おそ松さん

□松ネタ吐き出し
19ページ/38ページ


 僕の学校では動物を使った授業がある。

 その授業で、ラットを一匹与えられ飼育することになった。

 大きさは尻尾を除いて約20cm。真っ白なアルビノのラットを渡された。

 このラットを人間に馴れさせるために、実験者である僕が世話をしなければならない。いわゆるハンドリングと呼ばれる手慣らし期間だ。
 実験当日までの間、順調に飼育を行わなければならない。コイツが上手く僕に懐いてくれたのなら実験を行う際には抵抗もされずに投薬や採血等の操作ができるし,スムーズに投薬(ただの水)の練習もできる。

 飼育は初日から上手く行った。当たり前だ。今までも、何匹ものマウスやラットを飼育してきたし、元々僕は動物が好きなので世話も手慣れたものである。

 ラットは初めは見知らぬ僕を警戒して怖がって失禁し、糞を漏らした。その怯えっぷりに正直、げんなりさせられた。本当にこのクソタレネズミは僕に馴れてくれるのかと心配になった。しかし、ものは試しとばかりに餌を与えるとコイツはすぐに慣れた。疑うことを知らない眼差しで、新しく餌をねだるように指先をペロペロと舐めてくるクソネズミ。コイツからは既に怯えや警戒心が綺麗サッパリなくなっていた。キュウキュウ鳴いてやがる。なんと僕はコイツを一日で懐かせてしまったのだ。何てお人好し単純脳。18禁即堕ち2コマ漫画のヒロイン並のチョロさだ。

 人間のために改良された人懐っこい生き物とはいえ、懐くのが早過ぎやしないか?

 この小さな脳味噌はゆるふわお花畑なのだろうか?

 コイツラは皆こんなものだったけなぁと、こっそり他の学生の様子を伺ってみると、他のラットはケースの隅っこに身を寄せて固まっていたり、見ず知らずの人間の手からなかなか食べようとはせずに、不安げに学生の顔を見上げていたり、僕のところのクソネズミほどチョロくはないらしい。ラットを配布する前に先生が、いくら人懐っこいと言われるラットでも初日から馴らすのは難しいと言っていたがその通りだった。初対面でキュウキュウ懐いてくる方がおかしいのだ。

 甘えるようにペロペロ僕の指を舐めてつぶらな瞳でちょくちょく顔を上げて僕を見るクソネズミはとても可愛かった。先程、糞を漏らしたことが帳消しになる無邪気な可愛さだ。

 元々僕は動物が好きだ。なかでもとりわけ猫が一番好きで、よく猫と戯れに路地裏を通ったり猫カフェにも通っている。最近では、競馬好きの友達の影響で馬も悪くないと思っている。猫も馬もネズミも動物はみんな可愛くて好きだ。

 指を舐めるクソネズミに、 新しく餌を与えるとヤツは両手に餌を抱えて嬉しそうに頬張っていた。何て単純な馬鹿なんだろう。しかし、その無防備な警戒心のなさが可愛くも思えた。そして、同時に哀れだった。だって、コイツは自分を解剖する人間に懐いているのだから。

 どんなに可愛くても、僕は実験動物とは距離を置いてきた。実験動物は普通の動物とは違うのだ。僕は実験者として彼らを使わなければならない。現に、最近もマウスの安楽死方法を教わって安楽死させてきた。

 キュウキュウ鳴きながら僕を見上げるネズミに下手に情が移らないように「クソネズミ」と呼ぶことにした。無駄かもしれないけれど、万が一に備えた心理的自己防衛。足掻きである。

