その他
□グラブル
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「サンダルフォン」
誰かに名前を呼ばれた。その名前が自分の名前であると誰に言われるまでもなく理解していた。優しい声音に導かれるように徐々に意識が鮮明になっていく。ゆっくりと重たい瞼を持ち上げると、とても美しい人が自分を見下ろしている顔が見えた。
涼しげで艶のある銀糸の髪。新雪に光がこもったような透き通るように白い肌。頭に生えた二本の赤い角。
「おはよう。サンダルフォン」
穏やかな空のような透き通った眼差しが、裸でベッドに横たわる自分を見下ろしている。此処は、何処だろうか。自分が眠っている大きなベッド。厚手のカーテンに閉ざされた大きな窓。そして、丸い机と二脚の椅子。寝台、机、椅子。それ以外の不要な家具が一切置かれていないとてもシンプルな寝室のように見える。
「さっそくだが、自分が何者であるか解るかい?」
問われて、部屋を見回していた視線を彼に戻す。
「おれ、は……」
自分の両手を見る。小さな手をしていた。子供の手だ。
己が何者であるか。問い掛けられて、考えるまでもなく、自分は理解していた。
「おれは、あなたに造られた天司、サンダルフォン……です」
「そのとおりだ。君は私が造った。私の名前はわかるかい?」
淡々とした声音で質問をする目の前の人物について、記憶は一切ない。けれど、知識としてならば頭の中に入っていた。記憶はないけれど、知っている。目の前の御方は空の世界の進化を司る元天司長であり、今は幽世に堕ちた堕天司だ。頭にある赤い角は堕天の証である。
そして、自分を造った創造主。その名前は……。
「ルシフェル」
声に出して呼ぶと、心の内側から言いようのない感情がジワジワと込み上げてきた。自分は目の前の御方のために生まれてきたのだと誰に言われるまでもなく悟った。
「ルシ、フェル……」
もう一度、名前を呟く。喉の奥が焼けるように苦しくなった。この御方のために何かしたい。役に立ちたい。ギュッと胸が締め付けられるように苦しくなる。どうして、突然このような情動が湧き上がってきたのかと疑問に思うことはなかった。天司だとか堕天司だとかそんなことも些事でしかない。今の自分にとって目の前の彼以上に大切なものは存在しない。
「ルシフェル、さま……」
身の内から湧き上がる焦がれるような衝動に突き動かされて、横になっていた身体を起こして、彼を見上げる。どうしても、いま、この胸の中で波のように溢れてくる想いを伝えたい。
「ルシフェルさま。あなたは、おれにとって、かけがえのない御方です。おれは、あなたのために生まれてきました」
視界がぼやけて目の前の御方がどんな顔をしているのかよく見えなかった。
「……そうか。ありがとう、サンダルフォン。私にとっても、君はかけがえのない大切な存在だ」
目元に込み上げていた涙を、優しく指ですくわれる。
「また、君の笑顔が見られて嬉しいよ」
背中に腕を回されて、彼の大きな胸の中に抱き締められる。また、とはどういう意味なのか。この御方が、一体なにを言っているのかわからなかった。しかし、抱き締める腕の強さと、微かに震える声に、敢えて何も聞かずにされるがまま、目を閉じて、ただ彼の抱擁を甘受した。
◇◇◇
ルシフェル様が元素を弄って用意した服を渡された。黒地に金色の模様が施されたノースリーブのパーカーに、ヒラヒラとした腰巻きと黒の半ズボンに黒タイツ。そして、踵の高いショートブーツ。全てを身に付けると「よく似合うよ」とお褒めて頂いた。よかった。
服を身に付けると再び寝台へと寝かされる。
「今の君は天司として羽化したてなので身体が馴染むまでベッドから出てはいけないよ」
そう言い付けられたけれど、さきほど目覚める以前のことは何も思い出せない。羽化したという記憶も何もない。しかし、不思議と不安はない。これは、どういうことだろうか……。一瞬、心の中で何かが引っ掛かって、胸の内でふわりと疑問が湧き上がってきたけれど、すぐにどうでもよくなって考えるのをやめた。思考を放棄し、シーツに包まって目を瞑る。ソッと髪に何かが触れる感触がした。ルシフェルさまだ。彼の指先が髪に触れて、ゆっくりと撫でる。
「おやすみ。サンダルフォン」
優しい声が頭の奥へ染み入り、意識が微睡みの中へ溶けるように消えていった。
それからずっと部屋から一歩も出ることなく部屋の中で大人しく過ごしていた。二、三日もすると難なく両手両足を動かすことができるようになり、部屋の中を自由に歩き回れるようになった。しかし、翼だけはまだ上手く動かすことはできなかった。
