おそ松さん

□松ネタ吐き出し
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 翌朝、皆が起きる前に布団を抜け出し、卓袱台に用意されていた朝食を先に食べた。昨日の夜から何かが変わりそうな嫌な予感に胸がざわついて落ち着かない。こういう時は可愛い友人達に会って気持ちを落ち着かせたい。食べ終えた食器を流し台に置き、二階の子ども部屋に戻った。まだ、眠っている兄弟を起こさないように足音を殺して、にぼしとキャットフードが入ったコンビニ袋を取り、ソッと部屋を出た。

 薄暗い路地裏に付くと、ゴミ箱や乱雑に隅に置かれていた物陰から数匹の猫がチラリと顔を覗かせた。テリトリー内に入ってきた人間が僕だとわかると「にゃあ〜お」と鳴いて足元に身を擦り寄せて、餌を強請る。餌皿にキャットフードをいれると待ってましたとばかりに食い付く猫達。小さくて可愛い友人達がモグモグと一生懸命にご飯を食べる様子を眺めているだけで何だかとても癒やされる。そして、ふと青いゲルゲとなった兄が兄弟から物を貰って食べている姿が、目の前の猫達と重なって見えてしまい、慌てて首を振って馬鹿げた考えを振り払う。何でいきなりアイツの姿が出てくるんだよ。

 不意に、背後から砂利を踏みしめる音がして、反射的に背後を振り返る。



 「え……?」



 思わず、口から間抜けな声が出た。振り返った先には、無言で佇む男がいた。

 異様な姿をしていた。乱雑にオールバックにした跳ねた黒髪。前を開きっぱなしにした紫のノースリーブの上着に、腹を丸出しにしたウロコ模様シャツ。 両腕には何故か包帯が巻かれており、紫の長ズボンの太腿あたりには銀色の足環が付いている。服装だけ見ればかなり個性的な人間にしか見えない。しかし、目の前の男は明らかに人間ではなかった。男の頭からは紫の角が二本生えていた。 背中からは上着の色と同じ大きな翼が広げられ、先端がギザギサに尖った紫の尻尾がチラホラと見えている。

 思わず、驚きのあまりビクリと固まった僕に、感情を読ませない半開きの赤い瞳が、ニヤリと愉しげに歪む。相手の口から「クッヒッヒッヒ」と掠れた不気味な笑い声が漏れ出た。



「クソゴッドに伝えといてくれる? さっさと帰って来ないとお前の大事な海がめちゃめちゃになるぞって。」



 人間離れした異形の男に気圧されて立ち竦む僕に、一方的に告げると男は「キヒヒ」と嘲笑うように喉を鳴らして、踵を返す。背中を向けたかと思うと、ほんの一瞬うちに僕の目の前から男は消えた。まるで、手品のように姿を消した男に、実は白昼夢でも見ていたのかと考えたけれど、僕の意識ははっきりとしている。今目の前で起きたことをけして夢ではないと頭の中の冷静な部分が現実としてきちんと認識していた。




(クソゴッド……ゴッドって、何なんだよ……。大事な海って……帰って来いって、どういうことだよ……。)



 そこで、ふといつか弟が言っていた言葉を思い出した。



『カラ松兄さんね、海で溺れて気が付いたら神様になってたんだって』



 カラ松は、神になった。


『海で死んで神様になっちゃったみたいッスね』



 一度死んだカラ松は神になった、と弟は言っていた。

 不穏な予感に、心臓がスウッと冷える。

 ぬるま湯のような日常に浸りきって、深く考えないようにしていたこと。敢えて見ないようにしていた事実を突きつけられた。

 カラ松は、死んだ。そして、人ならざる者として生まれ変わり、神になった。

 どうして、兄が神になってしまったのか。

 そもそも、何故ボロボロの姿で十四松に発見にいたのか。一体、何があったのか。


 そして


『さっさと帰って来ないとお前の大事な海がめちゃめちゃになるぞ』


 アイツは、何処に帰るというのだろうか。

 さっきの男は何者なのか。

 わからないことだらけだ。

 にゃあ〜、にゃあ〜と心配そうに僕を見上げる友達の頭を安心させるように「大丈夫だよ」と撫でながら、耳の奥で嘲るように喉を鳴らす不吉な笑い声がいつまでも響いていた。


◇◇◇





 カラ松がゲルゲとなって帰って来てから二ヶ月が過ぎた。

 僕の兄・カラ松はある日から急に成長をし始めた。小さかったゲルゲは少しずつ体のサイズが大きくなっていき、とうとう僕らと変わりない大きさのゲルゲへと成長していった。

 そして、成長するにつれてカラ松は飯も食わなくなり、自ら家族の誰かと触れ合うをやめていった。今では一切、ご飯を食べることも眠ることもせず、一日の殆どを窓にかじりついて、朝から晩まで外を見つめて過ごしている。おそ松兄さんや弟達が話しかけても見向きもせずに、青い瞳は外に向けられたままである。飲まず、食わず、眠らず、話しかけても反応もなく、「せらびー」と楽しそうに鳴くこともなくなった。日がな一日、ほとんど身動きせずに窓にかじりつくように外を見つめる大きな姿はまるで、頑強な岩のようで、僕たちはカラ松に干渉することができずに、ただその存在を見ているだけ。そうなったカラ松はもはやカラ松と言うよりも、ほんのりと透き通るように海の香りを漂わせてただ其処にいるだけの異形のナニカでしかない。もはやカラ松ではなくなってしまったソイツの存在は、僕達にはどうこうすることもできず、ただ黙認するしかなかった。やがて、視界の端に映るソイツを僕たちは居ないものとして振る舞うようになった。そうして、二日、三日、四日、一週間と何の変哲もないいつもの日常が過ぎていった。しかし、その穏やかな日々は、僕には嵐の前の静けさのようにしか思えなかった。

