その他

□グラブル
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さっそく最上階にある自室に戻ってバルコニーに出る。バルコニーの縁に立って下を見下ろすと、遠い地面に気持ちが怯んで、飛び降りることに躊躇する。けれど、翼ある者はみんな高い所を飛んでいる。天司も堕天司も空を飛ぶ。全ての天司には役割があるし、空も飛べる。誕生してほんの数カ月しか経っていない身とはいえ、自分だって曲りなりにも天司とだ。ルシフェルさま自らの手で造られたのだ。この身体には天司としての力は備わっている筈だ。飛び立つ前から怖じ気ついては飛べるものも飛べない。そんな気がした。

弱気になった心を奮い立たせるように背中の翼をバッサバッサと強く羽ばたかせる。この身体はひ弱な空の民や魔物とは違い、どんなに傷付いたところで死ぬことはない。失敗しても滅びることはない。かなり痛いだけだ。大丈夫。大丈夫だ。

覚悟を決めて、そのままトンッと縁を蹴って空中に身を投げ出す。ほんの数秒間、宙に身体が浮いた。しかし、すぐに身体が落下し、硬い地面へと叩き付けられる。

酷い衝撃を受けて頭が割れた。ドロドロと溶岩のように熱く、真っ赤な血が流れていくのがわかった。全身の骨が砕けるような衝撃がして、指一本も動かすこともできない酷い痛みが身を苛む。視界が闇に覆われて何も見えない。身体がバラバラに砕けそうな激しい痛みにただ呻くことしかできない。想像以上の痛みと苦しみだった。己の覚悟の甘さを痛感した。どこもかしこも痛くて、苦しくて、何も考えられない。息をするのも苦しい。このまま、此処で誰にも知られることなく痛みに悶えながら永い永い眠りに付いてしまうのか。何の成果も得られずに、何も残せずに、あの御方の役に立てないまま……。

ならば、最後にせめて、ひと目だけでも彼の姿を見たかった。



「る、し……ふぇ…………」

「サンダルフォン!」



遠くから自分を呼ぶ声がした。翼が羽ばたく音がして、誰かがすぐ傍に降り立ち、うつ伏せになって倒れている自分を膝に抱え上げた。醜くひしゃげた頭を撫でるように手が触れて、温かな光が全身を覆う。激しい痛みが徐々に薄れていき、体中の傷が少しずつ癒えていく。怪我が治り、潰れかけていた瞳をゆっくりと開くと、表情をしたルシフェルさまの顔があった。まるで、怒っているような、硬く強張った厳しい顔をしている。



「るしふぇる……さま……」



あぁ、怒らせてしまった。自分勝手に無茶をして、怪我をして、彼の手を煩わせてしまった。そして、今も身体が密着しているせいで、彼の黒い服に自分の流した血が付着してしまっている。服を汚してしまった。



「もうし、わけありません……」

「サンダルフォン。君に一体なにがあったのか教えてほしい」



謝罪の言葉は流された。硬い声音で尋ねられて、返事に詰まる。とても言えない。こんなみっともないことで、貴方の手を煩わせてしまっただなんて。



「サンダルフォン」



詰め寄るように名前を呼ばれて、首を振る。いやだ。言いたくない。あなたを失望させたくない。いやだ、いやだと首を振っていると、両の頬を包み込むように優しく掴まれて顔を上げさせられた。水面のように静かで穏やかな瞳がこちらを見下ろしている。目の奥から熱いものが込み上げて、視界が滲む。あぁ、ルシフェルさま……。



「サンダルフォン。何があったのか、教えてくれるね?」



気が付くと泣きながら、空を飛ぼうとして失敗したことをとつとつと告白していた。



「ヒック……。ごめいわく、おかけして……本当にもうしわけ……ありませんでした……。るしふぇるさま……」



全ての事情を把握したルシフェルさまは「とりあえず、湯浴みをしよう」と血濡れの体を抱え上げて城の中へ歩き出した。彼の手で服を脱がされ、血と泥を綺麗に洗い流した。そして、新しい服を着せられ、部屋へと連れて行かれる。その間、何も話すことができなかった。彼を失望させてしまったのではないか。自分に呆れてしまったのではないか。そんなことばかり考えていた。

ルシフェルさまに抱きかかえられながら部屋に戻り、ベットに寝かされる。ルシフェルさまも共に横になって、此方の体をギュッと抱き締められる。強い力に抱き締められながら、耳元に彼の吐息を感じる。



「君が倒れているのを見たとき、心臓が凍り付くような恐怖を味わった。君を失うことがなくて、本当に良かった……」



とても小さな声で囁かれた。その声の弱々しさに胸がキュッと締め付けられるような苦しさを感じる。



「ほんとうに、すみませんでした……」



恐る恐る彼の背中に腕を回すと、さらに此方を抱き締める力が増した。



「サンダルフォン」



名前を呼ばれる。



「私の、サンダルフォン……」



どうして、そんな苦しそうな声で呼ぶのだろう。



「私は君が飛べなくてもいいと思っている」

「え?」

「しかし、君がどうしても飛びたいというのなら、焦らず、ゆっくり練習をしよう」

「……ルシフェルさま?」

「私も手伝うよ。だから、もう二度とこのような無茶な真似はしないでほしい」

「……はい」



おとなしく頷くと、いい子だというように優しく後頭部を撫でられる。彼の胸に抱き締められ、優しく髪を撫でられていると心が安心するような、何もかもが満ち足りたような温かい気持ちになる。徐々に思考がぼんやりとして、意識が薄れていく。目を閉じて彼の温もりを感じながら、いつの間にか穏やかな眠りについていた。