ようやく足に馴染んで来た踵の高い靴を履き、外の様子を見ようとカーテンに閉ざされた窓に近付き、カーテンを開く。窓硝子越しに見た空は一面雲に覆われた焼けるように真っ赤な空。下を見下ろすと綺麗に敷き詰められた石畳と、その向こうに高い城壁に囲まれた緑豊かな広い前庭が広がっていた。前庭のある方向と反対側に視線をずらすと跳ね橋と大きな城門があり、城門の向こうにはさらに深い森が広がっている。
その森の遥か遠く、地平線の向こうに何か縦長の影が見えた。まるで、天から垂らされたような細長い影。目を凝らしてよく見るとそれは塔だった。雲間からびる長い塔。その形状を把握すると同時に、頭の中でソレに関する情報が引き出され、瞬時に理解する。
アレは、星の民が天司を封印するために造った封印施設。
「パンデモ、ニウム……」
気が付くと無意識の内にその名前を呟いていた。
(知っている……。俺は、アレを知っている)
知識として、情報としてだけではない。俺はアレを見たことがある。あの情景を知っている。現実のものとして、知っていた。不思議な既視感がする。どうしてだろうか。アレを見ていると、己の中で何かが欠けているような、何か大切なことを忘れているような気がしてならない。
あぁ、そうだ。
「俺は、アソコに…………うッ!?」
ふと、何かを思い出しかけた瞬間、酷い痛みが頭の中を駆け巡る。あまりの痛みに、頭を押さえながら膝から崩れ落ちてしまう。
「サンダルフォン」
名前を呼ばれて振り返ると、そこにいつの間にかルシフェル様がいた。何の気配も物音もさせることなく、顕現されていた。
「る、し……ふぇ……さ、ま……」
彼が自分に会いに来てくれた。嬉しい。しかし、頭の痛みが酷くて挨拶もろくに出来ない。
「サンダルフォン……。体調が優れないのならば、少し眠るといい」
頭に手を伸ばされ、撫でられる。彼に触れられた途端に、激しい頭痛が嘘のように引いていく。そして痛みが薄れていくにつれて、思考が緩やかな微睡みに覆われていく。もう、何も考えられない。眠い。全身から力が抜けて、膝をついていた身体が支えられず、前のめりに倒れそうになったところを抱きとめられる。
「るし、フェル……さま……」
せっかく、こうしていらしてくださったのに眠りたくない。もっと、貴方と共に過ごしたい。今にも閉じそうな瞼を必死に開いて首を振る。
「大丈夫だ、サンダルフォン。私は此処にいる。安心して眠るといい」
そっと瞼に手を翳され、ゆっくりと閉ざされ、視界が闇に覆われる。
「おやすみ、サンダルフォン。再び君が目覚めたときには、痛みも苦しみもきれいに消え失せて、すべてが元通りとなっているだろう」
優しい声で何かを告げられた。しかし、抗えない微睡みに意識を落とし、思考することもできなくなった自分には彼がなんと言ったのかを認識することはできなかった。
◇◇◇
目覚めると、ベッド脇の椅子にルシフェルさまが腰掛けて本を読んでいた。
「おはよう、サンダルフォン。体調はどうだろうか」
「おはようございます。ルシフェルさま」
体調は頗る調子がいい。しかし、どうして彼が此処に居るのだろうか。
不思議に思って首を傾げていると、テーブルの上に二つのカップと小さな籠にギッシリと詰められたお菓子の山が目に入った。
「サンダルフォン、これは君と食べようと思って持ってきた物だ。良かったら、一緒にどうだい?」
「はい! 是非、ご一緒させていただきます」
慌てて、ベッドから降りて彼の向かいの席に腰掛ける。
ふと、部屋の窓が視界に入った。
(……カーテンが、開いている)
カーテンを開けた覚えはない。
窓から少し離れた位置にある此処からでも、窓の外の景色がよく見える。雲に覆われた空。深い森。遥か遠くの地平線の彼方にぼんやりと見える縦長の影。
(いや、そんなことはどうでもいい)
それよりも、今は目の前にいるルシフェルさまだ。
微笑む彼から差し出されたどす黒い液体の入ったカップを受け取り、お礼を言う。
おれにとって、この世で一番たいせつなことはルシフェルさまであり、それ以外のものは全てが些事でしかなかった。
◇◇◇
部屋の外に出る許可を与えられていないおれの為にルシフェルさまは毎日、部屋に訪れては沢山の本や、彼が好きだという苦い珈琲や付け合せの甘いお菓子など色々なものを持ってきてくださった。彼が持ってくる本はたいていが空の世界に関するもので、歴史や芸術、そこに生きる魔物や動植物などその内容も生物学的な物から文化まで様々だった。ルシフェルさまは、かつて天司長として空の世界の進化を何千年も見守り続けていた。故に、空の世界に何らかの思い入れがあるのだろうと察せられた。