 胸騒ぎを抱えながら何も起こらない平和な生活を過ごしていた中で、暇潰しにつけたニュースやバラエティを眺めているとき、速報で海上警報が表示されることが増えているこに気づいた。しかも、どういうわけか関東海域に1点集中して濃霧警報やら海上風警報、波浪警報やらが発表されており、最近では松代からも海にはけして近づかないように言われるようになった。特に、十四松なんかは口を酸っぱくして注意されている。

 一見、僕らの怠惰な日々は何も変わっていないように見えるけれど、水面下では間違いなく何かが起きていた。

 そして、ある満月の夜。

 六人兄弟みんなで過ごす、とても歪で、綱渡りのように不安定な日常の終わりが、足を忍ばせてやってきた。

 それは僕を含めた兄弟がすっかり寝静まった夜だった。

 ズルッ、ズルッと何かを引きずるような、あるいは何かがゆっくりと這いずるような不気味な音が、真っ暗な部屋の中に響く。一番右端の窓際で眠っていた僕は、すぐ真横から聞こえる物音で目を覚ました。一体、こんな夜更けに何事かと、重たい頭を右に傾けて見てみればそこにはヤツがいた。窓から差し込む月明かりを浴びながら、苦しそうに身悶えている青い芋虫の姿があった。尋常ではない様子に、思わず体を起こして身を乗り出す。巨体なゲルゲが身動ぎするたびに畳が擦れる音がした。しかし、とても苦しそうなのにどういう訳か鳴き声ひとつ上げたりしない。僕達を起こさないように気を使っているのだろうか。



「ンン……ウ……ァ……ァ……」



 必死に苦悶の声を押し殺しながら身をよじるゲルゲの背中で、何かがキラリと光った。目を凝らしてよく見てみると、月明かりを照り返して輝くそれは銀色のファスナーだった。



(何なんだ。アレ……)



 異形の生物と成り果てた兄とずっと一緒に暮らしてきたけれどカラ松ゲルゲの背中にファスナーが付いていたことはなかった。アイツの背中にはモフモフとした柔らかい毛しか生えていなかった。あのファスナーは今、突然あらわれたモノだ。何故、そんなものが突然あらわれたのか。唐突にあらわれた怪しげなファスナーは、困惑する僕を他所にひとりでにジジジと音を立てて銀の口を開いていく。その間もぐねぐねと青い巨体をよじらせて芋虫のように蠢くゲルゲ。やがて、大きな背中の開いた口から、真っ黒な何かとキラリと光る何かがのけ反るように出てきた。頭だ。人の頭。後頭部で一つに束ねられている長い黒髪は、ソイツが頭をひと振りするたびに動きに合わせてゆらゆらと踊る。前頭部には蒼い宝石が付いた黄金のティアラをつけていた。



「カラ松……」



 淡い夜の光の中で顔を見せたソイツはカラ松だった。髪型は少し違うし、瞳の色も青みがかかっているけれど、僕達と同じ顔をした松野家の次男、正真正銘の松野カラ松であった。

 ゲルゲの皮を脱いで上半身がすべてさらけ出されると、下半身を覆っていたモコモコとした青い毛皮がスルリと落ちていく。黒いビキニパンツとそれを覆う青い鱗のガーター。鱗のニーハイに厳つい黄金のブーツ。人外じみた神聖さを遥かに凌駕するエロさ。



(何なの……この露出の多さは。これが女ならクソビッチめと罵っても許されるレベル。控えめに言って痴女。コイツは男だから変態露出狂か。こんな服と呼べないようなモンを着ていたら、襲ってくださいとアピールしているようなものなのでは? 普段からクソ松は露出の多い格好をしていたけれど、もしかしてコイツは襲われたいのか? こンのクソが! マジ本当死ね! 鱗の隙間から見える太腿に思わず目を奪われてしまっただろうが! 黒ビキニとかエロ過ぎンだよ! 僕のナニが誤作動起こすぞこのヤロウ! クソクソクソクソクソクソ!!! クソが!! 本当もうマジでやめて……。勘弁してよ。クソ松を相手に一生の不覚……。僕のナニが誤作動起こしかけるのも、兄の太腿やら乳首やらに目が奪われるのも、その肌に触れてみたいと思うのも、ゲルゲの皮を脱ぎ捨てて脱皮したてのモンシロチョウのような何者にも汚されていない生まれたての美しさなんか感じちゃって、犯しがたい神聖さのようなもののせいでクソ松相手に畏怖してしまうのも、何もかも全部クソ松のせいに違いない。)



 ただただ言葉を失ったように声もなく、魅入ったように瞳をカラ松に釘付けにしたまま、妖艶な異形の神になった兄を呆然と見上げることしかできなかった。
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