その他

□黒子のバスケ
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 ぴったりと密着するような心地良い温もりを感じて、重たい瞼を押し上げた。

 一番はじめに目に入ったのは見知らぬ少年だった。すぐ目と鼻の先で、大きな瞳が無感情にこちらをジッと見つめていた。心臓が飛び出そうになった。眠気なんて一瞬で吹き飛んでいった。条件反射でベッドから飛び起きて、不審な少年から距離を取る。

 相手は自分と同い年くらいの子供だった。色素の薄い髪に、なんの特徴もない顔立ちをしていた。そして、その顔は人形のように無表情だった。ほんのり青みがかかった淡い瞳には何の感情も浮かんでおらず、自分と同じ子供の筈なのに人間味が全く感じられない。



「お前は一体、何だ」



 問い掛けながらも得体の知れない相手がすぐ側にいることに臆して、知らず知らず一歩後退る。埃っぽくカビ臭い空気。手狭で薄暗い部屋の中は、どうやら寝室らしい。質内には少年が腰掛けているベッドと埃の積もったタンスしか物がなかった。壁には埃の積もった木製の雨戸が付いており、ほんの少し開いた。隙間から夜の冷たい空気が入ってきて、寝起きの体を締め付けた。



「此処は、何処だ?」

「此処は森番が使っていた小屋です。僕は黒子テツヤという者です。君が倒れているところを見つけて保護しました」

「……黒子、テツヤ」

「はい。君の名前も聞いても良いですか?」

「僕は赤司……」



 自分の名前を名乗りかけて、気が付く。父と母から名付けてもらった僕の名前。それを今の自分が名乗る資格があるのだろうか。父を止めることもできずに、父を苦しめ、母を裏切ってしまった。両親の愛を汚した自分が、二人が愛を込めて名付けてくれた名前を名乗ることは許される筈がない。



「……赤司と言う」



 フルネームを言おうとし、途中でやめたせいで不自然な間が開いてしまったけれど、強引に言い切った。黒子テツヤは少し首を傾げる素振りを見せたけれど、相手が何か言ってくる前に此方から先に切り出すことにする。



「それでだ、テツヤ。お前は夜遅くに、ひとりで、森の中に入り、僕を見つけた。……そういうことか?」

「はい」

「では、聞いていいか。お前は、日が暮れて、こんな森の奥に一人で何をしていたんだ?」



 無感情な瞳が僕を見る。

 普通の人間は夜の森には入らない。木こりを生業にしていた父も、日が沈む前に森を出て、暗くなってからは絶対に森には入らなかった。

 そして、父は言っていた。



『森には人狼がいる』

『あいつらは人間の子供の肉が好物だ』

『だから、征十郎。お前は家から出てはならない』



 父はいつも僕にそう言い聞かせていた。この森で見た、茂みの向こうから覗く光る目を思い出して背筋が震える。



 ―――――この目の前の少年は、おそらく



「テツヤ。お前は、この森に棲んでいるという人狼なのだろう」


 
 はっきりと相手の正体を言い切った。少年の大きな瞳が僅かに見開かれている。はっきりと表情にあらわれていないけれど、正体を言い当てられて動揺しているように思えた。



「お前は僕を食べたいか?」

「え……?」



 続けて問いかけると、硝子のように無機質な瞳の奥、薄青色の瞳孔がほんの一瞬、細まってキラリと妖しく光った。見間違いなのかと思ったけれど、いま視たモノが、相手が内に秘めている獣性なのだと、誰に言われるまでもなく理解してしまった。密室で狼と対峙している今の自分は、獣の前に置かれた生き餌も同然である。今まさに食い殺されるかもしれない恐怖に体が震えた。

 怖い。

 しかし、今の自分には生きている理由がない。

 今までは孤独で哀れな父と二人きりで身を寄せ合って生きてきた。父は僕を憎んでいたけれど、父が僕に向ける感情の中には憎悪だけではなく、歪ではあるが確かに情のようなものが含まれていた。それは、一般的に親が子供に向ける愛情とは異なるものではあるけれど、父は父なりに、苦悩しながら葛藤し、一生懸命に僕を育て上げてくれたのだ。その父に捨てられてしまった。生きる意味などもう無い。それに、ひとりで生きる術を持たない僕は、この森の中でひっそりと朽ち果てる以外の道はない。

