その他

□第五人格
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 大きな狼の手に手を引かれて森の入り口まで歩いていく。鋭く長い爪は正直、恐ろしいけれど、それは今の僕を傷付けるものではなかった。なんとか態度に出さないように何でもないような顔を作りながら、大人しく手を繋いで歩く。ようやく森の入り口に着く頃には、空はすっかり日が落ちて暗くなり、夜闇に綺麗な月が浮かんでいた。



「さ、このまま真っ直ぐ家まで帰るんだよ」

「……ありがとうございます。ジョゼフさん」



 繋いでいた手が離される。ホッとしながら、ペコリと頭を下げてお礼を告げる。



「気を付けて帰るんだよ。あと、森に来るときはひとりで入らずに必ず大人を連れてくること。そして、二度と森の奥まで足を踏み入れないこと。次に会ったときはもう見逃してあげないからね。……私に喰い殺されたくなければこの約束は必ず守ること。いいね?」

「……はい」



 告げられた忠告を胸に刻む。キラリと光る青い獣の瞳に見下されながら、返事をすると、「さ、もう帰りなさい」と促されて森の外へと足を踏み出す。最後にもう一度だけ、ジョゼフに向かって頭を下げて、森を出た。後ろを振り返ることなく、ひたすら町に向かって駆け出していく。

 走って、走って、町を目指す。

 どんなに森から遠ざかっても、あの森の奥で感じた獣の視線が背中から離れることはなかった。それは森の中を逃げ惑っていたときのように、何処までも執念深く獲物を追い掛ける獣が背後から迫っているような気がして、町に着くまで後ろを振り返ることができなかった。





◇◇◇





 家に帰ると室内に明かりは点いておらず、養父はまだ仕事から帰ってきてはいなかった。部屋の明かりを点けて、手を洗い、養父が帰って来る前に手早く夕食の支度に取り掛かる。夕食の支度といっても、パンとサラダを用意してハムやチーズ、バター、ジャムを食卓に並べて盛り付けるだけなので、あまり時間は掛からなかった。いつも通りに食事の支度を終えると、ちょうど養父が帰ってきたので出迎えて二人で夕食を食べた。会話は特になかった。養父は普段から口数が少なく、挨拶と必要なこと以外はあまり喋らない人だった。僕も会話はあまり弾む方ではないのでこちらから彼に話し掛けることはなかった。養父と二人きりのこの家はいつも静寂に包まれていたけれど、彼との間に生じる静かな沈黙は別に嫌いではなかった。

 食事を済ませて片付けを終えると、養父と入れ替わりでシャワーを浴びる。身体を洗っているときに、鏡に映る自分の姿に違和感を覚えて手を止める。首筋に見覚えのない痣を発見した。そこは、ジョゼフに噛まれた箇所だった。



「…………」



 彼は言った。

 僕を見逃す、と。

 そして、こうも言っていた。



『ただ、今回見逃す代わりにマーキングをさせてもらうけどね』

『……マーキング?』

『きみが私の獲物だという目印さ』



 この痣は目印だ。己が彼の獲物だという証そのもの。ジョゼフは見逃すと言ったけれど、獲物に印をつけて一時的に手離しただけで、完全に逃してくれたわけではないのだ。

 ならば、どうして彼は僕を逃がしたのか。わからない。魔物の考えていることなんて、わかる筈もない。もしかすると、捕まえた獲物を美味しく太らせて生かしておくようなものなのかもしれない。

 彼がいつか僕を殺しに来るのは間違いないだろう。それがいつになるのかはわからないけれど、どんなに遠くへ逃げようが、彼は必ず獲物の元へ辿り着く。この首に刻まれた『目印』がある限り、ジョゼフから逃げることはまず不可能だ。

 ゴシゴシと痣を掻き消すように擦っても、皮膚が赤くなるだけでそれが消えることはなかった。





◇◇◇





 翌日、学校に行くと僕はラット殺しの犯人になっていた。

 みんなのクラスペットを殺し、無断で学校から逃げ出した頭のおかしな子供として、養父が学校に呼び出された。長い長い話し合いの末に、学校をやめさせられた。元々、友人もおらず、何を考えているのかわからないだとか協調性がないだとか周囲の僕への評価は散々なものだった。

 学校を退学になってからは、養父から勉強を教わるようになった。読み・書き・計算だけでなく、行儀作法にピアノ、そして養父の仕事である納棺師としてのエンバーミングの技術なども教えてもらうようになった。

 それから、6年の月日が流れた。

 16歳のときに、納棺師として初めて一人で仕事を任された。

 そこで、僕はとんでもない奇跡を起こしてしまった。

 死んだ人間を生き返らせてしまったのだ。

 身体を修繕し、死化粧を施して生前の姿にできるだけ近付けて、遺体を納棺した。そうして、家族に引き合わせたときだった。納棺したはずの死者が、家族の前で生き返ったのだ。損傷していたはずの肉体は完璧に治っており、エンバーミングの痕はどこにも残っていなかった。ソレは生者となんら変わりない肉体だった。

 命の摂理を無視した忌まわしい奇跡だった。

 死んだ筈の人間が生き返ったことで、町は大騒ぎになった。僕が生き返らせてしまった人はその場で殺されてしまい、僕自身は邪法使いとして大人達に捕らえられた。衣服を脱がされて、拷問紛いの取り調べを受けたあと、粗末なボロ服を着せられて教会の地下室に監禁された。

 冷たい石の壁に囲まれた薄暗い空間だった。窓もなく、部屋の隅に排水溝があるだけで他には何もなかった。殴る蹴るなどの暴行を受けて疲労した身体を冷たい床に横たえて目を瞑る。抗おうという意志や抵抗する気力は湧かなかった。腫れ上がって熱を持つ頬も、ギリギリと痛む腹部も、口の中に残る血の味も、すべて悪い夢であってほしかった。

 約一週間ほど地下牢に閉じ込められた後に、唐突に地下から引きずり出された。両手を手枷で拘束されたまま聖堂に連れて来られると、そこには町の大人達と真っ白な法衣を身に纏った見知らぬ人物が僕を待っていた。



(あの人は……誰なんだろう?)



