その他

□第五人格
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 誰かに見られている。先程から突き刺さるような視線を感じる。しかし、何処から見られているのかはわからない。ぐるりと辺りを見回してみたものの、鬱蒼と生い茂った茂みや黒々と周囲を取り囲む木々のせいで、陽の光が差し込まないため視界がとても悪い。今はまだ日が登っている時間帯のはずなのに此処はまるで夜のように暗かった。

 ドクン、ドクンと心臓がいやに大きく鳴る。とても危険な何かが此方に近付いて来ているのがわかった。ゾワゾワと背筋が震えるような寒気を感じてたまらずに駆け出した。けれど、何処に行けば良いのかわからない。ただ、迫り来る不穏な気配から少しでも遠ざかろうとあてもなくひたすら走り続けた。

 先の見えない暗い獣道を駆け抜ける。ジワジワと疲労が蓄積され、呼吸が乱れる。胸が苦しい。しかし、休むことはできない。どんなに逃げても、走っても追跡者を撒くことはできなかった。互いの距離が着実に縮まっていた。心音が激しさを増していく。少しでも足を止めたら、背後から迫る何者かに捕まってしまう気がして、恐ろしくて振り返ることができなかった。何処に行けば良いのかわからないまま、恐怖に突き動かされながら、ひたすら走り続ける。

 すぐ背後から、喉の奥を鳴らすような男の嗤い声が聞こえた。あまりの近さに驚いて、思わず後ろを振り返ると大きな青い瞳が間近にあった。



「……ッ!」



 目と目が合った瞬間、思わず悲鳴が出そうになった。



(狼男……!)



 この森に棲みついてるという噂の魔狼がすぐ近くにいた。

 まるで、どこかの紳士のようにシルクハットやら杖を品よく身に着けているが、その姿形は明らかに異形の獣である。獲物を前にキラリと妖しく光る青い目は、まさしく獣の瞳だった。

 慌てて相手と距離を取ろうとするが、動揺していたせいで、木の根に躓いて盛大に転んでしまう。その際に、胸に抱えていた大事な棺を落としてしまった。四角い箱が地面に衝突し、棺の蓋が開く。中に入っていた小さな遺体や花が辺りに飛び散ってしまった。



「あっ……!」



 すぐに起き上がって拾いに行こうとするが、背中を思いっきり固い靴で踏み付けられて、逃げられないように動けなくされてしまう。必死に押さえ付ける足を退けようと身を捩り、手足を動かして藻掻いても、乗せられた足はビクともしなかった。抵抗すればするほど、じわじわと重みが増していき、ギリギリと固い靴が背骨を圧迫していく。重苦しさのあまり呻くことしかできない。

 ジタバタと手足を動かしていると、スッと何かが動く気配がした。次の瞬間、すぐ顔の横を杖の先端が、ガキンッと突き刺すように地面に突き立てられていた。



(あと、少しでも横にズレていたら……)



 ゾッとした。想像しただけで身体が震える。恐る恐る後ろを振り返って相手を見上げると冷ややかな青い瞳がこちらを見下ろしていた。大人しくしていろ、とその目が雄弁に語っていた。もしも、逆らえばその頑強な杖で、今度こそ容赦なく叩きのめされるだろう。

 しかし、自分には成さなければならないことがある。そのために凶悪な人狼が棲むというこの森に危険を承知でやってきたのだ。

 前方に転がる無残な亡骸。

 僕が世話をしていた小さなラット。

 人間の勝手で飼われ、心ない子供たちに殺されてしまった可哀想な子。自分がこの哀れな魂を導いてやらなければならない。それは己にしかできないことだった。



(なのに……僕は……!!)



 どんなに手を伸ばしても届かない。背中を踏み付けられ、首を杖で固定され、ろくに身動きすることもできない状態では這いずって近寄ることすらままならない。

 何のために、此処まで来たのか……。己の無力さに腹が立って、悔しさのあまりに涙がこみ上げてきた。

 成すべきことも成せないまま、このまま此処で魔物の餌食になるのか。



(埋葬先にこの森を選んだのはやはり間違いだったのかもしれない……)



 ちらりと後悔が頭を過ぎる。しかし、それでもやはりこの森しかなかった。凶悪な人狼がいると恐れられている森の奥深くに足を踏み入れる人間はいない。人間に殺されてしまった哀れなラットが安らかに眠ることができる場所は、此処以外に考えられなかったのだ。

 僕にとっては、人を襲う魔物よりも人間の方がずっと残酷で恐ろしい存在だった。





◇◇◇





 ある日、クラスで生き物を飼うことになった。

 クラス飼育されることになった生き物は一匹の小さなネズミだった。体長はミミズのような尻尾を覗いて全長20cm程度。毛の色は白と黒の小さなハスキーラットだった。

 クラスメイト達はラットに対してあまり良い印象を抱いていなかった。ネズミは好きではないだとか、尻尾が気持ち悪いだとか、ハムスターが良かっただとか散々な言われようをしていた。正直、僕はクラスで飼うというペットにあまり関心がなかった。クラスの行事だとか、ペットだとかは己には関係のないことで、全く興味がなかった。ネズミを飼おうが、ウサギを飼おうがどうでもよかった。

 ラットが教室に来た当初は物珍しさからか、休み時間のたびに常にケージの周りには餌を与える子達が何人も集まっていた。小さなネズミは臆病な生き物らしく、子供たちに怯えてケージの端っこで身を固くしていた。何人かは怯えるラットを無理やり抱いたり、ふざけて尻尾を掴んで宙ぶらりんに吊るしたりしていた。ラットは大人しい性格故に同級生達に一度も噛み付いたりはしなかったが、怯えて逃げ回り、捕まっては恐怖のあまり手の上に失禁したり、脱糞したりして、「おしっこをかけられた」だとか「ネズミがうんこした」だとか「クソネズミ!」「汚い」とキャーキャーと騒がれていた。

