★八香姫は夜伽に問う
□第四夜:隠密に舞う床戦
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「あわれだな」
背後の玖吏唐のせいで、逃げることも崩れ落ちることも許されない雪乃に、元史は冷めた瞳で侮蔑に言い放つ。
「まだ戦場で刃を交える兼景の方が俺をそそる」
その言葉に意識が触れたのか、雪乃の瞳にわずかに光が戻ってくる。戦場。刃。兼景。思い返せばまだほんの数刻前、日付が変わることもない時間のうちに、雪乃は触れ合った相手の姿を思い起こす。
「かね…っ…かげさ、ま」
初見で見慣れない二人の男に挟まれたまま、雪乃はぼんやりと遠くを見つめるようにその名を呼んでいた。
「もう間もなく戦は始まる」
おもむろに体を離した元史の気配に、熱を帯びた雪乃の頬に冷気があたる。ひんやりと、密室空間にも関わらず、わずかな空気の冷たさが意識の活性を助長していた。おかげで、元史の声が先ほどよりもはっきりと聞こえてくる。
「貴様を献上することで俺が戦を止めると思われていたのであれば、これほど心外なことはない。婚約が決まったばかりとはいえ、あいつはそういうことをするようなやつではない」
「え?」
「兼景様は、元史様との戦より無事帰還した暁には、奈多姫と婚儀を済ませることになっているのですよ」
「あいつは奈多姫より八香の姫と婚儀をしたいと抗議したそうだがな」
耳元で囁くように聞こえてくる玖吏唐の声は先ほどと何も変わらないはずなのに、元史の声がより鮮明に聞こえるようになったのは気のせいではないだろう。頭に乗せていた兜をおろし、その美麗な顔は苛立ちが滲んでいた。
「津留のお方様の差し金といったところだ」
津留。それは紛れもなく兼景の実母の名。現在の志路家を裏で牛耳る影の支配者。大奥の頂点にたつ正室に他ならない。
「なぜ、津留さまが?」
「八香の娘が随分と愚問だな」
「ッ…ぁ」
縛られた手首を持つ玖吏唐のせいで、一瞬たりとも姿勢を崩すことは許されないらしい。後ろ手で縛られた腕が腰を支え、伸びた上半身にぴたりと張り付いたような薄布越しにうつる乳房の輪郭が浮き彫りになる。しかも最悪なことに、先ほど交えた口付のせいで、食い込ませた縄に沿った体が色めいた反応を見せていた。
「志路家が戦の交渉に八香を使うのは常套であろう」
「やっ」
「イヤだと言いながら、体は素直に反応するらしい」
本当にその通りだと認めざるを得ない。
身体に沁み込んだ直江仕込みの色気は、こんなときでも優先されて現れる。男を惑わすための技術を学び、男を陥れるための仕草を心得、男を翻弄するために培われた経験は、自然と雪乃自身が体現している。
「兼景はここに来る前、貴様を抱いたか?」
意地悪な質問を繰り返す男だと、雪乃は目の前の元史をにらむ。
「貴様、そういう顔の方が男を煽るぞ。気が変わった。玖吏唐、兼景に伝えろ」
「はっ」
「この玖坂元史、志路家の貢ぎ物を受け、床戦に応じるとな」
「御意」
「きゃっ」
ポンっと前に押された体が不安定にぐらつき、雪乃は元史の胸に抱き止められる。風のように去っていた玖吏唐の残り香は、不思議なことに、部屋のどこにも漂っていない。
初めからそこに誰もいなかったように。
捕まれていた手首の温もりと背中に残るわずかな感触だけが、彼のいた証拠を伝えるように痺れている。
「さて、兼景が来るのが先か、貴様が果てるのが先か、ひとつ俺と技芸比べといくか」
「ッ!?」
いなくなった人影よりも、雪乃は今、目の前にいる男の方が不気味だと体をひねる。だが、足首を結ぶ紐に体重が支えきれず、雪乃はそのまま床へと膝をついた。
「そう怖がるな」
「怖がっていません」
「そうか」
見上げたその瞳を雪乃は知っている。直江も兼景も情事が始まる前に見せる一瞬の色。それはすなわち、男が鎧を脱ぐことを意味していた。その予感の通り、膝をついて腰をおる雪乃の目の前で、元史の鎧が床に落ちていく。一枚、また一枚と音をたてて落ちるそれは、時を刻む秒針よりも遅く、雪乃の視界をとらえていた。
「勝負は簡単だ」
薄衣一枚になった元史に雪乃の意識は集中していく。
「兼景が来る前に、先に果てた方の負け。貴様が勝てば俺は志路家と条約を結ぶ。だが、俺が勝てばその場で兼景もろとも貴様の命はない」
「本当によろしいのですか?」
「ああ、史上最後の合戦が床戦も面白いだろう」
「では、私からもひとつよろしいでしょうか」
「いいだろう」
「八香は簡単に男を受け入れたりはしません。兼景様が来る前に、必ずやあなたを迎え入れることなく、戦に勝利を収めてみせましょう」
膝をついたまま元史を見据える雪乃の視線に迷いはない。縛られた体で、華奢な曲線美に布をまとわせた姿で、雪乃は元史に言い放つ。その瞬間「ふっ、ははははは」と、室内に嘲笑の声が響いていた。
「やってみるがいい、女」
それが、戦の合図だった。