その他

□文スト
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 物心付いた頃には、親の顔も知らず、幼い妹と二人で汚臭が漂う薄汚い街にいた。頼れる大人も居らず、暖かい太陽の光が届かないような暗い路地裏で、突き刺さるような冷え冷えとした空気に身を寄せあって震えていた。

 貧民街では人がよく死んだ。飢餓で死ぬ人間。病に冒されて死ぬ人間。食糧や金子を奪われて殺される者や、陵辱の果てに殺される者。産まれてすぐに捨てられる者。誰にも省みられずに道端に転がる物言わぬ屍のように成り果てるのがただ恐ろしかった。自分にはとくに生きる理由などはなかったけれど死にたくはなかった。飢えに苦しんだり、凍えたりもしたくなかった。妹と二人でその日その日を生きるために何でもした。野良犬のようにフラフラと何か食べられそうなものを探し回り、店から出る廃棄物を漁った。喉の渇きを癒やすために泥水を啜り、夜になると閉店後の店舗の軒下や打ち捨てられた物置の中で、二人で身を寄せ合い、息を潜めて眠った。

 飢餓と寒冷に苦しみながらも、何とかその日一日を乗り越える綱渡りのような暮らしの中で、ある日、自分の中に潜んでいた特異な力が開花した。

 路地裏の暗がりの中でいつものように妹と二人で食べるものを探して塵箱を漁っていると、背後からいきなり肩を掴まれて突き飛ばされた。突然の襲撃に受け身も取れずに地べたに躯を打ち付け、転がりぶつけた際に膝小僧や腕を擦りむいた。あまりに唐突な出来事に、いったい何が起きたのか理解できなかった。腰や臀部をぶつけた鈍痛と、ヒリヒリと痛む擦り傷に耐えながら、何とか躯を起こす。相手を見上げるとそこには顔も知らない背の高い少年が此方を見下ろしていた。その目にはあからさまな敵意が宿っている。少年の背後にはさらに仲間との子供達が5、6人いてまわりを囲んでいる。



「此処はおれたちの縄張りだ」



 宣言されると同時に、馬乗りでのし掛かられ、顔を拳で滅多打ちにされた。鼻が潰されるような衝撃を食らって目の奥がチカチカと点灯する。のし掛かる躯を突き飛ばそうとすると、別の少年達が腕を押さえ込んできたので殆ど抵抗することもできなかった。妹が自分を呼ぶ声がした。殴られながら視線を横にずらすと、後ろ手に別の子供に捕らえられている妹が、泣きながら何かを叫んでいる姿が見えた。どうやら幼い妹は暴力や肉欲の対象にはならなかったようだった。少年達の独善的な幼い甘さが、辛うじて彼女を暴力の対象から外させたのか。ほっと胸を撫で下ろす間もなく、「余所見してんじゃねぇよ」と頬を拳で殴られて反対側を向かされる。物を言わぬ人形のようにひたすら殴られた。何度も腹を蹴られ、柔らかい其処を踵で抉るように踏み付けられて胃液を吐いた。鼻からも血が流れてきて止まらなかった。それでも、暴力は止まることなく、どんどん過激さを増すばかりだった。周囲が何やらざわついている。霞む視界の中で「何だよ、此奴。気持ち悪ぃ……」「呻き声ひとつ上げねぇな」と云う声をぼんやりと他人事のように聞いていた。

 全員で散々殴る蹴るをした後で、廃棄物のように道の端に捨て置かれた。全身を苛む痛みで指一本、動かせずに少年達が積み重なった塵袋を漁るのを見ていた。おもむろに彼らの内の一人が泣きじゃくっている妹に声を掛ける。じめじめとした汚い壁に持たれるように倒れている僕を指差して、こんな奴を捨てて自分達と来ないかと誘っている。然し、妹は顔を覆ってポロポロと涙を零しながら首を振り、少年を拒絶する。兄さん、兄さんと自分を呼んで泣いている。泣き崩れる妹の強情さに苛立った少年は、ひとつ舌打ちすると嫌がる妹の腕を掴んで強引に立ち上がらせる。



(やめろ! 僕(やつがれ)の妹を……銀を、連れて行くな!)



