その他

□第五人格
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頭の中で何かを知らせるように小さく耳鳴りがする。それは、飢えた獣が蠢く暗い森へ命知らずな人間が足を踏み入れたことを示していた。太陽の光も届かないほど鬱蒼と生い茂った森の奥深く。しっとりとした草や木の匂いに混じる人の匂い。ほんのりと甘やかな血肉を想像させるそれは幼い人間の子供のものだった。久しぶりの美味な獲物に舌なめずりをする。



(なんて愚かな子供だろう)



 自分が棲みついているこの森は、町の人間達からは人食い狼の棲む危険地帯として足を踏み入れないようにと恐れられていた。過去に幾度も町の男連中や教会の人間達が人狼狩りに来たこともあるが、森の奥へ足を踏み入れた者たちを尽く食い殺してやると、不用意に森へ近付く人間がめっきり減ってしまった。

 町の大人たちはこの子に誰も忠告してやらなかったのだろうか。それとも、この子が大人達の言いつけを無視してやってきたのか。まぁ、どちらでも良い。今はこの幼い獲物を追わなくては。帽子を深く被り、杖を片手に狩りへ向かう。

 絶え間なく続く耳鳴りで、子供がどんどん森の奥へと移動しているのがわかった。囁くような耳鳴りと、風にのって微かに漂う甘やかな匂いを頼りに小さな獲物の足取りを追う。

 子供はすぐに見つかった。

 獲物は灰色の髪に大きなマスクを付けた10歳前後の少年だった。彼は小さなスコップを片手に、そして反対の手で小ぶりの箱を胸に抱えながら森の中を走っていた。苦しそうに息を乱しながら必死に駆け回るその背中は、まるで逃げ場を求めて走る野兎の後ろ姿と重なって見えた。もしかすると、相手は己を追いかける追跡者の気配を感じ取っているのかもしれない。しかし、どれだけ逃げようとも獣に目を付けられた獲物はもう逃げられない。抗う力を持たないものはその命を容赦なく奪われ、強者の糧となる。弱肉強食。それがこの世界の真理だ。

 思わず喉の奥から低く笑みが漏れると、目の前を走っていた少年が後ろを振り返る。互いの視線が合わさった。少年はマスクをしていたので顔はよくわからないが、此方を見る大きな瞳は明らかに怯え、恐怖に揺らめいてた。

 次の瞬間、こちらに気を取られた少年が木の根に躓いて派手に転んだ。その拍子に彼の手から箱が転がり落ちて、中から色とりどりの花々が飛び出て辺りに散らばる。幼子の柔肌が固い木の根や地面に擦れて腕や膝から血が流れ出て、ふわりと甘美な香りが獣の鼻腔をくすぐった。ふと、血の中になにかを感じ取り、より詳しく匂いを弁別するためにクンクンと鼻を鳴らして吟味する。新鮮な血の中にほんのりと滲む清らかな力の気配。



(この子には特別な才能が秘められている……)



 これはなんて幸運な巡り合わせだろうか。柔らかな幼い肉にレア物ときた。まさに極上の獲物である。

 地べたに倒れ込んだ小さな背中を片足で踏み付け、逃げられないように固定する。子供が苦しそうにうめき声を上げてジタバタと細い手足を動かしてもがくが、所詮は人間の子供の力。ビクともしない。無力な獲物の非力な抵抗は実に愛らしい。

 子供の顔の横に杖の先端を叩き付けるように突き刺すとピタリと抵抗が止まった。しかし、すぐに右手がなにかを求めるように前方へ伸ばされる。その手の先にはさきほど彼が落とした箱が転がっていた。中に入っていた花はすっかり散らばり、落ちている花たちの上に一匹のネズミがゴロリと地面に横たわっていた。一瞬、ぬいぐるみかと思ったが臭いですぐに違うとわかった。本物のネズミの死骸だ。しかし、とても異様な見た目をしている。全身から血を抜かれ、きれいに真っ二つに切断された首は、切断面が悪趣味なぬいぐるみのように糸でつなぎ合わされて、薬品の臭いをプンプンとさせている。

 子供は一生懸命にネズミを掴もうとしているが届かない。背中を踏み付けられ、首元を杖で固定され、ろくに身動きすることもできない状態では這いずって近寄ることすらままならない。伸ばしていた手が悔しそうにギュッと握りしめられる。



「ヒッ……ク……」



 とうとう少年の喉から小さな嗚咽が漏れる。顔を俯かせたまま、悔しそうに肩を震わせて、なんとか泣かないように、声を出さないように我慢しようとしていた。けれど、込み上げる涙はこらえ切れずに溢れ出し、頬を透明な雫が伝い落ちる。彼は顔を伏せたまま、静かに声を抑えて泣いていた。あまり子供らしくない泣き方だった。非力な獲物がすべての抵抗を圧倒的な力で捻じ伏せられて、己を食らう捕食者の前でただ泣くことしかできない。その様子のなんといじらしいことか。見ているだけで庇護欲と嗜虐心が同時に煽られて、背筋がゾクゾクするような興奮を味わう。目の前の獲物に喰らい付きたい。衝動のままに子供の肉を喰らおうと、邪魔な衣服を引き剥がすために襟首へ手を伸ばそうとした。



「ごめんなさい……」



 突然、謝られてしまった。思わず、手が止まる。何を言っているのかわけがわからず首を傾げたまま、目の前の小さな頭を見下ろす。



「勝手に森の中に入ってごめんなさい」



 そうして、続けられた言葉になるほどね、と納得する。



(別にきみが森に入ってきたことに対して、怒って追い回していたわけではないけど……)



