」
「うっ、ううん」
今度は嘘ではない否定の返事。
また、ぎこちない返答を繰り返した雪乃に、直江の顔が疑心に揺れていた。それに気づいた雪乃は慌てて直江に弁明をはかる。
「あッ、違うの。大丈夫よ、相手が兼景様だったことに驚きはしたけど、八香の役目はちゃんとしたわ。実は、休むことは出来なかったから腰が少しつらい程度で」
「いたむのか?」
「痛くはなくて、気持ちよかったっていうか、じゃなくて、最初は濡れていないのに入れられたから痛かったんだけど、それは最初だけで最後の方はもう何も考えられないくらいに感じてって、あれ。何言ってるんだろ」
「ほんとうにな」
「とっとにかく兼景様は優しかったわ」
自分の腕の中で照れたように真っ赤な顔になりながら、他の男との情事を語られる心境はいかほどのものか。それは直江にしか感じることの出来ないものだろうが、雪乃は居心地が悪そうに、抱きしめられる腕の強さに身をよじる。
「野菊様に何か言われたか?」
「母様には何も」
「まあ、あの人はそうだわな」
「今日はゆっくり休んでいいと言っていたくらいよ」
にこりと力なく微笑む雪乃は、やはりどことなく雰囲気に元気がない。