読み物
□喪失パニック。
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記憶に、想い出に、薄く靄がかかってぼやけていく。
淡い綺麗な想い出も、苦く醜い記憶も全てが目の前で滲んだ。
大切な人さえも、見えなくなる。
○記憶喪失
具合が悪い、とファイは前日から言っていた。血が足りない訳でもない、疲れからくる不調だろう。そう考えた彼は、薬を一つ買った。
夜の都市インフィニティでは、法外な薬が市場の大半を占め、売買されている。そういう類いのものは買わないようにと、ファイは見極めて買った筈だった。
筈だった、のだが。
その日、ファイは普段より起床が遅かった。この世界に来てから彼は自室に籠ることが多くなっていた。それに加え、その日は試合がない日。だからか、他の一行もそこまで気にはしていなかった。
き、と小さく音を鳴らし、ファイの部屋の扉が開いた。退屈を持て余し、ソファに腰掛け考え事をしていた小狼は、ファイの姿に目を丸くした。
自室からようやく出てきたファイは、頭から毛布を被って、自身の姿を覆い隠していたのだ。まるで子ども騙しの幽霊の仮想のようだった。
「その格好は.......あの、どうしたんだ」
思わず小狼がそう口にすると、毛布から弱々しく呻く声が聞こえた。
「お部屋にある服が、おへそが見えるものばかりだったので.......仕方無く、です。というか、あの、貴方は誰でしょうかぁ.......」
震えるように紡がれり声。ここ最近のファイとも、しかし以前のファイともまるで違う、怯えたような話し方。
確かにファイは演技もとい嘘が上手いが、しかしこんな嘘を小狼に吐く必要があるのだろうか。
小狼は、これはファイの嘘でも冗談でもないと判断した。
「あなたは、記憶が.......」
毛布を被ったファイに近付こうと小狼が腰を浮かすと、ファイは咄嗟に後ずさった。整った顔に、うっすらと恐怖が張り付いていた。
少し傷付きながらも、小狼は当然のことだよ考える。ファイが記憶をどこまで失っているのかは見当もつかないが、小狼のことは覚えていないようだ。見知らぬ土地で見知らぬ人間が、自分の知らない自分を知っていたらそれは怖いだろう。
しかし困ったことに、今部屋にいるのは小狼のみ。後は自室に閉じ籠るサクラだけだ。頼りになる黒鋼はいない。自分だけで、記憶を失ったファイに上手い説明が出来るか、小狼は些か心配だった。
「.......お名前を。あの、お名前を、名乗って...頂けませんかぁ.......?」
「李小狼という。小さい狼で、しゃおらん」
「しゃおらん.......君。分かりました、小狼君、ですね」
そう言うとファイはにこりと笑って見せた。奇しくもそれは、旅の序盤の彼の笑顔と寸分も違わなかった。