★八香姫は夜伽に問う

□第二夜:遅咲きの初陣
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頬を撫でる夜風は優しく、欠けた三日月の微笑みに見守られながら、雪乃は逸(ハヤ)る心臓の音を抑えるように「はぁ」と深い息を吐いた。特別寒いわけでもないのに、緊張感に苛まされた指先はかじかんで冷たく変わり、心なしか小刻みに震えている。八香の名を持つ者として、いつかは訪れる使命。それが、志路家との交わり。
この乱世において、志路家は天下に一番近いと言われており、その志路家を代々裏で操ってきたのが八香家である以上、避けて通ることは出来ない宿命。


「志路家は明日、玖坂(クサカ)との戦を行う。ゆえに今宵、指揮をとる武将と戦前の床を共になさい」


母であり、頭首である野菊からの命を受け、雪乃は志路家の勝利を左右する寝所へと足を運んでいた。戦に勝利をもたらせるため、大事な局面を迎える場面で八香は武将の寝所に召喚される。
戦神の血を引くと言われる八香の娘。
彼女たちが床で行う秘密の儀式は、男の精気を高め、鋭気を養い、勝利へと導く手助けをするという。


「雪乃、忘れるでないぞ。八香家の務めとして幾人もの男と交わりを持つことは避けては通れぬ。くれぐれも、情を沸かして、欲に溺れぬように」

「わかっております」

「ならばよい」


先ほど、家を出る間際に母から言われた初陣の応援が頭から離れない。
情を沸かして、欲に溺れぬように。
八香家は淑化淫女(シュクカインニョ)の教えを元に栄えてきた一族。男と愛し合うためのただの技術ではない。幾月も鍛錬を積んできた技巧は、ときに武将を虜にし、またその武将からの恩恵と愛情を一心に受けることも容易にできる。そのために、戦意を喪失したものは少なくない。ただし、門外不出の八香家の技。戦神の血は内密に守られてきた。
ゆえに夜を支配し、床を味方につけることで生き残ってきた女たちが身を滅ぼすときはいつも同じ。


「お任せくださいませ。必ずや、八香家の勝利を」


男に人生を左右されるわけにはいかない。


「雪乃が参りました」


震える両手を悟られないように少し強めに重ね合わせ、雪乃は名も知らない武将が待つ寝所の前で膝をおる。頭を下げ、ふすまの向こうで控える姿は目にしていないのでわからないが、ざわざわと少し落ち着きのない気配が室内から零れ落ちてくる。
ここで心が折れるわけにはいかない。
相手も面識がないので緊張しているかもしれないが、これは八香の次期頭首として参戦した、雪乃の初陣と同義。


「明日の戦の勝利を祈願しに参りました」


幸い、声が震える前に喋り切った。
返事がないことが余計に神経を不安に掻き立てることなど、待たせる男の身にはわからないのかもしれない。


「いいか、雪乃」


ふいに、直江の声が記憶の奥から語り掛けてくる。


「主導権を最初から握ろうとするな。特に戦前は気が立っているからな、変に神経を煽ると後で痛い目を見るぞ。」


こんな時ばかり、冷静な忠告が耳に届いて嫌になる。直江相手に主導権をとれたことなど一度もなく、ましてアレが今から起こるのかと思うと気が変になりそうになる。男女の交わりというよりも、獣としての交尾に近い。直江との実践は、口にするのもはばかられるほど、羞恥の極みともいえた。


「もうお休みになられたのかしら?」


雪乃が頭をさげ、ふすまの前で大人しく待っているのをいいことに、寝所にいるはずの男から承諾の声はかからない。時間だけが無情に重なっていく中で、雪乃は徐々に緊張感が薄れていくのを感じていた。
このまま指をついたまま、夜明けを迎えるかもしれない。
その感覚は多少の焦りを雪乃に与えていたが、顔も声も名前も知らない男と肌を重ねる必要がないのであれば、それがいい。八香の名を背負う者として持ってはいけない考えだが、内心正直に自分の気持ちを雪乃は認識していた。


「そこは冷える。早く入っておいで」

「っ!?」


その声にまさかと思い、顔をあげて驚いた。
雪乃の指先を照らし出した部屋の灯り。思わず視線を流した雪乃の指先と室内の境界線上に、今夜の相手と思われる男の足が覗いていた。
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