 ならば、今、狼に食われて死んだとしても、それはただ遅いか早いかだけの違いだ。



「僕を食べたければ好きにするがいい」

「は?」

「但し、生きたまま食われるのは御免蒙りたい。僕を食う前にひと思いに殺せ。僕が死んだ後でなら、この体を煮るなり焼くなり好きにしてくれも構わない」



 ベッドに腰掛けている少年は唖然としたように口を開いたまま僕を見た。



「赤司くん。君は、死んでも良いというのですか?」

「あぁ」



 問いかけられて頷くと、少年のアイスブルーの瞳がスっと細められた。



「そうですか」


 テツヤの声は低く堅かった。腰掛けていたベッドから立ち上がって近付いてくる。



「なら、君はその身の全てを僕に捧げるということですね。それでは、貰えるものはありがたく頂戴しましょう」



 目の前まで近付いてきたテツヤの頭には、いつまにか黒い獣の耳が二つ生えていた。狼の耳だ。

 此方をひたと見据える眼差しには、突き刺さるような確かな刺々しさが宿っている。



「今から君は僕の物です」



 無感情に宣言すると、テツヤは僕の左腕を取り、自分の方へと引いた。



「うわっ! な、何を……」



 引っ張られたせいで、やや前屈みに体勢が崩れる。その時、唐突に首筋へと噛み付かれた。黒子テツヤの鋭い牙が首の肉を深く貫いた。焼けるような痛みに頭が真っ白になった。思わず、体が勝手に目の前の狼を突き飛ばして、後ろに下がる。



「お前! いきなり、何をする!?」



 噛まれた首筋を抑えながら、突き飛ばされて尻餅を付いている狼を怒鳴る。

 そこで、ふと違和感に気付く。

 思いっきり噛まれた筈なのに、血が一滴も出ていない。

 それどころか、噛まれた箇所は傷跡にもなっておらず、首筋の皮膚は真っ平らで傷どころか歯型すらついていなかった。



「驚かせてすみません。今のはマーキングです。君は僕の獲物であると印をつけさせてもらいました」

「は?」

「赤司くんは僕にその身の全てを捧げました。なので、僕以外の狼に、君が僕の物だとわかるように印をつけたのです」

「は……。訳がわからない。そんなまどろっこしいことをせずに、今すぐ僕を食べればいいだろう」

「そんな勿体無いことはしませんよ。僕、楽しみは後にとっておくタイプなんですよ」



 ゆっくりと腰を上げる少年は、僕を見つめながら初めて笑みを見せた。



「君をいつ食べるかは僕が決めます。なので、君には常に鮮度を保ってもらう為にも生きていてもらわなければならりません。死にたいだとか、生きていたくないだとか、君の意思は関係ありません。君は自身の生殺与奪の権を僕に委ねたのですから。赤司くんは僕の為に生きて、僕の為に死んでもらいます」



 テツヤが満足そうに口許を緩めながら、淡々とした声音で確定した事実を告げた。




◇◇◇




「今日から此処が君の家です」



 そう言って、人狼の少年との二人きりの生活が始まった。

 特に行くあてもなく、生きる理由もない身としては、いつ狼に食われようがどうでもよかったので、狼の提案に異存はなかった。狼が僕を食べたければいつでも食べればいいし、先延ばしするのなら好きにすればいい。……ただし、食い殺されるのならば、生きながら食われるよりも、ひと思いに殺してから食べてほしいというのが個人的な望みではあった。じわじわと生きたまま捕食され、苦しみ悶えながら絶命するというのは流石に惨すぎる。いつ死んでもいいとは言っても、 死ぬときの苦痛はできれば最小限に抑えておきたいし、凄惨な最期というのはやはり忌避したかった。一応、狼にはこちらの希望は既に伝えてはいるけれど、諾否の返答はまだされていない。僕がどのような最期を迎えるかは彼の一存で決まる。

 おそらく、僕が最期の時を迎えるまで住むことになるであろう新しい家―――かつて森番が使っていたという小屋―――は長い間つかわれた形跡がなく、部屋の隅や戸棚、雨戸、テーブルなどには埃が積もっていた。


 雨戸の僅かな隙間から夜の冷たい空気が入り込んでいて部屋の中はとても寒い。汚い部屋の中で、もう一度ねむる気にはなれなかった。住居として暮らすにも少々問題があるので、頭も冴えて眠れないことだし、とりあえず掃除をすることにした。リビングと寝室の二部屋だけの小さな小屋なので、そんなに時間がかかることはない筈だ。

