メインディシュ

□寂しいナイフと独り善がりの宇宙
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雪みたいな白い手首にぎらぎら光る鉄製の刃で初めてのキスをした。
これまでに無いくらい冷たくて熱いキスに頭がクラクラした。
このまま傷ひとつない皮膚ににこの鉄の塊を深く深くぶち込んで攻撃的なディープキスといくかそのままスライドさせて浅いフレンチキスといくか。
それとも触れるだけにしておこうか。
ちょっと考えて手首から首に刃を移す。
永遠に消えないキスマークをつけるため。
傷一つ無いものに傷をつけるという行為はなぜこうも興奮するのだろう。
呼吸の乱れはないものの、心臓がやけにうるさい。
脳内麻薬でも出てるのか酷い高揚感。

……ディープキスと行こう。

刃に皮膚を食い込ませようと力を入れた瞬間。

音が消えて世界が白黒に見えて透明になって溶けてって首元から足元にかけて銀色の尾が見えて金属と床が衝突する音が響いた。


結果的に言うと、ナイフとのディープキスは未遂に終わった。
あの後突然貧血を起こしたらしく、触れるだけの可愛いキスは達成されたもののそこからは進めなかった。
私は硬い木製の床の上に大の字に寝ているようで、天井がゆらゆらと揺れて見えた。
ちらりと時計を横目で見るとナイフを握った時から1時間くらい経っている。短い間、眠っていたようだ。
重い腕を引きずるようにしてそっと首に触れる。
キスマークも何も付いていなかった。

吐き気と頭痛とだるさを引きずったまま、貧血の薬を口に放り込んで水で流した。
さっきまで最初で最後のナイフとの情熱的キスをして永遠にこの世からバイバイしようとしていたのに薬に頼るなんて……と自嘲気味にため息をついた。
椅子に座り、ナイフを眺める。
「あたしって本当どっちつかず。」
自分を女だと認識しても周りはそう思ってくれなくて。
気持ち悪いと言われていくら着飾っても手入れしても報われなかった愛しいこの身体も、他人とズレた自分自身への認識も全て手放してやり直したかった。
ナイフを適当に置き、ベッドに潜り込む。
柔らかい微睡の中、片思いのヒトの顔がちらついては消えた。

「で、結局しなかったんだ?」
ジャイボに可愛いハンカチでくるんだナイフを渡した。
「ええ、まあね。」
「雷蔵って意外と臆病なんだね。きゃはっ」
失礼ね、と怒ったふりをするとジャイボはなんだか嬉しそうに笑った。
ジャイボは本当に読めない人間だ。
昨日なんて片思いとか自分についてごちゃごちゃ考えてため息ついて沈んでいたら、突然ナイフを差し出してきて「きゃは、死ぬの?」ときたもんだ。
結局死にはしなかったが、不思議なもんで、ふらふらとナイフを受け取ってしまった。
「きゃは、結局使ったの?」
「別に。」
「なーんだ、つまんないの。」
彼はナイフを取り出すと光クラブのボロいスタンドライトにかざした。
ナイフに彼の顔が映る。
吸い込まれそうな程綺麗で、つい見とれてしまう。
「雷蔵ってー、かわいそうだよねー」
「はあ?」
突然ジャイボが立ち上がって「カワイソウ」を繰り返したまま、私の頭をぽんぽんと撫でた。
「なに? 馬鹿にしてる?」
意味ありげな笑みを浮かべ、顔を近づけてくる。
人形のような美しい顔に、不覚にも心臓が跳ねた。
「どっちつかずでずっとふらふらしてるもん。」
吐き捨てるようにそれだけ言うときゃはきゃは笑いながらゼラの方へ駆けていった。
本当に彼は読めない。
「どっちつかず……ねえ」
そういえば昨日自分でも考えたなあ…………
指の先で軽く机を擦った。
ふと爪先を見ると赤いマニキュアがほんの少しだけ禿げていた。
「あっ……」
バッグから除光液を取り出してマニキュアを全て剥いだ。
綺麗になった素爪にマニキュアの代わりにトップコートを塗る。
液体が乾く様子を満足げに眺めていると、頬にくすぐったいような感触が伝わってきた。
正体は、私が片思いする人……カノンの髪だった。
「あら、どうしたの?」
心臓の脈打つ音がやたらとうるさい。
カノンは私の爪を凝視していた。
「マニキュア塗ってたの見えたから。私、雷蔵の爪の形好きなの。」
「照れるわ、ありがと。」
「思ってないくせにー」
細い指で頬をつつかれる。
平静を装うが、心臓は以前として煩いまま。
「もう、本当だってば。つつくのやめなさい。」
「どうして? 雷蔵のほっぺ気持ち良いわよ。」
「何でそう照れることを言うのかしら。」
彼女は尚も私の頬を指先で撫でたりつついたりしていた。
心臓が爆発してしまいそうだ。
「ここ、男の子ばっかりだものね。女の子は面倒なの。そうやって周りと仲良くするのよ。」
「ちょっと、私も女の子なんだけど。」
「それとは別の話よ。」
カノンの指ではどんどん上へ向かい、私の髪に触れ出した。
「あー、今度は髪かしら?」
彼女はいたずらっぽく笑うと頷いた。
今日は本当に心臓が煩い。
なんて私は面倒な人間なのだろう。
女の心を持つのに、目の前の彼女に恋をしている。
ヤコブや学校のクラスメイトと違って「気持ち悪い」なんて言わずに私に触れて接してくれる。
でもきっとこれが、彼女の普通。
ちぐはぐでズレている私とは住む世界が違っているのだ。
「どうしたの?」
ぼんやりとアンニュイな考えに浸っているとカノンが声をかけてきた。
「……は?」
自分でも嫌になるくらいくらい間抜けな声。
いつの間にかカノンの顔がキスできてしまいそうなくらい近くに接近していた。
「近くないかしら、離れて。」
そんなに大きな瞳で見つめられては石にされてしまいそうだ。
というか、顔が赤くなる前にいっそ石にされてしまいたい。
「雷蔵はぼんやりしていても綺麗ね。」
慌てて顔を逸らす。
「どうしてこっち見ないの?」
「だって……」
カノンは思ったより意地悪で、笑いながら「今どんな気持ち?」とばかりに顔を接近させたまま見つめてくる。
耐えられなくなって立ち上がった。
すたすたと早足で歩くと同じくらい歩幅で一定の距離を保ちつつ、カルガモの雛のように後ろについてくる。
「何で着いて来るのよ……」
結局その日は延々とカノンにつきまとわれた。

午後11時のベッドの中。
眠気で腐乳のように蕩けた頭の中には、昼間つきまとってきた彼女の顔が浮かんでいた。
「好きなの。」「綺麗ね。」
ぐるぐるとループしては消える声。
ああ、私が彼女の恋人ならいつでもこう言って貰えただろうか。
指先で頬をなぞられるだけじゃなく、昨晩のナイフのように熱いキスを頬に落としてくれるのだろうか。
人形のように細い身体に触れることだけではなく、抱きしめることを許してくれるだろうか。
そんな考えはどろどろに蕩けて夢の中に落ちて行った。

(どうせこの気持ちは伝わらないでしょう? だったらせめて、一方的に愛することを許して……)

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