そして、部屋の中で丸テーブルに向かい合わせに座って、あの御方が淹れてくださった珈琲を飲みながら、彼が貸してくれた本の感想を互いに語り合った。
初めてあの御方が珈琲を淹れてくださったとき、その泥水のような見た目に驚いた。それを口に含んだとき舌を刺激する酸味と苦味に非常に苦しんだ。しかし、ルシフェルさまが手ずから淹れてくださった珈琲を吐き出したり、苦くて不味くて飲めない等と伝えることもできなかった。必死に何とか飲み下し、微笑みながらこちらの感想を待っているルシフェルさまに「美味しいです」と伝えるととても嬉しそうに笑ってくれた。柔らかくも嬉しそうな笑みを見て、何がなんでも珈琲を克服しなければと決意をしたのだった。それから、毎日付け合せのデザートの甘さで何とか舌を誤魔化しつつ、彼と珈琲を飲みながら読書感想会を行う穏やかな日々を過ごした。
本で得た木や花や空の世界の知識を、実際はどうであるのかを確かめるために、ルシフェルさまに直接を聞くのをいつも楽しみにしていた。
「どうして、おれにはルシフェルさまのようにりっぱな角が生えていないのでしょうか?」
珈琲の苦味に慣れ、その薫りを楽しめるようになった頃。ある日、いつものように珈琲を飲みながらふと、以前から常々抱いていた疑問を投げかけてみた。
「おれにもいつかルシフェルさまのような角が生えてきますか?」
おれは天司である。しかし、堕天していないため、ルシフェルさまのような角は生えていない。天司として誕生したけれど、いま自分がいる場所は空の世界ではない。窓の外の景色を見る限り、此処は雲に閉ざされた仄暗い赤い世界。空の底にあるとされている幽世の者たちの世界だ。
ルシフェルさまは自分を部屋から出したがらない。いつも、退室する際に「くれぐれもこの部屋からでないように」と言い付けていた。それは、天司なのに未だ空を飛べず、元素も操ることができない未熟者だからか。
「おれもあなたと同じになりたい……」
未熟な自分がルシフェルさまと同じになりたいだなんて、おこがましいにも程がある。
自分も彼と同じように堕天し幽世の世界に生きるようになれば、いつまでもこの方のお傍にいられるかもしれない。
どんな時でも、いつ如何なる場合でも、このルシフェルさまのお傍にいて少しでも彼の力となりたい。
「……サンダルフォン、君が堕天する必要はないよ。君は今のままでいい」
「ルシフェルさま……。おれは貴方のために生まれてきました。貴方のお役に立ちたいです。今のおれは天司としてもまだ未熟で何の役にも立てませんが、きっと……」
「サンダルフォン、君は何もしなくてもいい」
声も物言いもとても柔らかいけれど、その顔からは先程まで浮かべてきた笑みがすっかり消え失せていた。無表情だけれど、微かに眉間にしわが寄せられているのを見て、自分が何か過ちを犯してしまったような気がした。
いまだ翼をろくに動かせず飛ぶこともままならない未熟な存在でありながら、分不相応なとんでもないことを言ってしまった。恥ずかしさと申し訳無さに居たたまれなくなってまともに相手の顔が見れない。下を向いて後悔し、唇を噛みしめることしかできない。自分の軽率な発言が、何よりも尊いこの御方の心を不快にさせてしまった。けして、彼に歯向かったり、逆らったりするつもりは毛頭なかった。ただ、敬愛する貴方と同じようになれたなら……と、自分如きが不相応にも願ってしまった。貴方と同じ堕天司となって、ずっとお傍でお仕えできたら、と……。
しかし、この御方はそれを望んでいない。
今の自分にできることは「すみません」と謝ることだけだった。
それから、ルシフェルさまはあれこれと話し掛けてくださったけれど、正直、何を言っていたのか覚えていない。ルシフェルさまのために何かしたい。しかし、彼は自分を求めてはいないのだ。その事実にショックを受けて、普段のように心穏やかに彼の話しに耳を傾けることができなかった。
自分はルシフェルさまに造られた天司だ。彼に造られたからにはそこに理由がある。今の自分が天司として造られたからには何か果たすべき役割がある筈だ。己は何のために造られたのか。
ほとんどこころ此処に在らずといった状態で話しかけられる言葉は右から左へとすべて素通りし、頭の中では彼に不要とされてしまった己の存在意義についての問い掛けがひたすら繰り返されていた。