 ゆったりとした白と金の法衣に身を包み、花嫁のヴェールのように頭からは白い布を被っていた。顔の半分を青い宝石の付いた目隠しで覆っている神秘的な雰囲気を纏った男性だった。

 一体、彼は何のためにここにいるのか。見慣れない白い彼が気になってジッと見ていると、唐突に後ろから蹴り飛ばされて無理やり跪かされた。



「クラーク様、連れてきました!」



 僕を蹴り飛ばした男が白い彼に頭を下げて言う。しかし、彼は答えない。まるで、聞こえていないかのように男を無視して僕の前まで近付き、腰を屈めてこちらに手を差し伸べる。


「こんにちは、イソップ・カール君。私はイライ・クラークという者だ。王都の教会から派遣されてきた使者だ。きみに会いに来たんだ」



 とても優しい声だった。

 差し伸べられた手を恐る恐るとると、彼は僕を立たせてくれた。



「突然なんだか、質問をしても構わないだろうか」

「あ……はい」

「きみが、死者を生き返らせたと聞いたのだけれど、本当かい?」

「えっと……はい。……多分……本当、だと思います。……ただ、自分でもよくわからないんです」



 何が起きたのか。

 何故、死者が生き返ってしまったのか。

 どうやって、生き返らせたのか。

 何がなんだかわからないまま、悪魔の使いだと非難されて、捕らえられて、閉じ込められてしまった。わからない。何もわからない。どうしてこうなってしまったのか。そして、自分の今後の処遇がどうなるのかも、なにもかもわからない状態だった。



「そんな不安そうな顔をしなくてもいいよ。きみには私と一緒に来てほしい」

「え?」



 目の前の使者が、拘束されている僕の両手をそっと持ち上げる。



「ねぇ、誰か彼の手枷を外してくれないかな」


すると、周りにいた町の大人達や神父がざわめき立つ。



「クラーク様! それを外してはなりません」

「なぜ?」

「彼は魔物と通じているのですよ」



 神父が厳しい眼差しで僕を指差す。



「イソップ・カールの体には忌まわしき魔の刻印がありました。彼は魔物と契約を交わし、忌まわしき力を得たのです。不浄なものは神の炎で焼き尽くさなければなりません。即刻、火炙りにすべきでしょう」



 火炙りという言葉にドキリとする。

 取り調べのときに服を剥ぎ取られ、首の痣を見られたのだ。けれど、これは契約の証などではない



「違う! 僕は魔物と通じてなどいない!」



 これは、ただの目印だ。僕があの狼男の獲物だという証。あの日、ジョゼフ自身が『マーキング』だとはっきり言っていたのだ。しかし、それをどうやって証明できるというのか。わからない。自分が魔物と契約を交わしていないという証拠がなかった。果たして、僕の発言だけで彼らに無実を信じてもらえるのだろうか。



(それは無理だろうな……)



 忌々しいものを見るような目に囲まれながら、心は完全に諦めの境地に至っていた。



「……僕は、ただの餌だ」



 脳裏に、マーキングを付け終えた高貴な捕食者の満足げな笑みが蘇る。



(あの狼男に喰い殺されるのと、火炙りにされるのと、どちらがマシなんだろう……)



 下を向いてそんなことを考えた。スッと白いものが視界に入る。顔を上げると、イライ・クラークが周囲から僕を背に庇うように前に立っていた。



「彼の言うとおりです。イソップ君は魔物と通じてはいません。それは私の眼が保証しましょう」

「それでは、イソップ・カールの首にあるのは何だというんだ!?」

「それは魔物が他の魔物に獲物を横取りされないように付ける目印のようなものですよ。大抵の魔物は獲物をその場で喰い殺すのであまり見ないのですが、高位の魔物は食にこだわる傾向があるようで、獲物を捕まえてもその場で食べずに印だけ付けて逃がし、時期が来たら捕食するということが稀にあるんです」

「な、なんだと……それでは、イソップは……」

「いつか、その印を付けた魔物に食い殺されます。必ず」



 動揺し、再びざわつく周囲の様子など気にもせずに彼がくるりと此方を振り返る。



「きみに印を付けた魔物はとても力の強い高位の魔物だね。おまけに食へのこだわりも強い美食家だ」

「……えぇ」

「きみは殺されるよ」

「……わかっています」

「私にはその印を消すことはできないけれど、きみが生き残るための道を示したいと思っている。私と一緒に王都へ来てほしい」

「……どうして?」



 何故、僕を助けようとするのか。



「生死を超越したきみの力が、私達に必要だからだよ」



 彼は、はっきりと答えた。



「死者を生き返らせる蘇生術は、本来は教会にある祭壇と呼ばれる特殊な装置と、12人の熟練の法術師で行う大掛かりで難しい儀式なんだ。たったひとりで、死者を蘇らせたその類稀な蘇生能力が、必要なんだ」



 イライがソッと手を伸ばして、手枷に繋がれたままの僕の右手を取る。



「きみに、魔物に対抗するための知識と技術を与える代わりに、きみの力を貸してほしい」



 目隠し越しに、真っ直ぐと見つめられている。



「イソップ君。どうか私と一緒に来てほしい」



 右手を包む手に、きゅっと力が込められる。彼に強く、望まれているのを感じる。

 気が付くと僕はコクリと頷いていた。
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