その他
□第五人格
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〈Side:A〉
どういうことなのだろうか。
僕は狼男に捕まったはずだ。狼男ならまだしも、吸血鬼ってどういうことだ。
戸惑うこちらの様子などお構いなしに、目の前の男は楽しそうに笑いながら話し掛ける。
「ねぇ、どうせ、きみは遅かれ早かれ殺されるんだ。だから、せめて死ぬ前に天国を見せてあげるよ」
「え?」
男がパチンと指を鳴らすと、ガチャリと檻の鍵がひとりでに外れ、閉じていた扉が勝手に開かれる。
「さ、おいで」
強い力で腕を掴まれると、檻の外に引っ張りあげるように立ち上がらせられ、するりと腰に腕を回される。そのまま流れるような動きで作業台の上に誘導され、押さえ付けるように押し倒された。
「あ、あのッ、待ってください!」
「大丈夫、怖くないよ。痛いことはしないから」
「一体、なにをする気ですか?」
「気持ちいいことだよ。怖がらなくていい。さ、体の力を抜いて」
大きな大人の手が僕の両手を押さえている。恐ろしいほどきれいな目が僕を見下ろして楽しそうに笑っている。
「私の目を見て」
その目に見つめられていると段々と頭の奥がぼんやりとして、とろりとした微睡みに包まれていく。目の前の美しい人のために何もかもを手放しても良いような気がした。うとうととした心地良さに任せるように目を閉ざす。
するりと冷たい指先で頬を撫でられる。クスリと相手が笑うのが気配がして、なんだかこちらまで嬉しいような気持ちになった。あなたが楽しいのならそれでいい。好きにしても構わないと身体の力を抜く。上着のホックを外されて前を開けさせられる。
「ふふ、可愛いね」
耳元で楽しそうに囁かれ、冷たい指先が唇を撫でた。
ふと、どこかで硝子が割れるような甲高い音がした。
「え?」
靄が掛かっていた思考が、一気にクリアになる。
自分は今まで何をしていたのか。
目の前の面妖な麗人は、まるで凍り付いたように動きを止めている。慌てて彼の下から這いつくばるように抜け出し、転がるように納屋の外へ逃げる。
外に出ると空は雲に、あたりは濃い霧に包まれて遠くの様子がよく見えない。空気は重く淀んでいた。納屋の周辺には茂みが生い茂っているのが見えた。さらに奥には鶏などが入れられているだろう檻や家畜小屋のような小さな建物が見えた。
家畜小屋がある方とは反対側には少し向こうに城の尖塔がぼんやりと見えた。どうやら、自分はどこかの大きな城の敷地内にいるらしい。
とりあえず、納屋の奥にある家畜小屋の近くの茂みに身を隠し、息を潜める。しばらくするとフラフラと覚束ない足取りで男が納屋から出てきた。何故か、彼の手には先ほどは持っていなかったサーベルが握られていた。男は不機嫌そうに片手で額を押さえながら、手に持っているサーベルを大きく振り回して近くの茂みを斬りつけている。あきらかに苛立っている様子が遠目に見て取れた。今、見つかってしまうと殺される。直感的に悟って体が震え上がった。
(助けて、ジェイ……!)
いつものクセで上着の上からお守りを探る。そして、内ポケットの中に入れていたはずの短剣が粉々に砕けていることに気付く。
(どうして!?)
相手はこちらが隠れている方とは反対側の城のある方に向かって去っていった。男が戻って来そうにないのを確信し、ソッと茂みから出る。
上着の内ポケットを引っ張り出すと砕けた短剣がパラパラと砂や小石のように地面に落ちていく。
「なんで……?」
唯一の心当たりは先ほど、桃色の髪をした男から妙なことをされそうになったときだった。その時、何かが砕ける音がした。もしかすると、養父がくれたこのお守りが助けてくれたのだろうか。
(ジェイッ……!)
