その他
□第五人格
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目の前に転がるラットの死骸に手を伸ばしても届かない。
このまま成すべき使命を果せずに、誰にも知られることもなく、魔物に食い殺されるのか。
愚かなことに、命の危機に瀕して初めて僕はこの森に足を踏み入れたことを後悔したのだ。
そして、これが大人の忠告を無視した悪い子供の末路だというのなら、僕はおとなしくその運命に従うしかないのかもしれない。
「ヒッ……ク……」
喉の奥が勝手に震えた。嫌だ。泣きたくない。けれど、目の前で転がっているラットを見ていると、胸が引き裂かれるように痛くなった。目の奥がジンジンと熱を持ち、ジワジワと涙がこみ上げてくる。
(あぁ……この子に、安らかな眠りをあげたかった)
でも、それは今の自分にはもうできない。僕は大人達の忠告を無視して、この魔物の領域を侵したのだ。愚かで無知な子供は恐ろしい捕食者から逃れる術を知らない。
「ごめんなさい……。勝手に森の中に入ってきてごめんなさい」
けれど、もしも足掻けるのなら足掻きたい。
この恐ろしい魔狼に心というものがあるのなら、それに縋りたいと思ってしまった。
相手は無慈悲な魔物だけれども、身なりはとても洒落ていた。一見、高貴な紳士といった印象で、帽子やジャケットなども品よく身に着けている。彼は恐ろしい魔狼ではあるけれど、オシャレをしたり、身だしなみを気にする知性を持っているのだ。一般的に魔物というものは理性や知性というものがなく、人を襲うだけの対話の通じないものだとされていた。しかし、稀にいる高位の魔物は人間と変わりのない高い知性を持つ者もいるらしい。
そして、いま僕を襲っているこの魔狼はおそらく後者の魔物だ。
「狼さん、僕のことは食べてもいいです。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
たとえ相手が魔物であろうと心があって、話しが通じる知性を持っているのなら……。
今の自分には一縷の希望に託すことしかできない。
「……ただ、ひとつお願いがあります。僕を食べる前に、そのラットを埋葬させてください」
転がっているラットを指差して、必死に懇願する。
(もしも、拒否されてしまったら……)
このまま、僕の要求を無視してあっさり食い殺すことだってできる。相手には僕の願いを聞き入れるメリットなどどこにもないのだから。先程まで容赦なく獲物を追いかけ回し、今もしっかり背中を踏み付けて逃がす素振りも見せない捕食者に慈悲などとうてい期待できない。しかし、それでも、僅かな可能性にかけて必死に願うことしかできない。
「……いいよ」
少し考え込むような素振りをみせたあと、あっさりと承諾され、背中から足が退けられる。
「ただし、見逃した訳じゃないよ。もしも約束を破って逃げようとしたら、その場で生きたまま食い殺す」
獰猛な瞳が僕を鋭く見つめて警告する。約束を違えるとどうなるか。生きながらジワジワと甚振るように食い殺されるのだろう。
「……わかりました」
約束を反故にする気はさらさらないけれど、想像して身体が恐怖に震えた。
◇◇◇
ラットを埋葬するために花を摘みたいと頼むと、彼は快く花が咲いている場所まで案内してくれた。その道中に互いの自己紹介をした。
「私の名前はジョゼフ・デソルニエーズと言う。きみの名前は?」
「……イソップ。イソップ・カールです」
名前を問われて答えると、ジョゼフはラットについて問いかけてきた。
「ところで、さっきのネズミはきみのペット?」
「いいえ……この子は僕のクラスで飼育していたラットです」
僕が世話をしていて、僕にだけ懐いてきた可愛いラット。そして、僕に懐いてしまったために殺されてしまった哀れなラット……。
「頭と身体が分かれているね」
「…………」
「きみがやったの?」
「……いいえ」
僕がこの子を殺すわけがない。あり得ない。
彼は興味津々といったふうに僕の抱えている小さな棺を見つめて笑っている。
「誰が頭を繋げたの?」
「……それは、僕です」
「首の縫い目がきれいだった。イソップ君は裁縫が上手なんだね」
「…………」
「薬の臭いもするね。もしかして防腐処理もきみがしたの?」
「……はい」
「へぇ、まだ小さいのにすごいね」
「…………」
感心したように褒められたけれど、稚拙な腕前を褒められても、あまり嬉しくはなかった。正式に養父から教わったわけではない中途半端な知識と技術でそれらしく取り繕って行った作業でしかなかった。未熟な腕前を褒められても恥ずかしいだけだった。ろくに返事もできずに、熱を持った顔を下に向けて、ただ黙々と彼の後を付いて歩いた。
会話もないまま、しばらく歩き続けていると、徐々に周囲が明るくなり、目の前に開けた花畑が見えてきた。
「さ、着いたよ」
そこは色とりどりの花が咲く美しい花畑だった。案内してくれたジョゼフにペコリと頭を下げて、棺に詰める花を摘み始める。
黙々と花を摘んでいると、退屈そうに僕の様子を眺めていたジョゼフが背後から話しかけて来た。
