★提供人形 -Donor Doll-

□第一章 先祖返り
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第一章 先祖返り
《第三話 盟約の接吻》

まだ夢の中にいる気分だった。
ひどくだるい体が、鉛を背負っているみたいに重たく沙耶にのしかかっている。
薄暗い室内。人生で一番の恐怖を体感した場所。
目が覚めたら全部夢の中の出来事だったと、ほっと胸をなでおろしたかったのに、現実はそこまで甘いものではないらしい。


「……っ…」


沙耶は、くらくらと眩暈のする頭を刺激しないように、視線だけで店内を見渡した。
深紅を基調とした壁紙や天井に窓はひとつもなく、昨日、何度も脱走を試みた扉がたったひとつだけ。今も同じ場所にすえられている。誰かが出入りしたような形跡はなさそうで、まるで壁に描かれた絵のような扉だと沙耶は愕然とため息を吐いた。


「ここ…っ…は?」


一体ここはどこで、誰の持ち物なのだろう。
窓がないことが原因かはわからないが、静かな部屋の中は太陽の光さえ届かない地下にあるのか、どこか湿っぽくて薄暗い雰囲気が漂っている。おかげで、今が昼なのか、夜なのかさえわからない。オレンジ色の照明のあかりをたよりに目を凝らしてみると、扉の横に黒いカウンターがあり、丸い椅子が何個かそれに向かい合うように並んでいて、奥の壁には名前も知らないお酒が並んでいるようだった。


「おみ、せ?」


高級そうな黒いソファーがいくつか並べられていて、沙耶もそのうちのひとつに寝かさられているようだが、この間取りと配置に想像できる場所は、たったひとつしか思い浮かばなかった。


「ラウンジ?」


一人暮らしを始める前、母がこういうところで働いてはいけないと言っていたことを思い出す。世間知らずの女の子が出入りしていい場所じゃないとも言っていた。
都会には危険がたくさんあるから、知らない人について美味しい誘いに騙されてはいけないと泣きそうな顔で言っていたような気がする。なぜ、今このタイミングでその言葉を思い出すのかはわからないが、沙耶はパチパチと力の入らないまぶたを数回動かしてその記憶を消し去ろうとする。
今は何も思い出したくない。
起きてからずっと頭痛がするし、体もだるくて、ノドも乾いている。
とてもじゃないけど、起きて歩けるほどの体力があるとは思えなかった。


「〜〜〜〜っ…ん」


パフっと、沙耶はやはり起きることができなかった自分の体をソファーへと落ち着かせる。
大学生になったからには、少しはしっかりしていると思っていた。自分の記憶が夢でないのだとすれば、今沙耶が身をゆだねている場所は、危険な男たちが狩りを楽しむための牢獄なのだろう。監禁、いや、軟禁されているといいたいところだが、昨日のあの二人の容姿から察するに、誰も沙耶のいうことを信じてくれそうになかった。騙されても、危険な目にあわされてもいいと思えるほどの容姿は、ある意味、最強の凶器だと沙耶は思う。
泣き寝入りしても自作自演だと非難を浴びることが明白な彼らの食事っぷりは、それを体感した本人にしかわからない。


「のど、かわいたな。」


関節がキシキシと乾いたような音をたてて沙耶の体の内部から水分を欲しがっている。


「はぁ…っ…しんど。」


本当に深い深いため息が沙耶の肺の奥から吐き出されていくようだった。
誰にも理解してもらえない悩みがまたひとつ増えた。人間になってしまっただけじゃなく、それを求める美形の吸血鬼に乙女まで奪われてしまった十九歳の思い出は、たぶんこれから先の短い生涯、一度も忘れることはないだろう。
せめて、悪夢としてみなければそれでいい。
沙耶はまぶたを閉じて暗い視界の中で納得するよう自分を慰める。


「私は大丈夫。」


大丈夫だと思いたいのに、この悪夢に悩まされるような息切れの正体を明確に表現できる言葉が見つからない。


「そうやって強がりをいうやつほど、大丈夫じゃねぇんだけどな。」

「ッ?!」


驚いたなんてものではない。
「俺の統計上」なんて口にしながら当の本人は目の前で笑っているが、笑えない冗談に沙耶の顔は大きく引きつっていた。
いつから、いつのまに、どうやって。それらしき単語を複数唱えた気もするが、沙耶は自分の口から飛び出た心臓を戻すことも出来ずに、はぁはぁと苦しそうな息を繰り返していた。


「壱月…っさん。」

「お、俺の名前覚えてんの?」


「さん」をつけるかどうか一瞬迷った沙耶は、呼吸を整える代わりに、そのくったくのない笑顔を目に焼き付ける。見た目こそ粗暴だが、人は悪くなさそうに見えた。


「え〜。壱月くんばっかりずるいわぁ。」

「霧矢さん?!」


本当に彼らはどこから湧いて出てきたのだろうか。
まるで影としてずっと沙耶の隣で寝ていたのではないかと思える場所に、なぜか昨日の麗人が横たわっている。それも沙耶を抱きしめるようにそっとその顔を首筋に埋めてきた。


「うん、いい悲鳴や。」


反射的に恐怖を口にした沙耶の悲鳴に、クスクスとどこか嬉しそうな霧矢の唇が沙耶の耳をなぞっていく。
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