 長時間に及ぶ暴行を受けた躯は、指一本動かすこともできず、立ち上がることもできずに、去って行く背中を黙って指を加えて見送ることしか出来ない。胸の奥で何かが詰まったように息が苦しくなって咳込んだ。肺が灼けるように苦しい。今の己はあまりにも無力だった。抗う力を持たない弱い者は、大切なものや生きる未来を容赦なく奪われる。そして、強者が生き残り、弱者が死ぬ。弱肉強食こそがこの世の真理だった。

 鉛のように重く、動かない躯でゴホゴホと咳き込みながら、自分の着ている服が目に入った。薄汚れた服には自分の血が点々と付着していた。鼻血だ。顔を殴られた時に出ていた血だった。気が付かなかった。ぼんやりと赤黒い血を見つめていると、ふと、脳裏に独りきりで惨めに死んでいく自分の姿が過ぎった。光の差さないどん底で、誰にも省みられることなく、糞尿に塗れながら、ひっそりと朽ち果てる。近い将来訪れるであろう己の末路が見えた。



「兄さん!」



 今まさに連れて行かれようとしている妹が、悲鳴のような声を上げて自分を呼んだ。その声を聞いて、身の内側が焦げ付くような衝動がグツグツと湧き上がる。妹が、銀が連れて行かれてしまう。やめろ。連れて行くな。僕のたったひとりの妹を、連れて行くな!

 気が付くと、己の着ている服の裾が生き物のように伸び、妹の手を掴んでいた少年の躯を貫いた。パッと真っ赤な鮮血が宙に舞い、周りにいた少年達や隣にいた妹に血が飛び散った。



「うわぁあああ! 化け物ッ」

「何なんだよッ、お前!」



 人智を超えた特異な力に少年達が恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように走り出す。その逃げ惑う背中を捕らえようと蔦のように衣服が伸びて次々に背後から串刺しにしていくのを、茫然と眺めていた。一人残らず絶命させると、あとには自分と妹と物言わぬ死体だけが残った。

 一体、何が起きたのかわからなかった。

 自分に縋るように駆け寄り、フルフルと肩を震わせてしがみついて泣く妹を抱きしめる。その躯には少年の返り血がべったりと付いていた。血濡れの妹を抱きしめながら、彼女の背後に転がる死体から目が離せなかった。頭の片隅で、間違いなく己がこの惨状を生み出したのだと漠然と悟っていた。






◇◇◇




 自分の中で眠っていた異能力に目覚めてからは、積極的にこの力を駆使するようになった。やがて、当人の与り知らない場所で自分の噂が貧民街の住人達に広まっていき、路頭で生きる子供達の間では一寸(ちょっと)した有名人になっていた。そうして、噂を聞きつけた子供達が噂の真偽を確かめに何人か僕の元に集まってきた。まるで、見世物小屋で芸を披露する芸人のように変幻自在に衣服を動かしてみせると、大抵の子供達は目を丸くして驚いたが、同時に怯えたような目を向けられたりもした。そうやって、親のいない子供達がちらほらと集まってきて、その内の何人かとつるむようになった。やがて、自分と妹を含む八人の仲間と寝食を共にするようになった。似たような境遇の同じ子供同士ということでお互いに助け合うことになったのだ。彼らは各地の塵の収集場所や寝床の移動を通じて、路上に生きる子供たち独自の人脈や情報網を作っていた。そのおかげで、妹と二人で生きていた頃よりも食べ物を見つけやすくなり、安全な寝床を確保するために夜間にフラフラと出歩くこともなくなった。彼らは情報を提供する代わりに、この身に宿るの異端の力を頼りにした。そうして、僕は用心棒かわりに人攫いなどの不埒な大人や少ない金子や食糧を狙う輩を撃退していた。彼らは自分の力を頼りにしてくれていたけれど、同時に畏れてもいた。その上で、僕を信頼し、彼らなりに尊重してくれた。まだ上手く異能を使いこなせず、分が悪く逃げざるを得ない状況に陥ってしまった時などは、此方の手を引いて共に逃げてくれた。手に入れた食糧はみんなで平等に分け合い、眠るときには全員で寄り添って眠った。其処は生まれて初めて手に入れた温かな居場所だった。

 或る時、仲間がマフィアに殺された。

 偶然、闇組織の取引の場所と時間を知ってしまい、口封じのために襲われたのだ。

 仲間が傷つけられれば仇を討つ。其れは、殺された彼らと生前に決めた掟だった。マフィアを相手に生きていられるとは思わなかった。然し、特にこの世に未練も無いので、別に死んでも構わなかった。自分が為すべきことは死んだ彼らの仇を討つこと。彼等を殺された復讐だった。生まれて初めて知った燃えるような感情ーーー喉から迸る程の激しい憎悪ーーーを胸にマフィアの元へ向かった。