 クラスにラットがやってきて一週間が過ぎた。ラットはいつもケージの隅っこで身を固くしていた。未だ誰にも噛み付いたりはしていないものの、誰にも心を開く様子を見せていなかった。そんなラットにクラスメイト達も飽きたのか日が経つに連れて一人、二人と餌をあげる人間がいなくなっていった。また、誰もラットの排泄物を処理しないのでケージから悪臭がするようになり、子供たちは段々とラットを煙たがるようになった。

 教室の片隅で世話をされることなく、物置のように放置される小さなラット。ケージの置かれている位置が、ちょうど僕の席と近かったため、渋々自分がラットのケージを掃除するようになった。酷い悪臭の中で昼食を食べるのに耐えられなかったのだ。それから、毎朝ケージの中の糞をピンセットでひとつひとつ取り除いてはいらないプリントに包んで捨てるようにした。ついでに、空っぽの餌箱も登校時と下校時には必ず中身を補充し、給水器の中の飲み水も換えるようにした。そして、三日に一度は放課後にケージの中を水場で丸洗いして、床材も取り換えるようにした。

 そうして、いつしかラットの世話は僕の日常のルーチンとなっていった。

 淡々とラットの世話をし始めて一週間。ラットは僕に心を開き、とても懐いていた。

 ケージを丸洗いにするためにラットを外に出そうとすると、自ら手の上に乗り、腕を伝って肩の上にまで上がってくるようになった。

 きちんと定期的に糞や尿を掃除すると、ケージから悪臭が放つこともなくなった。清潔にしているとラット自体も思ったより臭くはなかった。むしろ、ラットを抱いたときにその小さな体から、ほんのりと果物のように甘い体臭がしてビックリしたほどだった。

 餌を補充したり、給水器を洗って水を取り換えるたびに、小さな声で「キュウ、キュウ」と鳴いて僕を呼び、甘えるようにペロペロと指先を舐めてくる。指先で小さな頭を撫でると全身で甘えるように身を擦り付けてきて、手に乗って腕を伝って来ようとする。ネズミという生き物がここまで人懐っこい生き物だとは想像もしなかったので、正直とても驚いた。

 休み時間に図書室でラットについて調べてみたところ、人間のために改良された実験動物であるラットは自身を守るために必要な攻撃性をほとんど削ぎ落とされているらしく、よほど酷いことをしない限り、人に噛み付くことはないらしい。だから、クラスメイト達が尻尾を掴んで宙吊りにしていたときも噛み付いたりしなかったのか、と納得しつつも、そんなふうに生存本能を歪められてしまった実験動物がとても可哀想に思えた。

 また、ラットは僕とそれ以外の人間を識別しており、僕以外の人間には懐くことはなかった。

 ラットが僕に懐いている様子を見たせいか、何人かがこっそり休み時間にラットに餌をあげているのを偶然見かけたことがある。そのときのラットは手にのった餌を食べようとはせずに、不安げにクラスメイト達を見上げていたり、ケージの隅っこに身を寄せて固まっていたりして、ひどく緊張した様子だった。



「イソップばっかり狡い」



 ある日、誰かが不満をもらした。



「根暗にネズミはぴったりだ」

「まるで、ドブネズミと灰ネズミだな」



 そして、誰かが僕達を嘲笑った。



「カールのネズミは死体を齧るぞ」

「流石、葬儀屋のネズミ」

「ネズミ臭い!ネズミ臭い!」

「ネズミの菌が伝染るぞ」

「死体を齧るネズミ共は駆除しないとな」




 いつの間にか、僕とラットは教室内で行われる黒いお祭りの主役に抜擢されてしまった。僕のせいだった。

 そうして、ある朝ラットが何者かに殺された。ケージの中で頭と胴体が真っ二つに切断されて死んでいた。

 ソレを初めに見つけたのは僕だった。毎朝、誰よりも早く学校に来て餌をあげていたのだ。いつも通りに登校して、初めてソレを見つけたとき、何が起きているのか全くわからなかった。ケージの前でただ棒立ちになって、その無残な姿を見ていることしかできなかった。

 気が付くと、ケージの中から変わり果てたラットを取り出してハンカチに包み、学校を飛び出していた。

 この哀れなラットのために己がやるべきことは既にわかっていた。

 できるだけ見た目を元の姿に直し、その魂を安らかな眠りに導くこと。

 家に帰って、血濡れのラットの身体を綺麗に洗浄し、消毒する。血を抜いて、体内の腐敗しやすい残存物やまだ残っている血液なども取り除く。分かれた頭と胴体を縫合し、防腐処理を施す。少しでも元の愛らしい姿に戻したいという一心で、黙々と手を動かし続ける。最後に再び全身を洗浄して、なんとか身体の修繕を終える。

 防腐処理のやり方は、本で読んだり、幼少の頃から納棺師である養父の仕事を間近で見てきたのでやり方は頭に入っていた。ラットの身体に防腐処理を施したあとは、亡骸を納めるための小さな箱を部屋から探し出してきて、その中にハンカチで包んだラットを納める。そして、小さな棺と、穴を掘るためのスコップを持って家を出た。

 この子が、安らかな眠りにつける場所。

 できれば、人間が絶対に足を踏み入れることのない静かな場所が良い。

 そうして、思い浮かべた場所はひとつしかなかった。

 町を少し離れた場所にある大きな黒い森。昔から恐ろしい魔物が棲むと言われており、町の大人達が子供達に絶対に行くなと口を酸っぱくして注意している禁忌の場所だった。
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