その他

□黒子のバスケ
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 翌朝、酔いが覚めた父は今にも死んでしまいそうな顔をしていた。汚れた体で床に寝転がっている僕をベッドの上から見下ろして、頭を抱えていた。



「父さん。あの……」



 憔悴仕切った様子の父を見かねて呼び掛けると、ビクリと父の肩が震えて大きく見開かれた瞳がこちらを見た。まるで、断罪を恐れる咎人のような反応をされて「水でも持ってきましょうか」と続けようとした言葉が引っ込んでしまった。



「おれは、悪くない……」



 父が僕を見て言った。一瞬、何を言われたのかわからなかった。発言の意図が掴めずに言葉の続きを待って相手を見上げる。そんな視線から逃げるように父はフイと僕から顔を逸らすと、フラリとベッドから立ち上がった。



「お前のせいだ」



 ボソッと呟いて小屋から出て行った。引き止めるどころか、声を掛ける間もなかった。仕事に出掛けたのだろうかと思ったが、道具も持たずに出て行ったのでそれはないなと思い直す。父は何処に行ったのか……。ひとり床に座りこんだまま、父が残した言葉の意味を考える。しかし、体中がズキズキと痛くて、おまけに汗やその他の体液で全身がベタベタして不快でそちらに気を取られてしまって、思考が上手くまとまらない。ひとまず、裏の井戸で身体を清めようと腰を上げた。

 身体を洗い清めて家に戻り、服を着た。出て行った父のことを考えると、ジワジワと気持ちが暗くなってきたので、気分を変えようといつも通り家の中を掃除することにした。窓を開けて空気を入れ替え、汚れたシーツを洗って外に干し、窓を拭き、床を掃いて、さらに雑巾がけをする。何も考えずに一心不乱に掃除をしていると、玄関の扉が開いて父が帰ってきた。



「父さん。……おかえりなさい」



 特に返事はなかった。父の腕に大きな赤い布が掛かっていた。



「お前にコレをやる。今すぐ着るんだ」



 赤い、色。

 以前、酒を飲みながら管を巻いていた父が言っていた。自分達も赤い服を着たほうが良いのかもしれないと。自嘲するように笑う父の横顔を見つめながら、赤い服の意味を尋ねると、赤を身に付けるのは限られた人々だと教えてくれたのだ。肉体を売る娼婦、囚人の刑を執行する刑史、異教徒、流れ者の賤民、自殺者、難病患者や障害者などあらゆる種類の落伍者が身に付けるべき標識なのだと教えてくれた。

 僕はこの家から出たことがないので社会情勢や一般的な常識を知らないけれど、父が言うには赤い色は昔から不吉を示す色とされており、幾つかの都市では赤い色を身につけなければならない決まりもあるのだという。

 赤い色については、実際に赤毛赤目の父が、オッドアイの不吉な赤毛の息子諸共、迫害を受けて村を出て行った経緯がある。父は、町に薪や細工物を売りに行くときもできるだけ赤毛を隠すために帽子を被って出かけていた。赤は社会の嫌われ者、鼻つまみ者を差別するための色だなのだ。結局、その時の父は酒を飲みながら自身の現状に愚痴を溢したものの、以降も赤い色を身に付けることは一度もなかった。

 そのようないわれのある服を着ろと言われて、正直、少し戸惑ったけれど、せっかく時間をおいて落ち着いたらしい父の機嫌を損ねたくなかった。父の言うことは絶対である。



「ありがとうございます」



 敢えて何も聞かずに差し出された服を受け取る。渡された服は血のように真っ赤なフード付きケープだった。

 不吉な赤目に邪眼の瞳と忌み嫌われたオッドアイ。悪魔の色とされた赤毛に、異端者を示す赤い頭巾。もしも、こんな姿を衆人環視の中で晒すことになったら、悪魔の使いが現れたぞと周囲が大騒ぎになり、すぐさま教会に密告されて異端審問に掛けられてしまうだろう。どうして、父がこんなものを僕に着せたのかわからなかった。

 それから、固く干からびたパンが一つだけ入った小さな袋を手渡されて、森へ連れ出された。行く先はわからない。日頃から無駄口を嫌う父に何も聞けないまま、深い森の中をただ黙々と付いて行く。初めて入る森の景色を楽しむ余裕もなく、父の後ろ姿だけを見つめてひたすら足を動かした。途中、不気味な鳥の声が辺りに響く。初めて聞いた気味の悪い鳴き声に驚いて、思わずビクッと肩が跳ねた。鬱蒼と繁った森は進めば進むほど木が幾重にも折り重なってどんどん暗くなっていく。しかし、目の前の父は慣れているのか全く動じた様子もなく進んでいる。その大きな背中に心強さを感じつつも、歩けば歩くほどジワジワと嫌な予感が高まっていき、頭の中で警鐘が鳴る。