「ねぇ、イソップ君。きみは町の大人達からこの森に入るなって言われなかったの?」
「……言われました」
養父からも、学校でも、注意されていた。
「なら、きみは大人の言うことを無視した悪い子ということになるね。母親の言い付けを無視した娘が狼に食い殺されるように、きみが此処で私に食い殺されるのも当然の運命というわけだ」
「…………」
彼が話しているのは昔から伝わる有名な民話だ。祖母の家へおつかいに出された娘が、母親の言い付けを無視して寄り道をし、最終的には狼に食べられてしまうという救いのない話である。
「どうして、この森に一人で来たの?」
大きな青い瞳が僕を見据えて問いかける。
「……この子に、安らかな眠りを与えられる場所を探していたんです」
隣に置いていたラットに視線をやる。殺されてしまったこの子ために僕ができることはそれだけだった。
「そして、此処しかないと。この森なら、誰も来ないだろうと思って……」
そうして、大人の忠告を無視した愚かな子供は恐ろしい狼に捕まってしまったのだ。
◇◇◇
箱の中にたくさん花を詰め、その中にラットを納棺し、埋葬する。その魂の安寧を天国の神に祈る。
「お待たせしました、ジョゼフさん。終わりました」
祈りを終えて背後を振り返ると、まるでこちらを射抜くような鋭い獣の瞳が僕を見つめていた。
(僕は、逃げない……。約束は、きちんと守ります)
成すべき使命を果たした。
ジョゼフは僕との約束を守った。
今度は自分が彼との約束を果たす番だ。
「あの、僕を食べるときは……あまり痛くないようにしてほしいです……」
逃げる気はさらさらないけれど、やはり食い殺されるのは怖かった。いざ、食べられるとなると身体が震えそうになった。できれば、生きながらジワジワと食い殺されるよりも、ひとおもいに殺してから食べてほしいと願わずにはいられなかった。殺されるときの苦痛はできるだけ、最小限に抑えてほしいというのは今の自分には贅沢な望みなのかもしれないけれど……。
しかし、たとえどんなに凄惨な末路が待っていようとも、交した約束を違えてはならない。
少しでもジョゼフが食べやすいようにと彼の目の前で邪魔な衣服を脱いでいく。緊張しているせいか、指が震えて手際よく服を脱ぐことはできず、上着を一枚を脱ぐのにも時間が掛かってしまった。服を脱いでいる間、彼はじぃっと僕のことを見ていた。
上半身をすべてさらけ出すとひんやりとした森の空気に鳥肌が立つ。怖かった。手に持っている長い杖で僕を叩き殺すのかもしれない。あるいは直接、僕の喉笛を喰いちぎるのかもしれない。その鋭い爪で眼球をくり抜いて飴玉のように舐めしゃぶり、流れ出る血を啜るのだろうか。頭が勝手に惨たらしい死に様を想像してしまう。恐ろしくて目の前の相手を見ることができず、下を向いてしまう。
(殺すなら、早くしてほしい……。どうか、ひとおもいに)
祈るようにギュッと目を瞑る。
「……服を着なさい」
「え?」
何を言われたのかわからなかった。地べたに落ちている服を拾い上げてこちらに手渡される。戸惑いながら、相手の顔を見上げると彼は面白そうに、困惑する僕の反応を見つめていた。
「やっぱり、きみのことは見逃してあげるよ」
「な、なんで……?」
「ふふ、気が変わったんだよ」
問いかけても、ジョゼフは意味深に笑みを深めるだけで、気まぐれに逃がす理由を教えてはくれなかった。
「ただ、今回見逃す代わりにマーキングをさせてもらうけどね」
「……マーキング?」
「きみが私の獲物だという目印さ」
ガシッと鋭利な爪が生えた大きな手が僕の肩を掴み、身をかがめてスッと首元に顔を寄せてきた。何をするのかわからず、戸惑っていると首筋に真っ赤な灼熱が走った。噛まれたのだ。手から渡された服が落ちる。焼けるような痛みに苦悶の悲鳴を上げても、彼はそんな僕にお構いなしにジュルジュルと溢れ出る血を吸血鬼のように啜っている。ジョゼフから逃れようと藻掻いても逃さないと言わんばかりの強い力で抱き締められて身体を離すこともできない。
逃れることのできない激しい痛みに涙を流しながら、呻くことしかできないでいると、首筋に吸い付いていたジョゼフが今度は舌で傷口を舐め始めた。
まるで、猫がミルクを舐めるように流れ出る血を舌先で舐め取っていく。生温かい舌が噛み跡を這うように動く度に、ゾワゾワとしたくすぐったい感覚に身体が震え、舌が蠢く度に敏感に反応してしまう。
「ひぁっ……アッ…! や、やめっ……!」
制止の声を上げても全くお構いなしに、噛み跡を舌で愛撫するように舐められ続けた。しばらくして、ようやく彼が顔を上げて身体を離した。青い瞳が満足そうに首元を見下ろしている。
肩で息をしながら、そっと首筋の皮膚を擦ると、噛まれたはずの箇所には血どころかなんの歯型も残っていなかった。
すっと目の前に落とした服を差し出される。渡された服を受け取って相手の顔を見上げる。
「さ、早く服を着て。もう帰っていいよ。森の入り口まで私が送ってあげよう」
彼はひどく機嫌の良さそうな笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。