 たまたま、美味しそうな獲物が現れたから捕まえた。それだけである。

 この国の広大な土地のほとんどは森が占めている。昔から人間は森と接して暮らしていたのだ。いまさら人が森に入ってきたからといって拒否したり、大騒ぎするようなことではない。現に、今でも春の明るい時間帯では森の入り口付近で、薪や野苺などの暮らしの糧を得るためにたまに人間達が来るし、秋の天気の良い日には遠くから貴族が訪れて狩りを楽しんだりもしている。この国の多くの人間は昔から森の恩恵を受けて生きていた。

 しかし、森の奥深く。昼の光が届かないほどの領域は己のような獣の領域であった。

 そこへ足を踏み入れてしまった者の多くが森の中で命を落としていた。犯罪者や捨て子、老人、不作のために生活ができなくなり逃げてきた貧農など社会の弱者やはみ出し者、流浪者などの多くの人間がこの森の奥へ流れ込んできては、飢えた獣の餌食となっていった。

 そして、目の前の子供もまた、その一人だ。



「狼さん、僕のことは食べてもいいです。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」



 一瞬、何を言われたのかわからなかった。今まで命乞いをされたことはあったが、自分のことを食べても良いと言われたのは初めてだった。この子は一体、なんなんだ。何を考えているのか。追い詰められた獲物の思考は訳がわからない。



「……ただ、ひとつお願いがあります。僕を食べる前に、そのラットを埋葬させてください」



 握り締められていた小さな手がなにかを指差す。そこには、少年の手の届かないところでゴロリと転がっている小さなネズミがいた。血を抜かれ、首元を縫われ、薬品の臭いをプンプン纏わせている歪な死骸。喰い殺される前に、ソレを土に埋めたいのだと言う。



「……いいよ」



 面白い。

 今すぐ、食べようと思っていたが、気が変わった。彼を食べるのはいつでもできる。なら、もう少しだけこの子に付き合ってみるのも面白いかもしれない。少年の背中から足を退ける。



「ただし、見逃した訳じゃないよ。もしも約束を破って逃げようとしたら、その場で生きたまま食い殺す」

「……わかりました」



 そして、念の為に脅すと、彼はやや青褪めた顔で返事をした。少年はやや震える手で落ちていた箱を回収し、その中へネズミを入れた。死んだネズミの為に花を摘みたいと言われたので、花が咲いている場所へ案内する。



「私の名前はジョゼフ・デソルニエーズと言う。きみの名前は?」

「……イソップ。イソップ・カールです」



 暇つぶしがてら自己紹介も兼ねて名前を問うと彼は素直に答えてくれた。



「ところで、さっきのネズミはきみのペット?」

「いいえ……この子は僕のクラスで飼育していたラットです」



 続けた質問に、イソップが辛そうに瞳を伏せる。



「頭と身体が分かれてるね」

「……」

「きみがやったの?」

「……いいえ」

「誰が頭を繋げたの?」

「……それは、僕です」




 イソップの答えに「やっぱりな」と心の中で納得する。やはり、この子は普通ではない。死んでしまった動物を埋葬するために死骸から血を抜いて、切られた身体を縫い合わせる子供なんて聞いたことがない。




「首の縫い目がきれいだった。イソップ君は裁縫が上手なんだね」

「…………」

「薬の臭いもするね。もしかして防腐処理もきみがしたの?」

「……はい」

「へぇ、まだ小さいのにすごいね」

「…………」



 まるで小さな葬儀屋みたいだと素直に感心した。もしかすると、彼の家は葬儀屋なのかもしれない。普通の子供は切断された動物の死骸にエンバーミングなんてしない。首と胴体を切られたネズミに血抜き処理を施し、首を縫い合わせて繋げ、人喰い狼の棲む森へ子供ひとりでやって来た。手荷物も納棺したネズミと小さなスコップだけだ。この子は歪んでいる。幼くひたむきで純粋な狂気。なんて危うい子供だろう。

 特別な才能を秘めたこの子の内には、まだ見ぬ無垢な歪みが潜んでいる。

 これは面白い。

 チラリと背後の少年を振り返ると、相手はこちらを見ることもなく、下を向いたままネズミの入っている箱とスコップを抱えて黙々と後ろを付いて来ていた。



「…………」



 話題も特にないので、こちらも無理に話し掛けずに黙って歩くにした。

 やがて、徐々に周囲に陽の光が差し込み始め、目の前に花畑が見えてきた。



「さ、着いたよ」



 背後のイソップに声を掛けると、彼はこちらに向かってペコリと頭を下げてから花を摘みとり始めた。一本ずつ花を摘み、ハンカチごとネズミを箱から出して、空っぽにした箱の中へ摘み取った花を容れていく。淡々と花を摘むイソップを眺めながら、なぜ彼がこの森へやってきたのか、ふと疑問が浮かんできた。



「ねぇ、イソップ君。きみは町の大人達からこの森に入るなって言われなかったの?」

「……言われました」

「なら、きみは大人の言うことを無視した悪い子ということになるね。母親の言い付けを無視した娘が狼に食い殺されるように、きみが此処で私に食い殺されるのも当然の運命というわけだ」

「…………」

「どうして、この森に一人で来たの?」

「……この子に、安らかな眠りを与えられる場所を探していたんです」



 イソップが自分の隣に置いたネズミへ視線を落とす。



「そして、此処しかないと。この森なら、誰も来ないだろうと思って……」



 そうして森の奥までやってきて私と遭遇してしまった、という訳か。
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