 目的の場所に辿り着いたらしく、父が足を止めた。



「仕事がすんだら迎えに来てやる。此処で待っていろ」



 手早く焚き火を起こすと「そこを動くな」と言い付けて去って行った。僕は「わかりました。父さん」と答えて遠くなっていく父の背中を見送ることしかできなかった。

 父の姿が完全に見えなくなってから、ようやく火の傍に座り込む。何となく父が迎えに来ることはないだろうなという気がした。しかし、父は迎えに来ると言ってくれたのだ。今も 遠くで木を切る音が響いている。父が仕事をしている音だ。そう自分を言い聞かせた。それをどこか嘘臭く感じながら、父が焚いてくれた炎の揺らめきをじっと見つめる。父を信じたかった。けれど、本当は此処に置いて行かれた時点でわかっていた。自分は父に捨てられたのだと。しかし、受け入れたくなかった。こんな惨めな現実を認めるわけにいかなかった。最後の最後には、きっと父が迎えにきてくれる。そう信じていたかった。だから、父の言い付けを守って此処を動くわけにいかない。心の奥底で諦めつつも、ほんの僅かな期待を捨てきれずに、見たくもない現実から目を逸らすように目を閉じる。真っ暗な瞼の裏で、波のように押し寄せる心細さを感じて、父から貰った赤いケープを手繰り寄せて体を縮こまらせる。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。気が付くとすっかり日が落ちていた。父が焚いてくれた焚き火は消え、冷えが体を締め付けていた。父は迎えに来なかった。真っ暗な闇の中で木を切る音がまだ響いていた。おそらく、この音は木に枝か何かを結び付けて風で音を鳴らす単純な仕掛けなのだろうと容易に想像が付いていた。

 改めて、しかし、はっきりと理解した。やっぱり自分は父に捨てられたのだと。それがどんなに惨めなものであろうと変えようのない現実だった。

 最近、薪や細工物の売れ行きがパッタリ売れなくなっていた。僕と父が住んでいる地方一帯を飢饉が襲ったせいだった。物が売れないせいで毎晩、父は酒を飲み、愚痴を溢し、時には僕に酷く当たり散らした。町の人々は明日のパンを手に入れるのに精一杯で薪や細工物を買う余裕がなくなっていた。その余波は容赦なく我が家を直撃し、パンどころか麦も買えず、薄味のオートミールを作って啜ることすらできない程に生活が困窮した。

 そして、ますます酒に溺れていった父は、とうとう実の息子である僕を襲った。

 神に背き、愛する妻を裏切り、近親相姦という禁忌を犯してしまったのだ。その罪の重さに耐えられなくなった父は僕を切り捨てた。疎ましくも愛する妻の面影を残した忌まわしい子供をとうとう捨てることができたのだ。あらゆる意味で厄介払いができたという訳である。

 周囲は真っ暗だった。火が消えた焚き火の跡を見つめながら途方に暮れた。どうしたら良いのかわからなかった。家には帰れない。帰り道がわかったとしても、父に捨てられてしまった以上、家に戻るわけにはいかなかった。見慣れぬ森の夜闇に、底知れぬ恐怖を感じた。何処か遠くで獣の叫び声が聞こえて、体が勝手に震えた。ふと、何かに見られているを感じて振り返ると繁みの向こうからキラリと光る何かを見た。夜行獣の目だ。遠目で影になっていてよくわからなかったが、一度気が付くとそこかしこで自分を見つめる視線を感じた。ゾッとした。恐怖で足が動いた。振り返ればそこに狼がいるかもしれない。何かに追われるように先の見えない森の中をひたすら進んだ。

 月明かりが届かないほど深い森の奥を当てもなく延々と歩いた。ずっと歩き通しで体は疲れきっていたけれど、足を止めることはできなかった。足を止めた瞬間に、背後から襲いかかられそうな恐怖がべったりと張り付いて離れなかった。疲労して疲れきった頭の中は空っぽで、棒のように強張った足を人形のように動かしていると、大きな木の根に躓いて転んだでしまった。その際に粗末な靴は破れ、膝小僧は擦りむき、腕は枯れ枝で引っ掻いてしまった。

 倒れた体は鉛のように重く、起き上がろうとしても力が溜まりに溜まった疲労が覆い被さって体が起こせない。段々と頭の中が微睡んできて何も考えられなくなる。このまま誰にも知られることなく独りで朽ち果てるのだろうか。獣に食われて死ぬか、寒さに耐えられなくて凍え死ぬか。どっちだろう。そんなことをぼんやりと考えた。薄れ行く思考の中でぼんやりと父の顔が浮かぶ。



「とう……さ……」



 重たい瞼がゆっくりと閉じていく。何も見えない。何も考えられない。途切れ途切れだった意識が水底に沈み込むように落ちていった。
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