おそ松さん

□リクエスト
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 カップラーメンと弁当を平らげてすっかり腹が膨れた男は、僕に感謝の言葉を述べると、痛みも治まってきたのでそろそろ帰らなければならないと腰を上げた。特に引き止める理由もなかったので玄関まで見送って別れた。別れの際に、「もう、怪我するなよ」と言って頭を撫でる振りをして男のスーツに超小型の発信機を仕掛けておいた。頭を撫でられた男は、きょとんと瞳を丸くしたあと、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべて「心配するな。痛いのには慣れてるからな!」と余計に心配させるようなことを誇らしげに言い放った。

 「班長さんのことは絶対に忘れないからな!」と、元気よく男が帰った後、すぐにイタリアのローザと連絡を取り、いつものように向こうでのネズミ駆除の様子を聞く。ローザの報告を聞きながら、日本に一部のネズミが来ていることを話した。すると、案の定ネズミの親玉がイタリアを留守にしていることがわかった。組織内の掃除があらかた片付いていたので、ジャッロを日本に派遣してくれるという。

 ファミリー内のネズミ駆除は終わった。後は、僕の仕事だ。

 僕を追って国を離れ、難を逃れたクソ野郎を叩くだけ。

 僕の仮初の日陰生活もおしまいだ。

 二日後、ジャッロが黒服の部下を引き連れて、木造のボロアパートにやってきた。

 僕は、白いスーツで弟分を出迎えた。

 狩りの準備は万端に整っている。






◇◇◇




 夜の繁華街を車で走りながら、僕は日本にいる部下とイタリアにいるローザの双方から送られてきた情報を元に、ネズミの隠れ家に乗り込んでいた。

  きらびやかな繁華街と犯罪が連結している街はアジアの特徴である。

 日本人が気が付いていないだけで、この平和ボケした国には外国人がいっぱいいる。そのなかでもこの賑やかな夜の街に出入りする外国人は多い。万単位だ。だからこそ、日本には複数の外国人による犯罪組織が存在している。 また、外国人にとって暮らしやすい場所=正規の手続きで入国している外国人も多いため、『木は森に隠せ』の通り、発見が困難になっているので、不法滞在、密入国の外国人が活動しやすい環境になっている。

 そして、ネズミ共は、僕達の支配下にある工場から遠く離れた隣町の繁華街に潜んでいた。白いブラウスに黄色いスカート、金髪巻き毛の少女に変装したジャッロと共に一般人のカップルのフリをして潜伏先であるラブホテルに潜入した。ポケットの中の端末を取り出して覗いてみるとクソ犬の反応もばっちりあった。ターゲットの顔は知っており、お目当ての人間さえ消せれば問題ないので、できるだけ速やかにことを済ませようと最小限の人数でネズミ叩きに向かう。事が済んだらさっさと抜け出せるように部下にはいくつかの脱出経路の確保をしてもらっている。

 二人で受付を済ませて部屋を確保し、部屋に従業員を部屋に呼び出して、ジャッロの手刀で気絶させる。従業員のズボンの腰に掛かっているマスターキーを失敬し、気絶させた従業員は口に布を噛ませて話せないようにした上で縛り上げてベッドの中に寝かせた。頭しか見えないので誰が寝ているのかはパッと見ではわからない。鍵をポケットにしまうとクソ犬に仕掛けた発信機を頼りに、 女装したジャッロを伴って目当ての部屋へと向かう。

 鍵を開けてドアを蹴破ると、そこに犬がいた。首輪しか身につけていなかった。鞭の痕や痣だらけの裸身を晒して、床に座り込み、自分の口元を手で押さえ込んでいた。その手からはポタポタと真っ赤な血が溢れ落ちている。

 犬の向かいには男が仁王立ちで立っていた。間違いない。ネズミの親玉だ。僅かに乱れている黒スーツの大鼠は、バールのようなものを片手に飼い犬を見下ろしていたようだが、突然の乱入者に目を奪われている。



「はん、ちょう……さん?」


 深く青い瞳が驚いたように見開かれている。口元を手で覆っているせいで多少くぐもった声が、不思議そうに僕を呼んだ。呆然と僕を見上げて座り込んでいる彼の膝下に小さな真珠のような物が落ちていた。

 歯だ。

 それが何であるのか悟った瞬間、事前に右の袖口に隠し持っていたサプレッサー付きの銃を素早く取り出して、立ち尽くす男の頭に狙いを定めて引き金を引く。一言も言葉を交わすことはなかった。問答無用で、脳天に一発鉛玉を食らった男は為すすべも無く真っ赤な血を頭から吹き出して倒れ伏せた。




「ボス!」



 犬が悲鳴じみた声で主を呼び、主人の体に追い縋る。鈍器で殴られたであろう顔は、もう手で覆われておらず、口と鼻からダラダラと血を流れさせながら、犬が泣く。触れた手に主の血が付いて、信じたくないと言わんばかりに頭を振ってさらに涙を零す。