養父に会いたい。はやく家に帰りたい。
再び涙が込み上げてきた。グズグズと鼻をすすりながら、深い霧の中を大きな城の影を目指して歩いていると、広い庭園に出た。至るところに赤い薔薇が植えられている。中央には噴水もあり、庭園の隅に一本の大きな木の影が見える。
ふと、犬の鳴き声が聞こえてきた。
声のする方に歩いていくと庭園の端にある巨大な木の根元に大きな灰銀の獣が苦しそうに横たわっているのが見えた。
「あれは……犬?」
一見、狼や犬のような見た目をしているが、その身体は虎やライオンほどの巨体だった。こんなに大きな犬は見たことがない。これは本当に犬なのだろうかと首を傾げる。
獣の首には黒い布が首輪のように巻かれており、高価そうな紫色のブローチがぶら下がっていた。灰銀色の毛並みもきれいだ。それを見て、この巨大な犬はここで飼われているのかもしれないと思った。この城の主である吸血鬼に飼われている特別な犬。魔犬の類いかもしれない。
獣の後ろ足には真っ黒な見るからに禍々しい色をした蔓のようなものがうねうねと絡み付いていた。しかも、薔薇の棘のようなものが生えている。まるで、食虫植物が掴んだ獲物を逃さないように捕まえているかのようだ。あきらかに普通ではない。見るからに不吉そうな黒い茨は地面から伸びている。
この得体のしれない植物は、リードの代わりを果たしているのだろう。
(関わらない方が良いかもしれない……)
この巨犬が吸血鬼のペットならば手を出さないほうが良いのは明白だ。何も見なかったことにしよう。ソッと通り過ぎようとした。
しかし
「クゥーン」
あきらかに弱っている声。そして、苦しそうな荒い息。
「うぅ……」
茨に足を捕らわれている様子は、まるでトラバサミに掛かった狐を彷彿させた。足に絡みつく黒々とした植物を引き剥がそうと藻掻いている。
「あの……大丈夫?」
声を掛けるとピクリと獣の耳が反応し、顔を上げる。美しい青い目がこちらを見る。その目には確かな知性の光が宿っているように見えた。
「その足のやつ、僕が外してもいい?」
突然、身体に触れて噛みつかれたりしないように、恐る恐る近づき、ゆっくり膝を下ろす。
手を伸ばしても獣は唸ったり、噛み付いたりはしなかった。ジッとおとなしく身を横たえている。やはり、こちらの話す言葉を理解しているのだろうか……。
「ちょっと、ごめんね」
指先がそれに触れた途端、とても嫌な感じがした。黒い茨は氷のように冷たかった。灰銀色の足に絡みつくそれを外そうとして手で掴む。
「ウッ……!!」
小さな棘が肉に食い込み、突き刺さるような痛みが走る。さらに、まるで身体の内側から何かをごっそり抜かれるような感覚がした。身体が重たくなり、息が苦しくなる。手の痛みに耐えながら力任せに茨の蔓を引っ掴む。グイッとひと息に蔓を引っ張り上げて獣の足から引き外す。
「ハァッ……ハァッ……終わった……」
茨を手放し、膝をつく。ひどく疲れを感じた。先ほどまで犬の足に絡みついていた茨は小さく蠢いている。もうこれには触りたくない。
茨から解放された犬は脚から血を流しながらも、よたよたとよろめきながら身を起こす。立ち上がるとやはりかなり大きく、とても犬には見えない。青く美しい獣の瞳が僕を見下ろしている。
「あ、あの……もう少しだけ動かないで」
今にもどこかに行きそうな犬を慌てて引き止めて、ダラダラと血を流している脚に、上着のポケットに入っていたハンカチを巻き付けて止血する。
これでもう大丈夫だろう。
「さ、もう行っていいよ。今度は変なものに捕まらないように気を付けるんだ」
獣はジッとこちらを見つめたかと思うと、かがみこむように顔をおろして、僕の手に舌を伸ばす。
「え?」
まるで、茨で傷付いた手を癒やすようにペロペロと舐め始めた。不思議なことに、ザラザラとした舌で舐められていると、ジンジンと焼けるような痛みが少しずつ和らいでいく。
顔を上げたかと思うと、今度は反対の手を舐め始める。
解放された手を見ると、不思議なことに傷がきれいに治っていた。
今もこちらの手の傷を舐めて癒やしてくれている灰銀の獣は自分の言葉も理解しているようだ。やはり普通の犬ではない。驚きながらもただジッと己の手を舐める大きな頭を見下ろす。獣が再び顔を上げると、予想どおり反対の手の傷もなくなっている。
「あの……ありがとう」
お礼を告げると、獣はクルリと背を向けてほんの一瞬で、庭に生い茂っていた繁みの向こうへと姿を消した。
また、一人になってしまった。