★八香姫は夜伽に問う

□第二夜:遅咲きの初陣
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「さあ、こっちにおいで」


赤くなった顔を見つけられる前に兼景が離れてくれてよかった。
雪乃は人知れずホッと肩の力を抜きながら、兼景に言われるがままに室内の奥へと足を運んだ。灯りを廊下にこぼしていた部屋のふすまが閉じられ、室内には橙色の穏やかな雰囲気が満ちていく。同時に、室内に鼻腔をくすぐる微香が漂っていることにも気がついた。


「あ…っ、あの兼景…さ、ま?」


貧血のように一瞬意識がふらつく。しかし、それは気のせいで、雪乃はただ張っていた気が緩んだだけかもしれないと、意識を足で踏みとどめていた。


「どうした?」


心配そうに顔を覗き込んでくる兼景の瞳の中で、雪乃は柔らかにほほ笑みながら首を横に振る。


「いっいいえ、大丈夫です」

「そうか?」

「はい」


忘れてはいけない。これは雪乃にとっての初戦。
失敗することは、今後の志路家との関わりに優劣をつけるものになるかもしれないうえに、歴史ある八香家の立場を危うくしてしまうものかもしれない。気を引き締めてかからなければ、雰囲気にのまれてヤる前から敗北は決まってしまうだろう。


「香の匂いにあてられたか」


ふいに聞こえた兼景の独り言に、雪乃は顔をあげて息をのむ。


「兼景さ…ま?」


そう問いかけることが精一杯だった。密室の中に二人きり。
三日月に微笑まれ、室内にたかれたロウの火がわずかに揺れる。長く伸びた影の形すら美しく見えるほど、兼景の容姿は雪乃の想像をはるかに凌駕していたのだから無理もない。


「ッ!?」


八香の血がうずく。
今すぐ兼景を押し倒し、その身を奥まで感じてみたい。


「ずっと立っているつもりか?」


クスクスと笑う兼景の気配に意識を戻したのか、雪乃はハッと気が付いたように周囲を見渡す。そこでようやく雪乃は美麗な男がとうに離れた位置におり、困ったように気遣いながら腰を落ち着けようとしているのを見つけた。


「早く来い」


天井から垂れ下がる高級な白い蚊帳。
上質な畳の匂いの中心に敷かれた少し大きめの一人分の布団。
優しく穏やかな明かりを与える行燈に、品のよいお香が揺れている。


「失礼します」


雪乃は母の野菊が兼景の父である現、志路家の城主、敦盛のことを「強欲狸」と呼んでいることを知っている。敦盛への面識はないが、その言葉がもたらす印象と息子である兼景の印象は当てはまらない。


「兼景様は、お母上様似なのですねぇ」


頭に浮かんだ感想をそのまま口にした雪乃に、腰を落ち着けた兼景が緩やかに笑う。


「よく言われる」

「そうなのですか」

「まあ、外見ではなく内面のほうだがな」

「内面?」

「そういう雪乃はどうだ、野菊殿にはあまり似ていないようだが」

「母様は美しいですものね」

「そう聞こえたか?」


意地悪な眼差しが神経を逆なでる。


「どうせ私は母様のような色気はございません」


ふんっと雪乃は、兼景の視線を吹き飛ばすように鼻を鳴らした。
床の中以外での世間話も技巧のひとつ。気分を害されて追い返されでもすれば、それこそ名に恥じた行為だと末代まで耳をふさぎたくなるに違いない。話術も長けてこそ八香。


「そう思うのか?」

「母様は八香の誇りにございますゆえ」

「お前にはお前の良さがあると思うが」

「では、兼景様は私のどこに魅力をお感じになられるのですか?」


雪乃の愛想と愛嬌は誰に教わったのか、昔から隙だらけのようでいて、距離を詰めてくる可憐さに兼景の目が細く変わる。


「本当に変わらないな、雪乃は」


少し憤慨したように顔を寄せた雪乃のアゴに手を添えるのは、狸ではなく月の化身。


「これでも大人になったのですよ」

「それは楽しみだな」

「兼景様の意地悪」


誘い込まれるようにして重なる唇に、雪乃はゆっくりと瞳を閉じていく。
ただ、交わることだけを前提に用意された部屋。あからさまな儀式をうながす室内の空気。役目だとか、使命だとか、何をしに来たとか、そういう考えが一瞬にしてすべて吹き飛んでしまうほどの柔らかな口づけ。


「ッ…〜〜〜はぁ」


上を向くように支えられた顎のまま、雪乃の唇は兼景に食べられていく。


「たしかに、大人になっている部分もある」


妖艶な気配にあてられて、ゾクゾクと背筋を妙な何かが駆け上がってくるが、それも兼景が生まれながらに持っている色気のためか。雪乃はあまりに手慣れた兼景の手腕に少し驚きながらも、当初の役目を思い出したように、肩の力をぬいて兼景に身を任せていた。
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