「う、うぅ……うぁああああっ……いやだ……やだ……死なないでよ……おれを……ぼくを、ひとりにしないで……ボス……」



 まるで、親を殺された子供のように遺体に泣いて縋りつく犬を、僕は信じられない思いで見つめることしかできなかった。

 散々甚振られて、弄ばれてた哀れな犬。ついこの間も言葉も通じない見知らぬ土地に捨てられたばかりだ。今さっきも、バールで顔を殴られて、歯が折れて、鼻だって折れているのかもしれないのに……。

 どこまで、コイツは馬鹿な犬なんだろうか。



「な、なんで……なんで、班長さん……」



 犬が責めるように、僕を振り返る。涙の奥に、確かな敵意が潜んでいた。



「なんで、ボスを殺したんだ……!」



 不意に、とある単語が頭を過ぎった。

 ストックホルム症候群。

  自分の生死が相手に握られるという危機的事態に陥った場合、相手の加害者に好感・好意を抱くという極限の精神状態。支配的で強い相手に傷つけられるのを避けるための無意識の防衛反応である。クソ犬は、自分の心と身体を守るために鼠共の言いなりになって犬として振る舞い、相手は悪くないと思い込み、信頼や愛情を感じていたのだ。



「班長さんのこと、いい人だって……思ってたのに」



 泣きながら、犬の右手は鼠の懐から銃を取り出して、カタカタと震える両手で僕に銃口を向ける。



「信じてたのに……!」




 おっかなびっくりの慣れない手付きで銃を構える犬。腕を震わせながら狙いを定めて、トリガーに掛かっている指に力が入ろうとしたとき、僕の背後で黄色いスカートがふんわりと靡いた。その直後、ヒュンヒュンと空気を裂いて何かが犬に目掛けて飛んでいった。

 ジャッロのナイフだ。

 僕の優秀な番犬はこちらから何も言わなくても僕の危機を察知すると黙って動いてくれる。なので、どんな状況であろうと僕はジャッロには安心して背後を任せることができる。

 一本目のナイフが構えられている銃を弾き飛ばし、犬の手を離れた。後に続いた二本目のナイフは犬の右太腿に刺さった。手元を離れた銃を取りに行くこともできず、右脚を庇うように抱え、ただただ苦悶の呻き声を上げることしかできない哀れな犬。



「ボス……ボス……」



 苦しそうに息を詰まらせながら、亡くなった主を呼ぶ姿にどす黒い感情が腹の底を焼いた。



「おい、コッチを見ろ」



 グイッと黒い前髪を乱雑に掴み上げて、犬の顔を覗き込み、睨み付ける。そして、勢いを付けて思いっきり床に叩き付けてやった。突然の暴力に濁った悲鳴が上げたが、お構いなしに二度、三度と繰り返し頭を叩き付ける。ゴンッゴンッと鈍い音とともに犬の額が赤く色が変わり、床には鼻と口から零れ落ちた血が点々と飛び散った。



「よく、聞けよ。お前は今から俺の犬になった。今度は俺がお前を躾けてやる」



 そして、前の主人以上に手酷く扱ってやる。

 その身体の刺青を焼き消して、忌まわしい首輪も剥ぎ取って鎖に繋いで、口枷も付けてやる。ペニスにはピアスタイプの貞操帯を付けるのも良いかもしれない。全ての自由を奪ってやる。コイツの痛みも苦しみも恐れも新しく塗り変えて、終わりのない責苦の中で縋るものが僕しかなくなるまで、徹底的に追い詰めてやる。

 その時に、初めてコイツは僕だけのモノになるのだ。



「キヒヒッ。よろしくな。クソ犬君」



 さて、面倒な大掃除は終わった。

 鼠も始末したことだし、とっとと家に帰らなくては。これから、飼い主としてやらなければならないことは沢山あるのだ。今付いている小汚い首輪を捨てて新たに別の物を用意したり、前の飼い主が残した汚らわしいマーキングを消したり、捕まえた鼠を締め上げる部屋とは別にコイツ専用の部屋を設けたり、色々と忙しくなりそうだ。

 とりあえず、飼い主として一番初めにしなくてはならないことは……。

 名前だ。

 掴んでいる髪を引っ張り上げて怯えたように僕を見上げる瞳をまじまじと至近距離で覗き込む。



「なぁ」




 話しかけると、ビクリと犬の体が震えた。痛みと恐怖が入り交じってゆらゆらと揺れる深く青い瞳。

 怯えたような反応が面白くて、キヒヒッと歯を見せ付けて笑いかけてやる。



「お前は、なんて名前がいいと思う?」



 青い目から涙が流れ落ちたので、指で掬ってペロリと舐めてやった。犬の涙はちょっぴり塩辛い味がした。




End
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