明々煌々
□夢の通ひ路
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事切れた女の体を抱え、座り込んでいたイコ様は、涙を流すこともなく、ただただ虚ろだった。
そのお姿はあまりに痛々しく、なんとかイコ様をお助けしたかったが、俺は傍観者でいるしかなく、声すら届けることは叶わない。
しばらくして、イコ様はよろよろと立ち上がり、洞窟の外に向かって歩きだした。
外はひどい吹雪なのに、ふらふらと風に煽られながら突き進むイコ様のあとを、俺は追いかける。
そうして、山の中腹にある洞窟へと向かった。
洞窟に入ると、どこかで見たことのある祭壇の前でイコ様が跪き(後で思い出したが、それは俺が召喚された場所だった)祈りを捧げ始めた。
詳しいことはわからないが、文言から察するに、神々に家族を殺した敵への復讐をするために助力を請うているらしい。
一通り、神への祈りを捧げた彼女は、洞窟の隅に置かれていた動物の骨を砕きながら呪術をかけ始めた。
敵に死の呪いをかけているらしい。
砕かれた動物の骨を焼き、その灰を撒き散らし、目を血走らせたイコは、高らかに敵への憎悪を唱い上げた。
常に飄々としているイコ様が、狂うほどの負の感情を見せていることにショックを受けたが、同時に“人らしい感情”に安堵もしていた。
いかなるときも泰然として動じない何か崇高なものだと認識していたからこそ、ここで見えた“人間臭さ”に親近感を覚えた。
この人は、他にどんな感情を見せてくれるのだろう…そんな期待すらもしていた矢先のことだった。
イコ様は祭壇にあった石のナイフを持ち上げ――
「イコ様!!?」
それを自分の胸につきたてた――
「………え?」
戸惑いの声を上げたのはイコ様だった。
その胸に刺さるはずのナイフは、重い音を立てて地に落ちた。
「な、なぜですか…!なぜ、受け入れてくださらないのですか!」
天を仰ぎ、悲痛な叫びをする彼女を嘲笑うようにゴウ、と洞窟の中に吹くはずのない突風が吹いた。
そして――
「!?」
地鳴りとともに、洞窟の入口が崩れ落ちた。
「閉じ込められ…っ」
イコ様は、慌てて松明を片手に入口があったところに駆け寄った。
そして入口を塞ぐ岩を取り除こうとするも、上から次々と崩れてくる。
指が擦り切れ爪が剥がれ手が血塗れになっても、岩をかき分ける手を止めないイコ様。
そうこうするうちに、松明が燃え尽きてしまった。
「ああああああああ…!!!」
暗闇の中に響き渡る、悲壮な叫び。
何も見えない真の暗闇の中で、イコ様はいつまでもすすり泣いていた。
それから途方もない時間、彼女はたった一人、暗闇の中にいた。
神は、呪いの対価として、イコ様の命ではなく“時”と“死”を奪ったらしい。
イコ様は、飲まず食わずで痩せ衰えても呼吸を続けていた。
その対価が重いのか軽いのかはわからないが、神はイコ様を飼い殺しにして、壊れていく様子を楽しむことにしたらしい。
少なくともイコ様はそう考えていた。
そして、イコ様はそれに抗っていた。
瞑想で心を落ち着けては正気を保ち、なんとか神の幽閉から逃げ出そうと岩を崩し続けた。
俺もずっとそこにいた。
とはいえ、俺はイコ様ほど強くはなかったらしい。
閉ざされた空間で過ごすというのは、気が狂いそうになる。
いや、実際おかしくなってしまったんだろう。
はじめこそ、痛ましい姿のイコ様を眺めることしかできないこの悪い夢から覚めたいと願い、あるいはこのまま目が覚めないのではないかという恐怖も感じた。
しかし、いつの頃からかこれが本当に夢なのか疑うようになり――果てには、夢だろうが現実だろうが、こうしてイコ様の気配を感じられるのが自分だけであるという状況に満足し始めた。
触れられずとも隣に座るだけで、感じられるはずのない温もりを感じられるようになった気がして幸せだった。
聞こえるはずがないとわかっていても、懐かしいアイルランドでの思い出話などを語れば、きっとイコ様の無聊を慰められる気がして幸せだった。
そうして、どれほど過ごしただろう。
ある日、岩を崩す手を止めて休んでいたイコ様の髪をすいていた(実際には触れないのでフリだけだが)時だった。
轟音とともに、大地が揺れた。
「!?」
座っていたにも関わらず、思わず転がってしまうほどの揺れ。
数十秒とも、数分ともつかない間の揺れが、ようやく収まって、顔を上げた時だった。
強烈な光が目を焼いた。
いや、そこまで強烈ではなかったのかもしれない。
だが、果てしないときを暗闇で過ごしていた目には強烈だった。
「ひかり…」
ほとんど吐息のような声でそういったイコ様は、信じられないとばかりに、やせ細った身体を引きずるように、光に向かってズルズルと進んでいた。
そうして、かなりの時間をかけてようやく出入り口にたどり着いたイコ様は、外を見て固まった。
俺も、主の背後から外を覗く。
洞窟の前に広がっていたのは、殺風景な雪原ではなく、豊かな森だった。