 そして、僕は出会った。

 太宰治。

 ポートマフィアの最年少幹部。己に生きる価値を与えてくれた人。

 マフィアである彼に拾われ、弟子として様々な教育を受けた。

 然し、其の人は或る時、何も告げることなく姿を消した。捨てられてしまった。鬼のように厳しく、いつも冷たい横顔しか見たことがなかった。何としても彼の人の役に立ちたかった。けれど、いつもやること成すことが空回りしてしまい、「余計なことをするな」と毎日のように叱られ、折檻を受けた。知恵が足りぬくせに余計なことをするなと頬を引っ叩いた。僕の惰弱さを嘲った。毎日のように「物覚えが悪い」とか「使えない」「役立たず」と罵られ、殴られた。そうして、散々否定され続けた末に何の沙汰もなく捨てられた。

 彼の人は、最後まで僕を認めることはなかった。何も言わずに黙って去ってしまった。彼の人に置いて行かれてしまった。僕の生きる意味となってくれた彼の人がいなくなったことで、自身の存在意義も失ってしまった。これからどうやって生きていけばいいのかわからない。彼の人ーーー太宰に捨てられてしまった自分。一体、なんの為に生きているのかもわからない。自分に生きる価値を教えてくれると言った太宰に見放された今、僕に生きる価値などない。なのに、此の躯は未だに呼吸をし、二本の足は彼の人の居ない世界にしっかりと立っていた。

 彼の人が自分を見出してくれた力ーーー自分の唯一最大の取り柄である漆黒の異能を振るい、ひたすら任務を熟した。自分を捨てた太宰と再び相見える日が来たとき、胸を張れる自分でいたかった。

 黙々と上から下される仕事をこなし、戦果を上げていけばトントン拍子で組織内での自分の地位が上がり、太宰が抜けた損失を埋めるようにあっという間に遊撃隊長を任されるようになった。そうして、いつしか闇社会に自分の名前が広まり、軍警に指名手配をされ、一般にまで恐れられるよう存在へとなった。

 然し、其れでも彼の人ーーー太宰治は僕を認めようとはしなかった。


 太宰さんが消えてから一年が過ぎた頃、任務先で彼の人が現れた。血塗れの邂逅だった。唐突な巡り合わせに頭は付いていかず、彼の人が居なくなってから心の中に溜め込んでいた感情を一気に爆発させた。何故、誰にも何も告げることなく組織を去ったのかと問い詰めた。敵を鏖殺し、その返り血を浴びた姿で激高する僕を、彼の人は心底くだらない物を見る目で見た。



「芥川くん。君は何も変わっていないね」



 呆れたように吐き捨てられた言葉の意味がわからなかった。呆然としたまま、一言も発することができなかった。自分は強くなった筈だ。昔よりもずっと。生き残りたければ強くなれ。何者にも負けてはならない。歯向かう敵を全て淘汰しろ。強くあれ。そう望んだのは貴方だろう。

 絶対的強者として君臨し、自分以外の全てを無慈悲に淘汰する。そうしなければ認めてはもらえなかった。いつまで経っても彼の人がこちらを一顧だにしないのは、己が彼の人よりも劣っているからだ。彼の人に認められなければ、己には何の価値もない。


 敵を屠り、誰よりも強く、何よりも優れ、組織に楯突くものがあればそれらを全てねじ伏せる。

 例え、道を阻む相手がかつての師であろうとも。

 彼の人に認められるためには、敵として立ち塞がる彼の人を倒すしかない。

 それまで、自分は死ぬわけにはいかない。

 彼の人に己の存在を認めさせるまでは。

 たとえ、この身がどんなに虐げられようが、人間としての尊厳を塵屑のように踏み躙られ、辱められようとも、自ら死ぬわけにはいかない。

 かつて、僕の生きる意味を与えると言った男・太宰治。

 彼は自分を見限って、黙って居なくなってしまった。然し、彼の人に捨てられても、それでも今尚、彼の人の存在が己の生きる意味であることに変わりはない。








 そうして、身ぐるみを剥がされ、全裸で地獄のような責苦で甚振られても尚、彼の人への想いが生への執着となり、自決の道を選ぶことなく、敵の前で生き恥をさらしていた。

 敵に捕まり、身包みを剥がれ、囚われの身となった自分には、何処にも縋るものなかった。異能力も使えない。ひたすら頭の中で彼の人の姿を思い浮かべては、何度も何度も背中を打つ鞭に歯を食いしばって耐えることしかできない。

 冷たい混凝土(コンクリート)の床に横たわり、全身を覆う焼けるような痛みに苛まれながら、瞼の裏に思い描いた太宰は、涼し気な顔で自分を見下ろしている。



『弱いままの君は死ぬしかない』



 蔑むようにそう言って、嗤わっていた。
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