◇◇◇




目が覚めるとそこにルシフェルさまの姿はなく、広いベッドには自分しかいなかった。どうやら彼はおれを寝かしつけたあとはいつも通り自分の部屋に帰ったらしい。

昨日は己の無謀な試みのせいでルシフェルさまに多大な迷惑をおかけしてしまった。思い出しただけで羞恥と罪悪感に苛まれて今すぐ滅びたくなった。



『私は君が飛べなくてもいいと思っている』

『君がどうしても飛びたいというのなら、焦らず、ゆっくり練習をしよう』



ルシフェルさまはそう仰った。

しかし、このままでは正真正銘あの方のお荷物となってしまう。認めたくはなかった。ルシフェルさまに天司としてられた身でありながら、なにもできない、何の役にも立てない存在になどなりたくはなかった。無能のままいい筈がない。そんなことが許されるわけがない。あの方に天司として造られたのだから。飛べなくてもいい。何もしなくてもいいと言ってくれた彼の残酷な優しさに甘んじるわけにいかないのだ。そうでないと、己が何の為に造られたのか、存在意義がなくなってしまう。

ルシフェルさまによって、ルシフェルさまの為に造られた。

でも

このままでは

いつまでも役に立たないままでいたら


いつかは

捨てられてしまう。



『サンダルフォンはなんの役にも立たん』



ふと、頭の中でルシフェルさまと同じ冷たい声が蘇る。



『あの不用品は適当な時期に廃棄する』



彼と同じ声でおれの存在を否定する。

わかっている。ルシフェルさまはそんなことを言わない。しかし、何故だろう。おれは知っている。そんな記憶はない筈なのに……。その凍てつくような眼差しを、切り捨てられる恐怖を、俺は知っている。

存在しない筈の記憶が泡のように蘇ってくる。これは俺の、記憶なのだろうか。どうして。俺は誕生してから一年も経っていない未熟な天司だ。これは、どういうことなのか。脳裏に勝手に想起する記憶に頭が追いつかない。鼓動が早鐘を打っている。胸が苦しい。そうだ。あの言葉は、ルシフェル様が言ったものではない。あの方へ直接言われたものだった。


そして、俺がなんの役にも立たない存在であると突きつけられた彼は、何と答えたのだろう……。



「サンダルフォン」



扉の開く音とともに深みのある独特の香りがほんのりと漂ってきた。

身体を起こして入り口を見ると、とそこに銀のトレイにコーヒーカップを乗せたルシフェル様がいらっしゃった。



「ルシフェル様……」

「……君は、思い出したのだな」




ぽつりと彼が言った。まるで、何かを確信するように言われた言葉の意味がわからない。とても静かな眼差しで此方を見つめる彼が、何を言っているのかわからない。思い出すって何を? 記憶を持たない筈の自分が、何を思い出すというのか。

持っていたトレイをテーブルの上に置くと、ゆっくりとした足取りでベッドへと近づく。



「かつての私は、君が何者にも汚されることのないようにと、祝福を与えた。……たとえ、どんなに大きな力を持った存在が君のコアに干渉してきたとしてもすべてが元に戻るようにと。どんなに時間を掛かろうと元通りの君に復元するようにしておいたのだ」


そっと頬を撫でられる。どうしてだろう。身体が動かない。彼から目を離せない。



「昨日、君の肉体を再生した際に、コアの修復機能を大幅に促進してしまったのだろう。大丈夫。恐れることは何もない」



指先でソッと瞼を閉ざされる。

次の瞬間、頭の中で何かが真っ白に弾けて、記憶や思考が光の彼方へと飛び散って消滅する。

一瞬前の自分が何を考えていたのかもわからない。



「サンダルフォン」



名前を呼ばれて瞳を開くとそこには穏やかな微笑を浮かべたルシフェルさまがいらっしゃった。どうして此処に彼が居るのだろう。ふと、疑問に思ったけれど、彼が自分の部屋を訪れてくれていることが嬉しくて、すぐにどうでも良くなった。



「ルシフェルさま! いらしてたんですね」

「あぁ、ちょうど君に珈琲を淹れてきたところだよ」

「ありがとうございます」



テーブルの上のカップを手渡され、受け取る。珈琲の香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。



「ところで、サンダルフォン。体調はどうだい? どこかから不調があれば知らせてほしい」

「え、体調ですか? いえ、特にどこも悪くはないですよ」

「そうか。……なら、いいんだ」




白く長い指が伸ばされ、優しく髪を撫でる。



「君が何の憂いもなく、健やかに過ごせているのなら……それでいい」

「ルシフェルさま……」



なんて慈悲深い御方なのだろう。堕ちても尚、この御方は、何千、何万、何億という命を、果てしなく広い空の世界を見守り続けた天司長なのだと改めて理解する。

この御方の優しさに報いたい。少しでも役に力になりたい。今はまだ未熟な天司でしかないけれど、いつまでも無能なお荷物でいるつもりはありません。必ず貴方のお役に立ってみせます。そのための力を、必ず手に入れます。

ひたと此方を見つめる蒼い瞳を見上げながら、心の中で彼に向けてひっそりと誓いを立てた。
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