 物置きから掃除道具を見つけ、手始めに寝室から掃除を始めることにした。狼に箒と塵取りを渡して、バケツで雑巾を絞る。どこから汚れを拭こうか部屋を見渡していると、汚い部屋の中でベッドだけが何故か汚れていないことに気付いた。藁のマットに敷かれたシーツも白く清潔なものだった。



「テツヤ。どうして、このベッドだけ綺麗なんだ」




 ふと、不思議に思って隣で掃き掃除をしていた狼に聞いてみた。



「あぁ。これは、最近、シーツを新しいものに取り替えたばかりなんです」

「そうか」



 おそらくテツヤは度々このベッドを使っていたのだろうと納得し、雨戸の拭き掃除を始める。せっせと汚れを拭いて落としていると、背後で狼が何かを呟いたのが聞こえた。しかし、声が小さ過ぎて何を言ったのか聞き取れなかった。思わず、条件反射で振り返ると、狼は既に箒を片手に黙々と掃き掃除を始めていた。彼の視線はこちらを向いておらず、黙々と床の塵や埃を箒で履いている。



「…………」



 わざわざ聞き返す程でもないのだろうと判断して、こちらも拭き掃除を始めることにした。





◇◇◇




 人狼・黒子テツヤと暮らし始めて一週間が過ぎた。

 狼との生活は父との暮らしとさほど変わりはなかった。森には獣がいて危ないから家からは出ないように言い付けられていたので、 狼が食事を調達しに出かけている間は、僕が留守番をし、家の中を掃除したり、洗濯をしたりして過ごした。そして、食糧を手に帰ってきた狼と二人で肉を解体し、夕飯に使う分の肉を取り分けて余った肉を塩漬けにして保存する。その後、二人で夕食を作り、食事をとって眠る。それの繰り返しだった。

 テツヤは狩りが上手な狼だった。「ちょっと出かけてきます」とふらりと居なくなっては、大きな獲物や果物なんかを持ち帰って来た。彼が仕留める獲物はたいそう大きいので、テツヤが一度狩りに出かけるだけで、暫く食うに事欠くことはなかった。

 しかし、狼であるテツヤとの暮らしは気の抜けない毎日でもあった。いつ背後から取って食われるかと四六時中、緊張し、夜も狭いベッドの中で真横で寝ている狼が気になって、眠れず日々を過ごした。



 ろくに眠りもせずに終始神経を尖らせている僕を見兼ねてか、ある朝、起き抜けにテツヤが言った。



「君、最近、隈が酷いですね」



 そっと頬に手が伸ばされ、指先で目の下を優しく撫でられる。



「僕が、そんなに怖いのですか?」



 そっと問いかけられた。



「僕は君を食べませんよ」


 此方の瞳を覗き込むように静かな瞳が、僕を見据える。



「正直に言うと、君はとても美味しそうな匂いがします。君から匂い立つような独特な甘い香りは非常に食欲をそそられます。そして、君も僕になら食べられてもいいと言いました。ごく普通の狼ならば棚から降って湧いた据え膳の状態に喜んで君を喰らおうとするでしょう。けれど、僕は君のことをとても好きになってしまいました。なので、君を殺して食べてしまうのは非常に勿体無いことのように思えてしまうんです。君はとても綺麗で、指一本欠けるのも勿体なくて、僕にはとても食べられません。だから、僕は考えたんです。君を食べるのはいつが良いんだろうと。そして、決めたんです。君を食べるのは、君の美しさが損なわれてしまった時にしようと」




 テツヤは淡々と事実だけを伝える無感情な声で話してくれた。しかし、意味がわからない。



「は……?」



 僕の美しさが、損なわれた時? どういうことだ。テツヤが何を言っているのか、話の半分も理解できない。



「君を食べるのは今ではありません。まだ、僕は君を食べるつもりはありません。安心して下さい。赤司君」



 困惑する僕をよそにテツヤは一方的に話をまとめ、無表情に僕の手を取り、手の甲に口付けた。



「君は非常に美味しそうな獲物ですが、僕は君のことが好きです。君は僕の大切な恩人でもあります」



 やはり、テツヤの言葉の意味がわからない。恩人とはどういう意味なのだろうか。僕は彼と出会った記憶がない。僕達はどこかで出会ったのだろうか。

 こちらを見上げる静かな瞳の奥で、狂おしい程の熱気が揺らめいているのが見えた。それが、獲物を前にした獣性によるものなのか、それとも、燃え上がるような感情を秘めた人間性によるものなのか。その瞳の熱情がどちらのものであるかは僕には判別がつかなかった。
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