 こちらの葛藤など知らぬ哀れなクソネズミは毎日餌を上げ、健康状態を確認する僕に懐いてきた。まるで、「お前のことを信じてるぜ」と言わんばかりの瞳を向けてくる見事な懐きっぷりである。手から餌をあげようとしたり、ハンドリングの一環として背中を撫でようとすれば勝手に僕の手を伝って肩に上がってきてはスリスリと首筋に小さな頭を擦り付けてきたり、僕の頭の上がってきては下を見下ろして、悦に浸るように立ち上がってご機嫌な様子でキュウキュウと鳴く。何とかと煙と同じように高いところが好きなのだろう。愛らしく愚かなまでに人懐っこいクソネズミは毎日肩の上から僕の顔を舐めてきた。僕は辛うじて唇だけ引っ込めて甘んじてクソネズミのペロペロ攻撃を受け止めていた。

 なるべく情を傾けないようにしようとは思っていたけれど、それはやはりできないことだった。



 その後、大学でラットの解剖が行われた。



 麻酔で眠らせてメスで解剖し 、観察を終えると直ぐに針で縫うという授業だった。

 今まで似たような授業を受けてきた筈なのに、器具を用意する手が酷い緊張で震えた。

 自分の手でコイツを死なす訳にはいかなかった。

 絶対に、殺したくなかった。

 小さな腹を開くときも吐きそうになりながら、ひたすらメスを動かした。

 事前に予習を重ねたにも関わらず生徒の1割が失敗したが、僕は失敗しなかった。

 クソネズミは無事に生きている。

 幸運なことに今回の実験内容はお腹を開いて縫合するだけという、上手くいけばラットを殺さずに済むような内容のものだった。

 しかし、実験が終わったラットはもう用済みらしく、欲しい人は持って帰れと言われた。 持って帰らないラットは殺処分される。

 何匹ものラットが残されていく中、コイツを引き取った。

 同級生達は何だコイツ変わっているなという目で僕を見たけれど、必要最低限以外の人間関係を遮断している僕には、他人の目などどうでもよかった。

 数少ない友人からも「うわ、お前ネズミ持って帰るのかよ。ペットにでもすんのかよ。俺はコイツラをペットにすんのは無理だわ〜」とか
「一松さ、本当にペットすんの?コイツラ実験動物だよ?」とか
「自宅で解剖でもするんスかー!?」とか
「ゲ、ネズミ引き取るとか何考えてンの?!」など
と、小うるさくアレコレ言われてはドン引きされたので「うるさい。脱糞するよ」と脅して黙らせた。

 机上のクソネズミに手を差し伸べると哀れなラットはさも当たり前のように僕の掌に上がってきた。

 僕に酷い事をされたのを忘れたのか、許してくれているのか、それとも理解していないのかわからないが、僕の首筋に体をすり寄せて甘えてきた。その仕草はまるで猫のように愛らしい。

 この小さな生き物がとても愛おしく感じると共に心がチクチクと小さく痛んだ。

 コイツの寿命はあまり長くはないだろう。

 ラット自体の寿命は長くても2年半から3年程度だ。僕が大学を卒業する前にコイツは死んでしまうだろうし、一度お腹を開いた体は弱っているだろうから、余命もそんなに長くはない筈だ。それでも、僕はコイツを手放したくはなかった。医学生らしく他の学生達のようにただの実験動物だと割り切れたら良かったのかもしれない。


 でも、できなかった。

 一度、実験に使った、使い捨ての道具をいまさら救い上げて可愛がるなんてことは、これは僕のエゴでしかないく、人間の傲慢な身勝手さだ。僕はクズだ。人によっては偽善者として見なされるかもしれない行為だ。でも、僕は偽善者よりも酷い。偽善者以下だ。だって、僕はコイツを可哀想だから引き取るんじゃない。僕がコイツを欲しくて引き取るんだから。僕自身、この学校に入ってきて何匹ものマウスやラットを解剖がしたり、注射したりしてきたのに、だ。

 身勝手なクズでごめんね。クソネズミくん。それでも、お前が僕に懐いてきたのが悪いんだよ。

 なんにも知らない小さな生き物に責任転嫁しつつ、小さなソイツを胸に抱え上げた。

 さぁ、家に帰ろうか。
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